オペラ・コミーク「機械設計士"大沢純一"のヨコハマでの愉快な日々、そして妖精"つみちん"の悲劇」第二幕
■第二幕 妖精"つみちん"の悲劇――グリの都、珍の魔法使い
続きを読む屑籠の歴史 ラカン-ジジェクと読む最悪の百合作家「中里十/西在家香織派」
ひとりひとり見れば、人間は、多少とも理性的外見を呈しており、食べたり、眠ったり、頭を使って悪事を企んだりする。だが総体としての人間は、変わりやすく、不可解で、気まぐれで、愛嬌がある。つまり、人間ひとりひとりはまさに人間であるとしても、人間全体は女なのである。
G・K・チェスタトン『新ナポレオン奇譚』
僕が書こうが書くまいが、どうせ何か別の意味を探そうとするに決まってる。僕の沈黙のなかにだって。そういう連中なのだ。いくら理屈を言っても無駄、啓示には盲目なのだ。マルクートがどうしたと言うんだ。マルクートはマルクート、それだけのことさ。
すべてを包括するキリスト教的態度――パウロの有名な言葉、「男も女も存在しない、ユダヤ人もギリシア人も存在しない」から必然的に出てくるのは、キリスト教共同体への編入を受け入れない者たちの完全な排除である。
親愛なる読者の皆様は如何お過ごしだろうか? 精神が悪化したり、親族との関係を断ち切るべく弁護士との対話のシミュレーションしたり、大変だがなんとかやっています。それはまぁいいとして、去年私は、「崇高なる力の百合論」というジジェクを濫用した百合論の草稿を書き(今すぐに書き直したい出来なのだが!)、そこで百合の定義について、歯切れよく答えるのは難しいと書いた。それはなぜか? かつて(ゼロ年代ネットでは)百合は女性同士の恋愛やそれに親しい関係を取り扱ったものという認識が一般的であった(少なくとも2chやふたばでは、その論調が支配的であったと記憶している)しかし昨今における「最高」の百合作家たちは、百合とは必ずしも愛情を意味せず、友情や憧憬、憎悪など複雑で多様で、時として巨大な感情が交錯するものだと説き伏せ、「排他的」であった百合を、「寛容」なジャンルへと変えてみせたのだ。確かに、絆のあり方が社会的に定められていないのが百合の強みではある。だがこれは「非-レズビアンの立場」を必要とする百合を無味無臭なものに変える行いではないだろうか?
最高の百合作家たちの無邪気な百合への賞賛が、いわばジャスティン・トルドー的な(という言い方も語弊を招くだろうが伝わりやすいだろう)、リベラル民主主義における寛容の態度――寛容は傲慢が付き纏う宿命に――脱政治化された市場経済であるグローバリズムの論理に重なると今更ながら気付き、私ははっきりと百合を定義付けることができるようになった。
いつか百合は歴史の中で光の中へ消滅し――意識などされなくなるだろう。それまでにおびただしい百合が塵となっては忘れ去られていく運命にある。しかし歴史に屑籠あり、そして屑籠にも歴史が有りだ。
本稿は最悪にして唯一無二の百合作家について語ったものだ。
そして前期中里の集大成、入手困難と諦めていた同人誌『百合史・百合論』にお目にかかる事が出来たがゆえに、執筆が可能となった――というよりは使命感に駆られて書いた。クトゥルフ神話に登場する邪教の魔導書を読むが如く、手を震わせながら読んだ。俯瞰的、網羅的な本であり、文字が我らの道を照らす未来回路を構成している玉稿である。この卓越した同人誌(十七年前だが、色褪せない!)を読まずして百合を語ることは、マルクスやフロイト抜きで二〇世紀を語るようなものだろう。
この圧倒的な力を前にすると、自分の至らなさに眩暈がする。
しかし、不合理ゆえに吾ら為し、続く者たちを望み待とう。
おまえたちが不甲斐なく、自らの創造性に怠惰を貫くから、私のような、おそらく適役とは程遠い人間が中里について講釈を垂れるハメになった。例えるなら盲人が象を語るようなものだろう。しかし目が見えぬ盲人には手があったのだ。
続きを読む生者に取り憑く死者 めておろぎーの他者論のーと
序章:死、死者、死霊――他人事デハナイ!
生が死に対立するなどと言わぬように気をつけよう。生けるものは死んでいるものの一種でしかなく、それもきわめて稀な種なのだから。
フリードニヒ・ニーチェ『悦ばしき知』
ふとした瞬間、我々は死者の事を考え―想起し―思い馳せる。
それなりに長く生きていれば、時折、身近で親しい人間が死する―此岸から彼岸へと旅立ち―唯物論的世界観での永遠の別れを経験するのは必然と言ってよい、避け難い運命であろう。身近でない人間についてであるならば、またかと飽き飽きする程の怒涛の勢いで、強迫的なまでに「死んだ」というメッセージが我々に届けられる。昨日も今日も明日も、毎日毎日毎日必ずあらゆるメディアから誰かが死んだというメッセージが通告されている。
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