【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

うごくちゃんの訃報に接して

 うごくちゃんが亡くなった。

 私は彼女を熱心にチェックしていたとは言い難い。時折チャンネルをチェックして、気になったものがあれば見てみる、そのくらいの距離感で楽しんでいた。それでも私にとっては代えがたいyoutuberであった。その距離感のお陰で、最近精神病院に入院させられていたことなども今更ながら知ったが驚きはしなかった。まぁ、そうなってもおかしくはないと。死因は明かされていないが、何か思い詰めていたのは間違いないだろう。端的に言って、ショックを受けたが、ほっとしたような気もした。坂口安吾が『堕落論』の中でこう述べていた「数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。」

 安吾が思ったように、一生を正視するに堪えないような気がしたから、私は彼女の死に少しばかりの安堵を覚えたのだろうか。

 

 人間は一人では生きていけない。生きていくために誰かとの繋がりを、言わば絆を必要とする。聞こえのよい言葉だが、「絆」とはよいことばかりではない。時として人を縛り留める呪いとして作用する。孤独になることを恐れて、腐敗した絆に引き摺られることを大抵の人間は仕方がないと力なく笑う。子供との絆とは、軋轢に苦しみ離婚を考える父と母を、婚姻制度に縛り付けておく為の枷である。「絆」とはよく言ったもので、語源は犬や馬などの動物を繋ぎ止める道具から来ているのだからそうなるのは当然だ。人が殊更に絆絆と強調する時、例えば新自由主義の政治家が家族親族の絆の大切さについて語る時、本当は「社会保障の削減」を叫びたい魂胆がある。生という苦痛から解き放たれる為に崖から飛び降りようとしても、足首に繋がれた絆がそれの邪魔をする。結んだ絆が強固であればあるほど、雁字搦めになってしまった時に激しく縛られる。

 

 彼女のことを知ったのはおよそ三年ほど前になる。ある人から薦められて視聴してみた。私は所謂DTNのファンボ(※プロゲーミングチーム「DeToNator」のファンボーイのこと)であり、stylishnoobやSPYGEAなどの影響を受けた言動をしがちなのだが、その人はうごくちゃんに影響を受けた言動をしていた。イデオローグ――と呼ぶのは大袈裟だろうが、彼女たちのような有名配信者は、人々がつながる切っ掛けを提供してくれた。その絆にうごくちゃん自身、苦しめられていたのかもしれないが。

 

 繋がりは脆いものかもしれない。強すぎて絡め取られるかもしれない。時の試練に耐えられずすぐに風化してしまうものかもしれない。心地よかった繋がりも、いつかは自縄自縛の鎖に変わるかもしれない。絶対に思えたそれは、一時的な慰めに過ぎないのかもしれない。しかしその繋がりによって一歩踏み出して、新たに紡ぎ出せた繋がりがある。負の循環と化した絆を断ち切ることが出来るのは、また新しい繋がりであり絆だ。消えたり、増えたり、変化していく。人と人、何かと何かの繋がり、その連鎖こそ、生命の系譜だと私は思う。

 

 彼女が死んでも、私の人生から完全に消えた訳ではない。今生の別れではなくとも、冀っても二度と会えないであろう人々がたくさんいる。その人達に言い残したことは無数にあり、しかしそれを伝えるための徒労に取り組むこともしない。彼女たちは自分より先の場所に行っただけだ。そこへ自分も行った時、今度こそよりよい繋がりを作れるように生きていきたい。そう思えることが、彼女が私たちに残してくれた絆の証左だ。