【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

屑籠の歴史 ラカン-ジジェクと読む最悪の百合作家「中里十/西在家香織派」

ひとりひとり見れば、人間は、多少とも理性的外見を呈しており、食べたり、眠ったり、頭を使って悪事を企んだりする。だが総体としての人間は、変わりやすく、不可解で、気まぐれで、愛嬌がある。つまり、人間ひとりひとりはまさに人間であるとしても、人間全体は女なのである。

G・K・チェスタトン『新ナポレオン奇譚』

僕が書こうが書くまいが、どうせ何か別の意味を探そうとするに決まってる。僕の沈黙のなかにだって。そういう連中なのだ。いくら理屈を言っても無駄、啓示には盲目なのだ。マルクートがどうしたと言うんだ。マルクートはマルクート、それだけのことさ。

ウンベルト・エーコフーコーの振り子』下

 すべてを包括するキリスト教的態度――パウロの有名な言葉、「男も女も存在しない、ユダヤ人もギリシア人も存在しない」から必然的に出てくるのは、キリスト教共同体への編入を受け入れない者たちの完全な排除である。

 

 親愛なる読者の皆様は如何お過ごしだろうか? 精神が悪化したり、親族との関係を断ち切るべく弁護士との対話のシミュレーションしたり、大変だがなんとかやっています。それはまぁいいとして、去年私は、「崇高なる力の百合論」というジジェクを濫用した百合論の草稿を書き(今すぐに書き直したい出来なのだが!)、そこで百合の定義について、歯切れよく答えるのは難しいと書いた。それはなぜか? かつて(ゼロ年代ネットでは)百合は女性同士の恋愛やそれに親しい関係を取り扱ったものという認識が一般的であった(少なくとも2chやふたばでは、その論調が支配的であったと記憶している)しかし昨今における「最高」の百合作家たちは、百合とは必ずしも愛情を意味せず、友情や憧憬、憎悪など複雑で多様で、時として巨大な感情が交錯するものだと説き伏せ、「排他的」であった百合を、「寛容」なジャンルへと変えてみせたのだ。確かに、絆のあり方が社会的に定められていないのが百合の強みではある。だがこれは「非-レズビアンの立場」を必要とする百合を無味無臭なものに変える行いではないだろうか?

 最高の百合作家たちの無邪気な百合への賞賛が、いわばジャスティン・トルドー的な(という言い方も語弊を招くだろうが伝わりやすいだろう)、リベラル民主主義における寛容の態度――寛容は傲慢が付き纏う宿命に――脱政治化された市場経済であるグローバリズムの論理に重なると今更ながら気付き、私ははっきりと百合を定義付けることができるようになった。

 いつか百合は歴史の中で光の中へ消滅し――意識などされなくなるだろう。それまでにおびただしい百合が塵となっては忘れ去られていく運命にある。しかし歴史に屑籠あり、そして屑籠にも歴史が有りだ。

 

 本稿は最悪にして唯一無二の百合作家について語ったものだ。

 そして前期中里の集大成、入手困難と諦めていた同人誌『百合史・百合論』にお目にかかる事が出来たがゆえに、執筆が可能となった――というよりは使命感に駆られて書いた。クトゥルフ神話に登場する邪教の魔導書を読むが如く、手を震わせながら読んだ。俯瞰的、網羅的な本であり、文字が我らの道を照らす未来回路を構成している玉稿である。この卓越した同人誌(十七年前だが、色褪せない!)を読まずして百合を語ることは、マルクスフロイト抜きで二〇世紀を語るようなものだろう。

 

 この圧倒的な力を前にすると、自分の至らなさに眩暈がする。

 しかし、不合理ゆえに吾ら為し、続く者たちを望み待とう。

 

 おまえたちが不甲斐なく、自らの創造性に怠惰を貫くから、私のような、おそらく適役とは程遠い人間が中里について講釈を垂れるハメになった。例えるなら盲人が象を語るようなものだろう。しかし目が見えぬ盲人には手があったのだ。

 

はじめに:最悪の百合作家

非-レズビアン ヘテロ男性によって

 百合作家、中里十(商業では中里十、同人では中里一と使い分けている。Twitterでは前者。後者として個人サークル「西在家香織派」として活動)をご存知だろうか。イラクバグダッド生まれ(自称)、アフガン紛争に巻き込まれ銃を取った痛ましい経験を持つ(戦闘には参加しなかったと言っている)、九十年代から百合の可能性を見出し奔走してきた東大のインテリであり、栗本薫の小説道場門下生であり、ヘテロ男性おたく向けの象徴であるかつてのアキバや、女性のためのものとしてかかれた少女まんがやBLにも造詣が深い。おたく文化だけでなくプログラミングやロードバイク?などにも精通している。そして『どろぼうの名人』『いたいけな主人』『君が僕を』という哲学的、流麗で耽美な百合小説を、黎明期であり黄金期のガガガ文庫から世に出した稀有な小説家である。

 

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 二十年以上、百合の波及へ尽力している男ではあるが、彼の努力がじゅうぶんに報われた、とは思えない。彼の小説も、ことばも、到底理解されていないのが現状だ。もちろん商業的に成功したとも言い難い。中里の商業デビューと近い時期に発表された、伊藤計劃『ハーモニー』はメディアミックスにも恵まれ、いまだに評論の対象となるが、中里については「かつての百合の大御所」「中里は唯一無二」というように、歯切れの悪いことばで断片的に語られるのをたまに見るくらいだ。しかしそれは当然の帰結でもある。なぜなら、中里は百合作家として最悪だからだ。

 

 中里の同人百合ADV『希望入りパン菓子』への、一般的だろう反応を引用する。

かなり理屈っぽい上に、時々書き手以外の誰にもわからない論理が延々と展開され、読み手が置いてきぼり状態になってしまうんですね。文章自体が難解なのではなく、単に飛躍があったり説明不足だったりするのが原因で、せっかくのストーリーを失速させてしまっているような印象を受けました

ブログ『石壁に百合の花咲く』

https://www.ishiyuri.com/entry/2004/09/16/000000

 これまで多くの百合の表現が試みられてきたし、またこれからも百合に対する万全の理解を得られていない世の中で百合は書かれて、そして書かれていくだろう。その中でも、中里の小説や文章は最悪である。分かりにくい、難解だし、衒学的で、気取っていて、お高くとまっている、えらそうにしていて、もったいぶって、ヘテロ男性が漏れ出していて、ジジェク笙野頼子を引用し、TwitterでJのカッスレとかをネタにしたりもするけれど微妙に時流を外していて、書き手以外の誰にも解らなそうな論理を展開し、ダリフラみたいなお笑い番組に対しても黒人が出ていないと執拗に怒ったりする、甘美で整った文体ではあるがどこかスムーズな読解を拒むような雰囲気を纏っていて、読者は――特に私のような学のないミヤザキ男は、中里によって狐につままれたような読書体験を味わされるのだ。

 実際、中里が提唱し、中里によって書かれた〈百合〉は、最悪の百合と言うことが出来るだろう。これまでに書かれた中里の百合以外のあらゆる百合を除けばの話であるが。

 

 そうチャーチルの演説をもじりたくなるほどに、中里は卓越している。

 私が百合の魅力に取り憑かれてから十年が経つが、『少女革命ウテナ』『少女セクト』『ファンタジスタドール』『桜trick』『フリップフラッパーズ』『私に天使が舞い降りた!』(けっこう多いな……)などの一部の作品を除けば、彼以外の書く百合など児戯にも等しい、とすら思ってしまうのだ。まぁそれは誇大だとしても、中里の作品は位相が違う、とでも言うべきか。他のどの百合作品にもない特異的な――いや、普遍的とでもいうべき――魅力を秘めている。しかし、ひとつよい知らせとして、中里以上に美しく甘美な文体で読者の胸をときめかせることも、壮大なギミックを構築して手に汗握るエンターテインメントを提供することも、熟練の小説家ならおそらく可能だろう。

 だが、東大の文芸サークル「新月お茶の会」の仲間である有村悠が、今はなき彼のブログ内で評したように。「脳が人間のイデアと直結している」と感じずにはいられない――人間への深い洞察と期待――が滲み出た物語を書くのは、もしかすると栗本薫にも不可能であったのではないか。私が読んできたなかで、ここまで「もしやこいつは……」と畏怖させるのは、WEBまんが『胎界主』の尾籠健一くらいだ。

 中里は黄昏に飛び立つミネルヴァの梟ではない。日中から革命の為の武器をばら撒き、アジテーションの為に東奔西走する恐ろしい真昼の盗人の如き小説家だ。

 

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 さて、その実力と功労とは裏腹にいまや殆ど語られていない中里を、ラカンジジェクを並走させ、その理論で読解してみようという試みが本稿のコンセプトである。ブログにしては随分と長い、しかしそれでも凄まじく駆け足であるが、許せ!

【いたいけな】中里十【どろぼう】 | ログ速@2ちゃんねる(net)

 旧2chでも、やはりというべきか、読者たちはその哲学的筆致に右往左往している。ブックメーターの感想一覧も見てみよう。皆語り得ぬものについては沈黙せざるをえないというかのように、恐る恐る触れるような物言いだ。

 ここで私は口から生まれた者として饒舌さを発揮してみよう。日本でも中里よりは百倍は有名であろう、馴染み深いジジェクラカンでこの百合の怪物に対する読み方を提供しようというのだ。 ラカン派におけるジャーゴンの濫用を中里は嫌うだろうが、我々のようなアホにはばかばかしい愉快で暴力的な合言葉が必要だ。

 勿論、この読み方はゴルディオスの結び目を即座に断ち切りにいくような風情を欠いたものかもしれない。安易な理解を誘発するようなテクストを刻むのは、極めてファルス享楽的な行為で、あまりよくない。ナンセンス、あるいは芸がなく、テクストから何を損なう読み方かもしれない。だが、もし中里の小説が分からなかったという人が、理屈と膏薬をつけてみた的な(これはかつてニコニコでボーカロイドに夢中になった少女たちへのリスペクトでもある)本稿を読んで、僅かでも理解できたという気持ちになって。その後、まっさらな気分で、掴み掛かるように、中里の小説をまた開いてくれれば幸甚の極みである。

 ふだん我々は恐怖のあまり忘れていることだが、本を読むというのは恐ろしいことだ。こういった寓話がある。文盲のムハンマドの至極困難な「読み」を比喩として伝える寓話が。――大天使ジブリールムハンマドの喉を裂き、心臓を取り出してそれを洗った。それをムハンマドの身体に戻したときに、彼の心は信仰と知恵で満たされた。心浄められたムハンマドは天馬にまたがり、一飛びで千里を駆け抜けたのである、と。喉を裂き、心臓を取り出して洗った、すると千里を駆けた――読む、ということは、これくらいのことなのだ。その予行練習になれば、と願う。

 

「快刀乱麻を断つ」ような読み方を中里は嫌うかもしれないが、それでも何か意義があると信じて、誰かに届くと信じて、書く。高校生の頃『どろぼうの名人』と『いたいけな主人』を読んで、あまりの美しさに溜息をついた彼が喜んで読むように、書く。手紙は必ず宛先に届くことをナイーヴに信じ続けるのが私の特徴であり欠点であり美点であり譲れない正義である。

 

「世界は機械的にして金属的、技術的にして冷たいものになればなるほど、女性だけがあたえることのできる熱気を必要とするようになるでしょうな。われわれが世界を救いたいと思うのならば、われわれは女性をもとにしてかたちづくらなければならないし、女性に導かれるがままになり、エーヴィッヒ=ヴァイプリュヒェによって、つまり永遠にして女性的なるものによって、浸透されるがままにならなければならないんです!」

ミラン・クンデラ『不滅』

 

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 中里が奔走した90年代後半からゼロ年代よりも、遥かにジャンルとして百合は成功している。百合姫は毎月刊行されるようになったし、クールごとに必ず一つは百合アニメが放送され、おたく向けショップでは百合コーナーも珍しくない。ユリイカでは百合特集も組まれてから五年。幾原邦彦は『ユリ熊嵐』を作ったし、『やがて君になる』という「最高」の百合作品が一世を風靡し舞台にもなり、ひと昔前ならリア充と呼ばれるような若い女性たちに読まれてもいる。個人的に知り合った十代の女の子もたいてい百合には好意的であった。フェミニズムやレズビアニズムとも連動して百合は読まれ語られ書かれ、百合カフェや百合BARなるものも経営され、今や社会的な靭帯の一つとしての百合があると言っても過言ではないだろう。商業的にはBLに及ばず、コミケのコードは獲得してはいないものの、百合は既に「最高」のジャンルの一つとして君臨している。毛沢東の用語で言えば、百花斉放百家争鳴たる最高の時代である。

 しかし何かが物足りない。そう、中里が新作を出していないのだ。まさか、もう筆を折ったのだろうか? 百合による世界の革命を訴えていた男は、夢半ばで敗れ去り、歴史の屑籠へと叩き込まれようとしているのであろうか? もう自分は必要ないと考えているのだろうか? ならば、最悪の百合作家が最悪の百合を書くのをやめた今は、百合にとってはすばらしい時代であることの証左ではないか……。

 

 それは勿論穿ち過ぎた見方だろうが。有名なウィリアム・バトラー・イェイツの詩『再臨』は、中里が新作を出さない我々の目下の苦境を完璧に表現しているようにみえる。

最良の者たちは、なんの信念もなく、最悪の者たちは

強烈な情熱に満ちている

 こんにちにおける無気力なリベラル派と情熱的な原理主義者との分裂(ポリコレか、イスラムか!)をみごとに描写している。「最良の者たち」は、もはや全身で政治に関与する力をもたないが、「最悪の者たち」は、人種主義的、宗教的、性差別的な狂信的行為に関与する。現在の百合のおたく達を、症候/フェティッシュというイデオロギーの二つのモードに分類して考えてみよう。症候モードの百合おたく、すなわちリベラルという「最高」の形態は、フェティッシュという、ある種のホモソーシャルな「最高」の形態と、クラインの壺のようなかたちで似通っている。

 症候的形態は圧倒的な寛容さで、大きな物語抜きの差異を見て見ぬ振りをする理想をもくろみ、最高のフェティッシュ的形態は、カフェイン抜きのコーヒー、ニコチン抜きのタバコのような健康で安全なものである。

 最高のリベラリストたちは官僚的な匂いすら漂わせるLGBTQIA+という複雑な名称でマイノリティを呼び指して多様性をたたえあい、トランプ支持者が最低限の知性も道徳を持ち合わせていないことを批難する。最高のフェティシストたちは空調のきいた快適な部屋に閉じこもり、幼女をメスガキと呼んで猥褻RTを繰り返しては女性の権利拡大に疑問を投げかけ、Netflixで配信される血みどろのサスペンスを見て、残酷劇に飢えた異常者を標榜するのだ。もちろん彼らは実生活では礼儀正しく、犯罪などはしない。そして私はPrimeビデオで『安達としまむら』や『くまクマ熊ベアー』を再生しては、ご存知吾妻スタイルのニタニタ笑顔を浮かべ、少女たちの美しい瞬間の数々に耐えきれなくなり、心を閉ざす。

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 この「最高」が吹き荒れていることは、百合やおたくに限った話ではなく世界的な事項である。マーク・フィッシャーも語ったP・D・ジェイムズの小説を原作とするアルフォンソ・キュアロンの映画『トゥモロー・ワールド』は有名だ。イデオロギーの二つの形態が重なった――行き止まったアポリアを描いている。これはモダンの時代からニーチェが予言していた事――西洋文明が〈最後の人々〉、激しい情熱もなにかに関与する意欲もない冷血動物に向って進んでいることをツァラトゥストラは認識していた。

 戦闘的イスラム教徒に代表されるテロルも辞さない過激派やQアノンといった陰謀論者を除けば、人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉が世界を席巻し、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。そしてときどき少量の毒。それで楽しい夢がみられるのだ。症候モードのイデオロギー、その最高の極北が『やがて君になる』であり、変則的フェティッシュのモードを体現した最高の例が『少女終末旅行』である。(中里は百合についてのコラム第10回で『フェティシズムと恋愛は食い合せが悪い――とは自明のようですが、さてこの自明感は、今風の恋愛を知らない人、たとえば2世紀前や2世紀後の人に通じるでしょうか』と述べているが、確かに。百合は症候的なものだ。『少女終末旅行』については後述)

 

 確かに、どちらも素晴らしい作品である。だがこの二つの作品が賞賛されるとき、時折共通して用いられる不気味なことば――「巨大感情」に対して、われわれはたじろがずにはいられない。なにかに対する、熱烈な感情! 相互理解の前提として認識しなければならない象徴的論理の違いすら「巨大感情」という錦の御旗の下では無視できるのだ! その崇高な感情を知れば、ビン・ラディンがブッシュを抱きしめ、フセインカストロを抱きしめるに違いない。プーチンが天然資源の平和利用を提言、アブバカル・シェカウ(ボコ・ハラムのリーダー)が女性の解放に目覚め、ボリス・ジョンソンがEUへの愛を謳い、そしてバイデンが習近平とキスをする。

 感情は誰もが理解し納得できる共通項であり、グローバル資本主義における、コスモポリタン的理想を実現する為には欠かせない「最高」の通貨である。それが全面に押し出されること、「感情」が洗練された商業的やり方で操作されること、それが何を意味するか? 賢明なるめてろぐの読者方は重々承知の上だろう。「萌え」によるヘゲモニーは完成した。『紅茶ボタン』から引けば、「お客様の御世」だ。それは大変喜ばしいことだが――。

 

中里とジジェク、そして新月お茶の会

 百合と直接的には関係がない――あるのだが、やはり重要なことなので確認しておかねばならないものがある。百合が現実の女性による性的欲望を反映させた、やおいやBLを屋台骨として台頭したジャンルであることは周知の上であろう。ホモソーシャルヘテロセクシズムに比較して、フロイトが慄くその複雑な女性的欲望を解析する上で――中里を語る上で外せないのがご存知スラヴォイ・ジジェクジャック・ラカンである。商業デビューする前の、前期中里における百合革命の集大成『百合史・百合論』の謝辞にはこう記されている。

本稿はジジェクによるラカンを濫用している。それなしには本稿は成立しなかっただろう。

中里一『百合史・百合論』5P(以下YYとも)

『百合史・百合論』執筆途中である2003年の日記にもジジェクの名が記されている。

1月28日ゾンド作戦

引き続き第一章を書いている。現在までに6ページ、進捗率11%。 Xイデオロギーの試案がついにまとまった(というより時間切れになった)が、ここで説明する余裕などあるはずもない。説明のかわりに、暗号化しておこう――「〈その場かぎりのセクシュアリティ〉の支配の崩壊後に訪れる〈親密性〉イデオロギーの支配に対して、抵抗する身振りを通じた服従」。ヒント:ギデンズ、ジジェク

 中里は思想・哲学は専門ではないとどこかで語っていた。ゆえにサークルのメンバーに教えを請うたようだ。「この濫用を可能にしてくれたのが、転叫院豊氏だ。だから私は、ジジェクによるラカンを濫用したというより氏を濫用したというべきかもしれない」(YY)。この転叫院豊という人物は東大の文芸サークル「新月お茶の会」のメンバーであり、ホームページ「猫又通り」の会員紹介では東浩紀のファンと記載されている。若き宇野常寛が編集・発行した『PLANETS』という雑誌に寄稿したりとなかなか力量のある人物のようだ。はてな村の伝説たる有村悠氏が有名だろうが、「新月お茶の会」は奇人変人が集まった凄い集団だと今でも耳にする。いわば伝説のサークルと言ってもよい。現在も普通に存続しているけどね。

 そういえば有村が過去に「アドゥレセンス黙示録が公開された後、中里に会ったら『ウーーテーーナーーー!』とはしゃぎながら攻撃を仕掛けてきた(うろ覚え)」「中里が商業デビューした時、久々に会ったらあの独特の口調でマシンガントークを仕掛けてきて圧倒された(うろ覚え)」みたいな事を書いていた(うろ覚え)。

 有村は頻繁にTwitterを凍結されている為に過去のTweetが残っておらず、中里についての言及の記憶を確かめる術がないのが残念でならないが、中里がたいへんエキセントリックな人物であることは間違いない(まぁあんなもん書く奴が変人じゃなかったら逆にビビるわ)。

 

百合作家・キッチュ野郎・反ポストモダニスト

 この辺にしておこう。何が言いたいか、つまりは中里の思想・活動は、東大という〈大学の言説〉に裏付けされた、知と呼ばれる鋼に鍛えられた鋼鉄であることは間違いない。専門外とは言え、中里のジジェク(――アメリカの思想界では支配的ですらあるそのヘーゲルと結び付けられたラカン理論。小笠原普也などのパリ8卒にとっての苦々しい敵。全てのラカン派に立ちはだかる壁)は日本の少女文化、おたく文化による洗練-変奏がなされ、二〇〇三年の時点でじゅうぶんに様になっている。

 という訳で、(本人はそう呼ばれるのは嫌がるだろうが)中里はラカンの「悪しき」ひ孫弟子とでも言うべき存在なのだ。(東浩紀のファンだという転叫院を濫用してはいるが、たびたび東浩紀をこき下ろしている。更に、二〇〇八年の日記が明らかにするように、ジジェクを濫用しているにも関わらずフロイト精神分析をも虚仮にしているのだ! これは敬虔なジジェキアンからすれば、斜めから見るの冒頭に記された、精神分析に否定的なことを言ったがゆえに破滅に陥る者の条件を満たしているように思える。しかしこれはフロイトラカンを糾弾しているという訳ではなく――フロイト自身も迷走を繰り返してはいるのは承知の上で――硬直化した精神分析理論を文学に天下り式に当てはめる愚劣さを、お手軽な批評理論・文学理論に成り果てた理論を濫用する不肖の弟子どもを糾弾しているのではないか。要はポモに取り込まれた括弧付きの死んだフロイトをである、多分。そして勇猛なる中里は女おたく文化という懐刀によってフロイトと対峙している)

本稿は、ソヴィエト社会主義共和国連邦の流したおびただしい血のうえに成立している。ただし私の役に立ったのは、幻の神殿と幻のマナではなく、それを目指して演じられた罪深い劇である。犠牲者を悼むとともに、すべての発起点となったウラジーミル・イリイッチ・レーニンに感謝する。(YY,5P) 

 Twitterのアイコンは勿論われらが愛すべきレーニンだ。そしてマルクスについてもしょっちゅう語っている。すばらしいことに中里はミラン・クンデラを愛しており、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』から借用して自身を「ポモ野郎」に対置して「キッチュ野郎」と呼ぶ(二〇〇二年五月の日記より)。という訳で、〈女〉とクンデラを語った、ジジェク『快楽の転移』は必読である、というのは今度にして……。

 

 キッチュ野郎を自称するとは――ルイ・オーギュスト・ブランキが牢獄での取調べで職業を聞かれた時に「プロレタリアートだ」と誇り高く返答したように、ここからは「大きな物語こそを大事にした時代錯誤のオールド左翼」的な態度表明が見てとれる。二〇〇二年の中里一日記はおもしろく、フクヤマの「歴史の終わり」を引き合いにしてコジェーヴを罵倒していたり(フクヤマの師がコジェーヴに学んだアラン・ブルームであることを思い出そう)打倒フーコーを掲げていたり、ジジェクを学問的に支持しているイーグルトンのポストモダン論を読んで、ポモ野郎に「FUCK YOU」と中指を突き立てている。

 しかし聡明で情け深い中里は、いわゆるポストモダンの思想家たちに中指を突き立てつつも、スターリンのように問答無用で粛清する訳ではなく、罪の重さを天秤にかけてみる必要性を理解していた。最初にポストモダン概念を口にしたロバート・ヴェンチューリやジェイムズ・スターリングは告発免除、フレドリック・ジェイムソンなどの準マルキストは注意勧告程度、ドゥルーズデリダフーコーお馴染みの大御所メンツにローティは軽度、リオタールやボードリヤールは重罪。レイモンド・ウィリアムズとルイ・アルチュセールスラヴォイ・ジジェクは無罪と判決を出しているだろう、多分。

 曰く「ポモ野郎」である東浩紀には、どこか山奥の温泉で傷を癒やしてから、動ポモを黒歴史化する作業を勧める情け?を見せている。(ちなみに私は東浩紀を嫌いではない。単著はサイバースペースのやつしか読んでないけど。東の美点や功績はフォロワーのブルタ氏の話を参考にしている。一般向けには松岡正剛のここを参照されたし https://1000ya.isis.ne.jp/1755.html ちなみに東はたびたびジジェクを取り上げ、乗り越えるべき存在として認識しているようである。フォロワーの安田氏によれば、雑誌『批評空間』の功績は二つあり、AZMNを発掘し日本にジジェクを紹介したことらしい。)

 

精神分析の先かあるいは「女おたく文化」テン年代を徘徊する亡霊ラカン

脱構築主義者たちは根本的には依然として、「構造主義者」であり、享楽こそが「真の〈物自体〉であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている、と断言したラカンこそ唯一の「ポスト構造主義者」である、と。

スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』

 そしてここで話がラカンへと繋がってくるのだが――ゼロ年代評論家の一員である斎藤環については、『百合史・百合論』でも引用し、最近でも肯定的な文脈でRTするなど、ある程度は好意的に見ているように思われる。あくまでラカンの専門家ではない――いわば美味しいとこどりのラカン左派的なポジションが斎藤のずるいところである。

 しかしフロイト先生から連綿と続く「女性への戸惑い」を継承した、(性格的にも)気弱なところがある斎藤の「女性的欲望の記述不可能性」観に対しては批判的な思いがあるようだ。迂回的な物言いに終始するラカン派-斎藤環に対しての――中里の「女性の欲望」についての自信有りげな態度は――日本に特有の少女まんがやBLといった「女性の欲望」の多様な発露、それに触れ育ち読み解こうとする者にとっての矜持の現れと考えることは出来ないだろうか?「女性は何を望んでいるのか? 愚問也! まんがや小説に書いてあるではないか!」と言いたげに思えるミツリーヌ・ナカザトの顕現に我らは遭遇する。

 斎藤のラカン理解について突っ込みたくなる読者もいるだろうけど、またの機会に。

 

 フォロワーのジジェクマニア、安田鋲太郎氏が「九〇年代のサブカルユングだけど、ゼロ年代ラカンが支配的だった」と言っていたが、言われてみればそうである。(安田氏のブログは薀蓄が盛りだくさんなので一読してみては如何だろうか やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮))

 二〇世紀のおたく文化はユングであり、二十一世紀はラカンであると言ってみるのは、些か飛躍が過ぎるだろうか。(しかし、ラカンという強烈な毒を解毒するように、フロイトから訣別した「最高」の心理学者アドラーが10年代に一般のピープルのあいだで持て囃されたことを忘れてはならない)しかし、ひぐらしのなく頃に解のEDテーマが『対象a』であったことであるのだし、やはり一考に値する。ここまで来ると、中里が絶賛するウテナ幾原邦彦が、最近どこからどう見てもラカンな『さらざんまい』で進化した(幾原邦彦の表現は常に変革しており、ピングドラム以前からタイムスリップしてきた人間が『さらざんまい』と『少女歌劇レヴュースタァライト』を見れば後者を幾原作品だと勘違いさえするかもしれない)イクニワールドを披露したことを、ゼロ年代前半の中里の慧眼を保証したように理解する誘惑に駆られる。

 

 ラカンは言う――「ひとり愛のみが、享楽が高みから降りて欲望に応じることを可能にするのである」。反-哲学者としても知られ、愛について語り続けたラカンのパワフルな理論は、百合を語るにはもってこいであると。中里も全幅の信頼を寄せる訳にはいかないが使えると思ったから武器としてジジェクを利用したのであろう。フィボナッチ数列だのを作品で出されては(『紅茶ボタン』や、確か『海の底の廃墟』でも)ラカンへの愛を仄めかしているとしか読めないではないか! 主セミネール『精神分析の四基本概念』も岩波文庫から新訳で出た為、否定神学の逆襲を喰らえと小躍りしたくなる。しかしなんだかんだでラカンは敷居が高いのも事実。そしてジジェクも。

一部で大人気のラカン派哲学者、スラヴォイ・ジジェクにしたって、言われるほどわかりやすくはないし。でもさ、ジジェクもそうだけど、なんでみんな、あんあふうに文学的かつ秘教的な語り口になっちゃうわけ?

斎藤環『生き延びるためのラカン

 あの過激な思想家を簡単だという人がたまに現れるが、まったく腹の立つ嫌味なインテリ発言である。斎藤環の言うように、そんなにわかりやすくはない。『Less than nothing』二刀流で殴り殺してやろうか? エクリの英訳を果たしたフィンクの方が、一見よっぽど誠実に伝えようとしてくれている気がする。

 確かにラカンマルクス主義男は切れ味鋭く何事も軽快に説明していくのだが、ドイツ観念論の伝統やフランス現代思想についての基礎的な知識がなければ付いていけないし、バディウやバトラー、柄谷など同時代を並走する思想家も読んでおく必要があるだろう、そして煙に巻くような部分も目立つ。しかもジジェクの著書の翻訳を、三分の一近く担当しているユタカ・ナガハラという男の日本語訳はまさしく「最悪」だ。

 

 しかし、それでもジジェクラカンより遥かにわかるというのが通説である。ラカン日和見主義的で、慎重な語り口と言えば聞こえはよいが、理論の体系がある程度完成したと思いきや突然引っくり返す「最悪」の発作「ラカンVSラカン」を繰り返し、トポロジックな数学遊びにかまけてソーカルというイヤミ男のネチネチ君に批難されたり、掴みどころがないようにすら思えてくる。

 ではこう問うてみよう、なぜそんなにもラカンは「分かりにくい」のか? ラカンの「分かりにくさ」の事例は文字通り「枚挙に暇がない」。ラカンに関する番組を、フランス放送協会学術研究部が要望し、放送された『テレヴィジョン』(つまりは一般人向けに書かれた)の冒頭テクストをご覧頂こう。

わたしはつねに真理を語ります。すべてではありません、なぜなら、真理をすべて語ること、それはできないことだからです。真理をすべて語ること、それは、素材的に、不可能です。つまり、そのためには、言葉が不足しているのです。真理が現実界に由来するのも、まさにこの不可能によっています。

だから、白状しますが、この喜劇に応えようとして、結局それはくずかごゆきがいいところでした。

つまり失敗したのです。しかしだからこそ、ひとつの失策としてみれば成功しています。もっと適切な言い方をするなら、ひとつの散策として成功しているのです。

ジャック・ラカンテレヴィジョン』藤田博史・片山文保訳

 これをいきなり初学者にかましたのだ。エクリでもセミネールでも、ずっとこんな調子が続く。出典を忘れたが、ラカンセミネールに初めて参加したレヴィ=ストロースはその偉大なる精神分析家の晦渋な理論に感嘆してこう言ったのだ「さっぱり分からんね」。

 

 流石にラカン大先生の晦渋さには劣りはすれど、中里の思想や小説は難解で分かりにくいと隣近所で太鼓判である。正味ファンボのめておですら、ラカンよりは分かりやすいが、ジジェクより分かりにくいという評価を下さざるを得ない。

 じっさい、イタリア未来派芸術やフランス文学を好む友人に『君が僕を』を渡したところ、「これが一般的なライトノベルでないことは分かる、純文学だね。文体が泉鏡花に似ている」という苦しい反応が帰ってきたし、ドゥルーズを読みこなす「YA PUMP」のメンバーですら、中里一日記に対して「もっと平易に書けないものか」と困惑したものである。やはりネットでみられる中里への感想の殆どは「耽美で哲学的」「理解できたとは言い難いが、面白かった」「幻想的」といった、ある種の敗北宣言の如き紋切り型ばかりである。

 まさしく「理解されなかったことば」である中里のテクストが、黄金期の輝かしさはミケーネ文明の如く消滅し、もはや屑籠を意味するようになったガガガブルーの中に埋もれている。いまだに『ささみさん@がんばらない』のバナーが侘びしく残っているガガガ文庫のウェブページを見るたびに、私は荒んだ廃墟をそこに見出し哀しみの涙を流すのだ。『GJ部』のOPを聴いた時の脳髄にションベンを入れられたときのような痛みを思い出す。クソガキの遊び場として有名なBO2のTDMで催されたGJ部アイコンのサルどもの白痴じみたカーニヴァルが眼前に蘇り吐き気を催すのだ。

 

セックス中の男女の前に突如現れては百合を説く煙突掃除人

 分かりにくく書く人には二種類がある。

 一つは「むずかしいことを言う」ことが知的威信の一部だと思っている人々である。このタイプの人間は、己の博覧強記を開陳するばかりで、「私は賢い!」という以外には読者に向って特に伝えたいメッセージがあるわけではない。この手の輩が「むずかしくない」「わかりやすい」ことを言う場合、自分たちと意見の違う者や、目立つ出る杭、もしくは失敗した人に対して、さぁみなで石を投げるのだと犬笛を吹く場合がほとんどである。こういうものはさらっと読み流しておけばよろしい。

 

 勿論、ラカンや中里の難解さはそのような装飾的難解さではない。この書き方は、いっけん「何が言いたいのか分らないように」書いているかのように思える場合がある、しかしそれは彼らの側に「言いたいことがある」というよりはむしろ、読者に「何かをさせる」ためである。ここで警告-思い出して欲しいこと、文章を読むひとがゆめゆめ忘れてはならないのが、留意なしに「読めばわかる」というのは嘘であることだ。

 まぁめてろぐの読者なら周知の事実だろう。しかしこれは意外に思えるかもしれないが、中里は読者に無限の信頼を置いている。ナイーヴに、軽信なる悪徳をなしていると糾弾することもできるくらいに。

西在家香織派を贔屓にしてくださった読者諸氏に、まだ時期尚早ながら、感謝する。百合を繁栄に導くのは、読者諸氏のはずだから。(YY)

私は読者を無限に信頼している。その超人的な視力、妄想力を信頼している。作者の素性くらい、妄想力を駆使して、やすやすとデッチあげてくれるはずだと信じている。

中里一日記: ニセ自伝文学

  これを読み、私はラカンが「子供のディスクール」と名付けた問いの形式へ脳内でショート(短絡)した。子供の問いとは、それをひとたび発した後は、問いかけられている当の「なぜ?」に決して追いつくことができないように構造化された問いのことである。ジジェクの有名な、空の青さの理由を親に問いかける子供の逸話でもある。

〈他者〉の欲望は、主体にとって、何かうまく納まらないものとして、〈他者〉のディスクールの欠如として、捉えられます。子供が発するあらゆる「なぜ?」は、ものごとの理由を求める貪欲さを証言しているというよりも、むしろそれは大人を試すもの、すなわちいわば「なぜそのことを僕にいうのか?」という問いなのです。この問いは、大人の欲望という謎を土台として、つねに繰り返し呼び起こされます。

ジャック・ラカン著 ジャック=アラン・ミレール編『精神分析の四基本概念』

 そのとき、娘が私に訪ねた。幼稚な意地悪をしかけるつもりの顔で。

「どうして空は青いの?」

中里十『君が僕を』15P

 光輝脅迫。露出せよ、と現代文明は言う。あらゆるものがエビデンス主義の光で照らしだされ、もはや心の中に闇を飼うことなど不可能に近いのだ。エリート達はジョブズの遥か前から禅やヨガのような身体的実践を通して人間の宗教的感情の根底にあるかもしれない精神生活の忘れられた古層を蘇らせることが出来ると考えた。その俗説に肩を竦めつつ、フロイトがシラーから引いたあの名高い一句を呟かずにはいられない。

この薔薇色の光のなかで息のできる者は、喜んだらいい。

フリードリヒ・フォン・シラー『潜水者』

 残念なことに、現在は「すべてが分かっていないといけない」という強迫神経症じみた幼稚な考えが蔓延る世の中である。賢いわれわれが理解出来ないものなど、教養をひけらかす気の利いたひとことが言えないものなど、あってはならないのだ。英米式の学術論文に、中枢的な知的制御に不服従を決め込むような――情報やデータベースから逸脱していくものなど、書き手の知力が足りないに決まっていると彼らは言う。ほんとうなら、自分にはあれが分からなかった、それでいい筈だ。しかしそんな書き方をする失礼な人間の文章など、読むに価しない、資本主義社会では需要がない……と「理解」され価値のないものと烙印を押される。安易な分析を拒むことが許されぬ、いわば悪しき教養主義の世界である。私が宇野常寛の提唱する遅いインターネットを必要と考え、つとむ会を立ち上げたのはまさにこういった理由からである。ドゥルーズ曰く堕落した情報があるのではなく情報それ自体が堕落なのだ。

悪しき教養主義のほかにも、「社会主義リアリズム」や「皇国の道」のようなアクチュアリティを目指すこともできる。プラトンは『国家』で詩人追放論を唱えた。

中里十『解放区としての百合』(ユリイカ百合特集)

 この罠に嵌まらずに生きることは、途方もなく困難かもしれない。私は常にこの罠に足を取られていないか自問自答している。しかし、それゆえに、百合に対して真剣に考えることはおもしろく、どこか爽やかな解放感をわれわれに与えてくれる。手は汚れ真っ赤に染まった今だからこそ、解放区へわたしは行きたいのだ。

 そろそろ自由を手にする為――それを尽くすのは野暮――ナンセンス、と言ってもよい。しかし、かんたんではあるが、軽快に、少しだけ輪郭に触れるように、中里の書いたものと戯れてみよう。一応未読の読者に配慮してネタバレは最低限にとどめる(ネタバレで面白さを損なう類の作品群とは思えないが)。おそらく、『いたいけな主人』における講釈の途中辺りで、賢いおまえたちは、たましいで理解するだろう。

僕らは命に嫌われている。

さよならばかりが好きすぎて本当の別れなど知らない僕らは命に嫌われている。

カンザキイオリ reat. 初音ミク『命に嫌われている。』

 

 ヘーゲルが示したように、白い左官であると同時に黒い煙突掃除人であることは出来ない。ラカンの用語をその正確な意味で用いれば、第三の要素――キルケゴールの言う煙突掃除人は実際はファルス的要素を表している。いかにして? 煙突掃除人が純粋な差異を表しているかぎりにおいて。つまり、役人、メイド、煙突掃除人の三者が対応しているのは、それぞれ男性、女性、ここに加えられる男性と女性との差異そのものである。

 煙突から突如侵入しセックス中の役人とメイドの前に現れた煙突掃除人が掃除するのは、ペニスという煙突か、あるいはヴァギナという煙突か――それとも両方であるだろうか?

 

商業小説作品(ガガガ文庫

どろぼうの名人

私は彼に言った。「きみはまるで弟のいない憂鬱な子供のように世界と遊戯しているんだね」

ミラン・クンデラ『不滅』

出会わなければ殺戮の天使でいられた

AKINO from bless4『創聖のアクエリオン

 第二回小学館ライトノベル大賞佳作受賞作品である。

 これはラプンツェルと魔女の物語。複雑怪奇な姉と妹の百合と言ってもいい。タイトルのどろぼうの名人は、川井愛のことだ。この作品に登場する存在は、天国行きの人間と、地獄行きの人間に分かれている。どろぼうの名人は、天国へ行ける唯一無二の存在だ。誰もいない天国に。それ以外の人間は地獄行きだという。

やがて地獄へ下るとき、

そこに待つ父母や

友人に私は何を持つていかう。

 

たぶん私は懐から

蒼白め、破れた

蝶の死骸をとり出すだろう。

さうして渡しながら言ふだろう。

 

一生を

子供のやうに、さみしく

これを追ってゐました、と。

西條八十『蝶』

 この小説には、中里があとがきで語ったように、まるで夢の論理の如く「隠し事がたくさんのお話」が幾つも織り込まれている。フロイティアンには周知の事実だが、夢の論理は隠喩と共感で出来ている。その語彙は真偽と推論でできた語彙とは欠片も重ならない。なぜこのような修辞学上の概念が登場しなければならないのか、賢明なるめてろぐの皆様には欠伸の出るようなことだろう。

 しかしラプンツェルの寓話、山賊を巡るメタ信用ゲーム、ハイデッガーの『存在と時間』、西條八十の詩、プロスペローの有名なことばが引かれる必要性を疑問に思うかもしれない。そして最後に、表題にもなっているグリム童話どろぼうの名人」は――唐突、そして冗長にも思われるこの話は、なぜ終盤差し込まれなければならなかったのか。

 

 まずは初雪と川井愛の、✕✕のかたちからみていこう。✕✕を縫い止めるシニフィアンを初雪は知らない――つまりはシニフィエを縫い止める術を知らない。これはBL-やおいに根強いイデオロギー「強姦されてハッピーエンド」へのアンチテーゼ、挑戦とも読めよう。「愛の勝利を前提として愛の勝利をかちとるための、党の勝利を前提として党の勝利をかちとるための、因果の循環した芝居」(YY,P58)への果たし状である。

「――初雪には難しいかもしれないけど、聞いて。

 いつまでも好きなのだけが、本当の好きってことなの?

 背理法でいきましょうか。命題は、『いつまでも好きなのだけが本当の好き』。

 たとえばの話。私がもし明日、初雪のことを好きでなくなったとしましょう。そうしたら、いま私が初雪のことを好きなのも、嘘ってことになる。

 明日のことは明日が終わるまで決まらない。いつまでも、だったら、私が死ぬまで決まらない。じゃあ、いま私が初雪のことを好きなのも、私が生きているうちは、ありえない。

 私はそんなの嫌。

 だから、『いつまでも好きなのだけが本当の好き』という命題は嫌。受け入れられない」

 その理屈はなんとなくわかったけれど、でも、思う。

「好きな気持ちは、期限がきたら、なくなるの?」

 川井愛は答えなかった。

中里十どろぼうの名人』P167

 劇中では幾度となく、初雪は愛を愛してはおらず、✕✕していることが繰り返され強調されている。幽閉者ラプンツェルにとって、魔女は世界に等しい。つまりは神のような存在である。絶対の神をなんとか指し示す為に、人々は否定神学の論法を持ち出し、そうでなくてはトートロジーを以って語るほかない。

どんな終わり方にせよ、愛が勝利した暁にはもう二度と、主人公が愛の価値を疑うはめに陥ることはない。幸せな家庭生活に包まれて「めでたし、めでたし」となるか、あるいは冷たい骸に変わる。[…]

つまり、愛が勝利すると、愛の価値が証明されるのだ。

 

愛には価値があるからこそ「一途な愛」が成り立つのに、愛の勝利とは愛の価値の証明にほかならない。因果が循環している。

中里一『百合史・百合論』P57,58

 こうして、〈最後の審判の視点〉のもとでは、すべてがハッピーエンドの材料となり、すべてが肯定される。受と攻は、別々の利害と人格を備えた異なる人間ではない。結局のところ二人はハッピーエンドを迎えるのであり、一時的な利害の対立はハッピーエンドの材料にすぎないのだから。

最後の審判の視点〉が世界解釈モデルとして働くとき、それが悪であることは再三述べてきた。一条テーゼを現実世界に適用とした人々は挫折した。ソ連共産党は「普遍的法廷」の判決を覆された。

中里一『百合史・百合論』P124

 

 では次に、劇中で繰り返し語られる「幽閉されたラプンツェルは、魔女に与えられるだけ」ということに少し触れる。なんとこの小説をMADにした奇特な人がいた。

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 『どろぼうの名人』を読んで、フロイトもそうだが――もちろん思い浮かべるのは交換の論理である。かつてデリダは、「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす、すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである。それはむしろ「贈与交換」と呼ばれるべきものである。真の「贈与」はそれとは異なったものだ。このときデリダの念頭にあるのは、人為的な「交換」のシステムという象徴システムと、そこに収まりきらない無限遠の彼方にある「贈与」との対立、およびその狭間にある「贈与交換」である。

 川井愛は私を、塔に閉じ込めて、見せたくないものから遠ざけて、好きなようにして、私はそれを嫌だとか好きだとかさえ思わない――そこまではうまくいく。でも私は川井愛のことを。

 ラプンツェルはきっと、そんなことは思わなかったはず。塔があるように魔女がいるのだと思っていたはず。魔女から与えられるものをただ受け入れて、与えられたものだけがこの世のすべてで、自分で手をさしのべてなにかを求めたりはしなかったはず。

中里十どろぼうの名人』P192

 塔のなか、ラプンツェルの部屋で起こることには、理由がない。きっとラプンツェルは魔女のことを、母親や姉とは思っていなかった。世界にただひとりの、自分以外の人間、それだけだった。

 それなら、どんなことでも起こる。ふたりの人間のあいだに起こることなら、どんなことでも。

[……]

「姉と娘でこんなことするなんて、おかしいね。

 おやすみなさい」

 ラプンツェルは求めず、ただ与えられるだけ。

中里十どろぼうの名人』P224

 頼まれてもいないのに解説を買って出て、それなのに読めば読むほど、「言葉は不要」と思えてくる。決して語り得ぬものではない――のだが、沈黙し、ひとり耽溺したくなる。が、これだけ言っておこう。真の贈与である「純粋贈与」は、なにか落ち着かない、神の領域に位置するものだ。この点に関しては『君が僕を』についての時に詳しく語ろう。この小説は、天国あるいは地獄の物語でもあること示し、次にいこう。

 

天国と地獄/万物を蹴散らす力の壁

バプテスト――若い、よく日に焼けた、少し太めで、いやになるほど人あたりのいい南部のヤッピー――だけは、あくまでも、自分がキリストの呼び掛けに答えることを明示的に認識して「キリストにおいて生きる」者だけが救われる、それが福音の教えだと言い、はっきりそれとわかる侮蔑の笑みを浮かべ、だから「善人で正直でも地獄で焼かれる人はたくさんいますよ」としめくくった。要するに、福音に直接基づいていない善(共通の道徳的規範を用いるもの)は、結局のところ、不誠実な善もどきであり、善の倒錯にすぎないというわけだ……。

スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』

  泥棒の終わりは天国だと川井愛は言う。ラプンツェルの魔女が死んだあとの話は、ない。狡猾に天国へすべりこんでしまう知恵者の話や、目先の欲にとらわれ地獄にゆく努力家の話ならある。だが、魔女が死んだあと、どんな裁きを受けて、どこへ行くのか、きかせてくれる話はない。童話の中でどろぼうの名人はなぜ未練がましく両親に会いにきたのか。なぜ川井愛は天国へひとりで行くのだろうか、なぜ佐藤初雪は地獄に行くだろうと考えているのか。フランツ・カフカの城や門は、万物の望みを蹴散らす不条理なる力の壁として立ちはだかる。

 大切な人に置き去りにされた我ら。やがて下る地獄に向けて礼儀正しく挨拶をしよう。業火が怖くて罪を犯さない消極的善人の為、まずは地獄の炎に水をかけて誰もが住みやすい快適な場所にしよう。やがて来る楽園を夢見て蛮勇を奮う者の為、天国に焔を放ち天使どもを皆殺しにしよう。そうして地獄に話が絶えないように、ミルトンが書くサタンのように宣言しよう。

「悪よ、私の善になれ」

 

 

いたいけな主人

いずれにせよ(「長期」という観点に立てば、)われわれは皆死ぬ。嵐の中にあって経済学者だけが言えることが、ただ、嵐が過ぎさればまた静まるだろう、ということだけなら、彼らの仕事は他愛なく無用である。

J・M・ケインズケインズ全集』4

おまえの弱点は わたしのような主人がいないことです

尾籠憲一『胎界主』無責任飛行 本戦 八

  『どろぼうの名人』のサイドストーリーという触れ込みだが、千葉が独立国となっている世界観と、物語の主軸とは離れた年表的出来事を共有しているくらいで、それぞれほとんど独立した物語である。しめ子氏のイラストがとても綺麗で雰囲気をよく表現している。挿絵の枚数も多い。高校生の頃、学校でこれを読んでいてヤンキーの辻丸くんに「それ(表紙)、エロいねぇ!」みたいな感じで話しかけられ、ホモソ百合トークで盛り上がったことを思い出す、というのは蛇足どころか失言の類か。

 まずこの小説を開いて、我々は目次を目撃して驚かされる。章題が文章に――様々な書籍から引用された――ものになっている。マルクスチェスタトン笙野頼子コゲどんぼ――詩聖の文章が、綺羅星の如く並んでいる。それに負けないだけの美麗な筆致は熟練の域に達している。

 最初の章題「誰もが私のように振る舞うことなんてあり得ないからご心配なく」というアンドレ・ヴェイユシモーヌ・ヴェイユの姉である)の自伝からの引用に、初っ端からわくわくとさせられる。例えばルソーが土地所有の起源について行った描写においてすでに示されているように――「ある土地に囲いをしてこれは俺のものだと宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会の真の創立者であった」――というばかばかしいが支配的である競争ゲームと真逆の、凛とした高潔さを伺わせる一節だ。

 

 コロナ禍を経験した我々にとって、この章題は逆説的なかたちで体験させられたことが記憶に新しい――「誰もが私のように振る舞わないなんてあり得ないから心配せよ!」。それを表す最も卑近な例が、トイレットペーパーの供給が追いつかずに一時期品切れになったということだ。

 人々はふつうこう考える「コロナウィルスが流行したからといって、トイレットペーパーがすぐ品切れになることはない。冷静に考えれば製造・供給が止まることはまずあり得ないだろう」――しかし、判断能力のない衆愚のバカどもが、トイレットペーパーの供給が途切れると信じて、店に大挙して押し寄せトイレットペーパーを買い尽くそうとしていたらどうだろう? バカでない人も、バカの非合理的行動を恐れてすぐに紙を買いにいくだろう。つまり人々は、バカの非合理性を予見した非バカの合理的思考を考慮に入れたならば、すぐにトイレットペーパーを買いに行かざるをえないのだ。私はバカを見くびって余裕をぶっこいていた為、暫くの間トイレットペーパーを買えなかった。結局のところ、私はケツを拭けなくなる恐怖に怯えるハメになったバカという訳だ。

 

 

 この小説の粗筋を端的に説明してみよう。「独立国千葉の国王に仕える護衛官は(当然どちらも女である)、国王の愛人美少女メイドとの三角関係の末、二人揃って首を切られてしまう。元護衛官は元メイドと暫く恋人として海外で過ごすが、元護衛官は国王への愛によって戻ってくる。その間に陰謀によって千葉の日本国併合が進められ千葉諸共国王はピンチになっていたが、因縁の女や元護衛官の活躍もあって危機は免れめでたしめでたし」――この小説を読破した人にとっては、この粗筋が何一つ物語の魅力を現していないことに苦笑するだろう。

 手の混んだ舞台装置が用意され、機械仕掛けの神がワイヤーを張り巡らせる、陰謀渦巻く壮大な物語であるが、驚異的なまでにそんなことはどうでもいいと思えるつくりになっている。つまるところ問題のすべては百合に過ぎない。「いたいけな主人」「子供の自己決定権」「歴史は繰り返す」という三つのテーマに絞って、この小説を読み解く試みをやってみよう。

 

いたいけな主人

 陸子陛下は十歳のとき、まだ小学五年生でありながら、全国小学生弁論コンクールに優勝なさった。コンクールのテーマは、「正義と平和」。その弁論の様子がビデオに記録されており、何度もテレビに流れたが、いつも冒頭の『耐えることは恥ではありません』という一言までしか放送されなかった。護衛官になったあとで、その理由がわかった。国王は、政治的な信念のようなものは、必要なときまで出さずにおくのだ。政治家は自分の主張によって支持を集めるが、国王はただ国王でありさえすればいい。政治的な信念は邪魔になることもある。

中里十『いたいけな主人』P80

「いたいけな主人」の文字通り、千葉国王である陸子は、あまりにもいたいけだ。国王としての責務こそ立派に務めているようだが、使用人メイドは全員中学生で揃えようとしたり、護衛官の光にわがままで無茶で嗜虐的な言動をぶつけ、十五歳である緋沙子を取り立て愛人にして「お母さんみたいなことして欲しい」とシャア・アズナブルじみた願望を抱いたり、プライベートの部分においては暴君と呼ぶのが相応しい。その振る舞いは、切実で、嘘がなく、露悪的に、痛々しく、彼女が愛するもの――彼女を愛すものに対して――「ひさちゃんは悪くない」「ひかるちゃんは悪くない」と断りつつも――まるで神の如く容赦なく試練を突きつける。

「でも、ひかるちゃんだって、そうだよね? 痛くするつもりで、言ったんだよね?

 ひかるちゃんの言ったことって、そういうことだよ。

 殴られたら痛いよね。正義とか関係なくて痛いよね。ひかるちゃんの言ったことも、そうだよ。正しいとか間違ってるとか関係なくて痛いの」

中里十『いたいけな主人』P230

 比較することのできない愛の大きさを、比較させようとするのは。『パパとママ、どっちが好き?』と共に訪ねるのは。

 愛されなくても悲しまず、愛されても怯まない、その徴。

 つまり、愛していることの証。

中里十『いたいけな主人』P240

 陸子の行いは、作中で引かれたヨブ記における神のようにも映る。「正しいとか間違ってるとか関係なくて痛い」。是か非かなどという次元を超えて殴り付け痛みをもたらす陸子の〈愛〉。さながらイサク奉献を命じられたアブラハムの寓話のように、光は陸子と緋沙子への愛情の間で揺さぶられ、苦悩する。小説の後半、光によってホメロスオデュッセイア、そのデウス・エクス・マキナ的性質〈外部〉の悲劇性が語られ――あとがきで、「設楽光の解釈に学術的には無理があります。しかし、アリストテレスが『詩学』で『オデュッセイア』の構成に難癖をつけているのを見ると、ホメロスからアリストテレスまでのあいだに、かなり重要な記憶――大戦争による楽園喪失の記憶――が失われたのではないかと思えます。」と、律儀にもわざわざ付け加えたことには、大変重要な意味があるように思える。

 レヴィナスデリダが示唆した――オデュッセウスの放浪の旅とアブラハムの流浪の旅。『いたいけな主人』を読めばこの二つの対比をどうしても思い出さずにはいられない。アドルノを参照するまでもなく――ギリシャ人つまりはヨーロッパ人の帰還の物語と、帰郷不可能なユダヤ人の流浪が――この「いたいけな主人」の放縦を理解するわかりやすい物差しとなるのではないだろうか?

「パパとママ、どっちが好き?」という答えに窮する問いを彷彿とさせる陸子の躊躇ない、さながら地獄の神罰の如き振る舞いに――まるで「私の居場所はどこにあるの?」と揺れ動く緋沙子と、緋沙子を残酷なる王から守ろうとする光に対して、幼少の陸子が凛として言い放った――政治的信念を欠いた〈現実〉的なことば、「耐えることは恥ではありません」が、まるで気付けの如く読者に――ヨブの寓話で見当違いの説法をはじめる聖職者たちを寄せ付けない。たんなる偶然-抽選によって決定された、ただ王であるということによって王である存在が、善悪の彼岸から突き付ける要請。

 陸子が捨て子である自身に緋沙子を重ねて捨てようと目論むのは、ワーグナーパルジファル』の「槍によって傷つけられた傷は、その槍によってのみ治癒される」を地で往くように、つまりは後述する象徴化による救いなのではないだろうか?

 マルクスは既にこう指摘していたではないか。ホメロスをめぐる真の問題は、古代ギリシア社会にみられる彼の叙事詩のルーツを説明することではない。そうではなく、あきらかにその歴史的文脈にルーツをもつ彼の叙事詩が、にもかかわらず、その起源である歴史を超え、あらゆる時代にうったえかける力をもつのはなぜか、その理由を説明することである、と。

 

子供の自己決定権

数十年前、フランスの「進歩的な」新聞が、小児性愛を犯罪とは見なさないことを求める膨大な請願書を連載した。その主張は、小児性愛が刑罰の対象からはずされれば、子供と大人を分離している境界線、文化的な発展を妨げている人為的で抑圧的な境界線が撤廃され、自分の身体を自由に扱う権利が子供にも認められるだろう、というものだった。このような要求に反対しえたのは、「反動」と抑圧の暗い力だけであった――請求書に署名した者のなかには以下のようなひとびとがいた。サルトルボーヴォワールデリダ、バルト、フーコーアラゴンガタリドゥルーズ〔フランソワーズ・〕ドルト、リオタール……。しかしながら今日では、小児性愛は最悪の犯罪の一つとして認知されており、反カトリック的な進歩のために勝ち取るべきものであるどころか、カトリック教会の暗部と結びついている。その結果、小児性愛に反対する闘いは、今日では反動勢力に対抗する進歩派の務めなのである……。

スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気 グローバル資本主義原理主義ポピュリズム

 「進歩的」な国では、大人が子供(日本では十八歳未満)とセックスをすることは、原則として禁じられており、大抵のばあい罪に問われる。こんにちリベラルで「進歩的」な女性が、子供、そして実際は成人しているにも関わらず幼く見える成人を、大人が性的に眼差すことへ嫌悪感を表明する様はいたるところで目にする。

どろぼうの名人』も’『いたいけな主人』も、傍から見れば、陸子も光の緋沙子への行いは性的虐待と判断されるものだろう。女同士だから、という言い訳は通用しない。中里はよく「年の差」というモチーフを扱う。

「年の差カップル」というとき、ここでは仮に、中学生以下と18歳以上ということにします。 皆様のお手元にある、志村貴子青い花』(太田出版)1巻38、39、65ページをご覧ください。「でも どのみち 無理なんだもんね」(39ページ)、「ふみちゃん 私じゃ いや? こわい?」(65ページ)。

 またこれも皆様のお手元にある、玄鉄絢星川銀座四丁目』第3話をご覧ください(どうしたことか私は今、本棚から単行本を探し出せないので、『つぼみ』を見ています)。「…乙女がよくて 私がよくても この国の法律が 許さないの…」。 百合における年の差カップルはしばしば、こういう「不自由」をモチーフにします。

 まんがを読む目でなく、ニュースを読む目で眺めれば、先に掲げた2つの人間関係は「性的虐待」という単語を呼び起こします。

 作品というのは日常生活と違って便利なものなので、両者の合意の深さや十全さ、支配・強制がないことを描けます。しかし日常生活では、そんなことを確かめるすべはありません。他人同士の関係はもちろんのこと、たとえ自分自身が当事者であっても、怪しいものです。

中里一『百合だからコラム百本 第6回』http://kaoriha.org/nikki/archives/000847.html

 子供がデリケートな性的部分に対しての判断力-決定力をもたないというパターナリズム的立場は、「進歩的」社会を成り立たせる上で「合理的」役割を果たしているように私は思うし、気高いリベラリズムを尊重する私は「援交は売る方も悪い」式の言説には大変ウンザリさせられる。(しかし性的な決定権がないのならば、どうして進路選択に関する決定権が子供にあるのだろうか? 仮に子供が要請される学習に対して怠惰を貫き高校にも行かず、結果まともな職に就けずアルコールびたりになったとして――それは、誰が悪いのだろうか?)だが、問題はこの手の議論を尽くしたところで、何か物語が、百合が面白くなるための役に立つとは、これっぽっちも思えないことだ。(お前が言うなと突っ込まれるかもしれないが)大人が子供へ、性的な行為の危険性を示すことはたやすい。しかし、子供には別の意見があるらしい。

 しかし、社会をよくする・批判するというのは、百合の興味ではありません。
 そもそも、「フィクションにおけるこういう言説は異性愛強制を維持・強化している」という見方だって成り立ちます。「『子供のときは社会のプレッシャーに弱かったから、異性愛強制社会を翼賛していた』という反省のセリフこそお馴染みになるべきだ」と言われたら、それは政治的には正しいでしょう。
 しかし、政治的に正義であることは、百合の役割ではありません。

中里一『百合だからコラム百本 第1回』http://kaoriha.org/nikki/archives/000813.html

 『selector infected WIXOSS』が放送されていた頃、「近親相姦はなぜよくないのか?」疑問を懐きながら視聴していた。一見もっともらしい、遺伝子的な不具合が生じるから――という科学的事実では説明がつかない。高齢出産における遺伝子的な問題の数々は、一度や二度の近親交配にて生じる問題よりも遥かに多い。フロイトにおけるトラウマ概念も、レヴィ=ストロースにおけるインセスト・タブーもあまりよい切り口ではないように思える。政治的に正義であるというのは、誰にとっての正義であろう? 大島弓子によれば、「あなたのために」という言葉は、いついかなる時も美しくない。緋沙子の立場、それを巡る二人の立場を複雑にしているのが、このような問題だ。

 

歴史は繰り返す

張良はある日、橋の上で馬上の黄石公に出会う。すると石公は左の沓を落とし、張良に「あの沓取って履かせよ」と命じる。張良はむっとするが、師匠の命だから、しかたなく沓を履かせる。その数日後、張良は再び馬上の石公と出会う。石公は今度は左右の沓を落として、「張良、あの沓、取って履かせよ」と命じる。張良はさらにむっとするのだが、「なほ安からず思ひしかども。よくよくこの一大事を相伝する上ハと思ひ。落ちたる沓をおつ取つて」、師匠に履かせる。すると、その刹那、「張良沓を捧げつつ馬の上なる石公に、履かせるにぞ心解け、兵法の奥義を伝へける」ということになってめでたく奥義伝授は成就するのである。

観世左近編『観世流謡曲百番集』「鞍馬天狗

  張良は、二度目の沓の落下のとき石公が「自分には分からないルールのゲームをしている」と信じ込んだ。他者の欲望に点火するもの、それは「謎」である。そしてただしく黄石公が演じたとおり、「謎」はほとんど同じ動作を二度繰り返すときに発生する。

 

 繰り返すこと。

 親に虐待されて育った人は、自分の子を虐待するようになりやすい、と言われる。陛下がなさっていることも、そのようなものかもしれない。

 ――そう考えて私は、自分の頬を、手で覆った。陛下に平手打ちされたことを思い出して。

 こうして物事は、よいことも悪いことも、繰り返すのかもしれない。それが文化とか、階級とか、民族になるかもしれない。

 でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として、二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。

中里十『いたいけな主人』P243

  陸子が自分がされたように緋沙子を捨てようと目論むこと。光がかつてのフィレンツェを夢見ること。繰り返す、ということはこの小説の重大なテーマの一つとして読める。そしてカール・マルクスのこの有名な言葉は、ヘーゲルの言葉を補足したものだということをゆめゆめ忘れてはならない。

そもそも国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初はたんなる偶然ないし可能性と思えていたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです

G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学講義』上

  プラトンから――マルクスラカンに至るまで、繰り返すということの意味について語っている。ハイデガーは『存在と時間』で「真理」は欠性的表現であると指摘しており、この「真理」と同じく、「謎」もまた単独では存在しない。何かが二度繰り返されるときにはじめて「謎」は生成する。ラカンが『自我』で語った「そもそも丁半ゲームに勝つとか負けるとかいうことは、どういうことかを考えてみましょう。一回だけの勝負では勝ち負けを言っても全く意味がありません。当たろうが外れようが同じことです。一回だけの勝負は勝ち負けといっても、それは便宜的な意味しかありません。[…]むしろ驚くべきは、勝つあるいは負けるということが続けて二回起きる場合です。」ということ。有名なポーの『盗まれた手紙』におけるデュパンが大臣を出し抜けたのは、「二度」訪問したからだ。

 つまり、ゲームが二回続き、二度続けて勝つか負けるかすると、そのとき、人はそれと知らないうちに象徴界に足を踏み入れたことになるのである。出来事も繰り返されることによって、歴史という象徴的な網にとらえられ、たしかな〈現実〉となるのだ。二度あることは三度あり、そして同じことは二度とは起こらない。物語の外が悲しいオデュッセイアと違って、象徴的な物語の中で悲しいから笑劇になる。だから陸子は緋沙子を捨てられる。

 

何もかも霧の向こう――の「historie」

百人が百人口を揃えて

その才能を認め 褒め称える者でなければ

夢を見ることさえ許されないのだろうか

 

強烈な才能と力を持たない者の

夢を叶える為の努力や

誰かの力になりたいと思うその心映えには

何の価値もないのだろうか

吾峠呼世晴鬼滅の刃』煉獄零巻

守ったJOKER もうこれだけが全て

分島花音killy killy JOKER

 などと云々、三つのテーマに絞って語ってみたが、結局のところ「だからどうした」感は否めない。ラカン先生の晦渋な理論を濫用して、もっともらしい解釈が僅かばかりであるが出来るようになった、二十六歳の私が、十六歳の私よりこの小説を楽しめているとは言えない。子供のコスパは無限大とかそういう陳腐な話をしている訳ではない。十六歳のころの彼が私よりこの小説を楽しんでいる訳でもない。

 

 ゲーテの『ファウスト』が美しい悲劇、というよりお笑いドタバタ珍道中にしか思えないのはなぜだろうか。ワーグナーのオペラにおいて、最近の歴史主義的研究は、多様なワーグナーのキャラクターとテーマが歴史的文脈においてもつ「真の意味」を引き出そうとする。例えば、青白いハーゲンは実に自慰にふけるユダヤ人であり、アムフォルタスの傷は実は梅毒であると。ワーグナーは当時であれば誰もが知っていた歴史的コードを作品の中に動員していた。ある人物が躓いたり、高いかすれた声で歌ったり、神経質そうな身振りをみせたりするとき、これがユダヤ人であることは「みんな」わかっていた、と。こうして『ジークフリード』のミーメは、ユダヤ人の戯画となる。また、「不純な」女との性交によって感染する股間の病――アムフォルタスが本当はクンドリから梅毒をうつされたことは、誰の目にも明らかであった。こうした読解の第一の問題は、努力して手に入れた筈の明察が、たとえ正確ではあっても、作品の本質的な理解にあまり貢献しないということである。実際、歴史主義的な紋切り型は芸術への接触を曇らせる可能性がある。

 

 この美しい小説から何か教訓を得るならば、小賢しく機知を総員してモチーフを読解するよりも、作品をそれが埋め込まれた文脈から抜き取ることが必要であるということだろう。私より上手く『いたいけな主人』の面白さを解説できる人は、それなりに多いだろう。しかし、その華麗で正確無比な解説をみせる彼らよりも、満ち足りてこの小説を読めるのは私、そしてあなたであって欲しいと強く願う。

 中里の小説は、ソヴィエト社会主義共和国連邦の流したおびただしい血のうえに成立している。革命、裁判、餓死、粛清、戦争、歴史の終焉という、数多くの試練を克服し続け――最悪なる赤い霧を歩み出てここにある。ソヴィエトで屑籠に叩き込まれた生死は一片の価値すら見い出すことは難しい。それは弁証法唯物論の克己ですらなく、耐えられなかった失敗の体系として畏怖された。必然にして未然である我々は、このhistorieに立ち会った意味を考え、粛々と今日を迎えよう。

「陛下、どうか私を護衛官にお選びください。

 私よりうまく陛下をお守りできる人は、ほかにいるでしょう。けれど、もし陛下の楯となって命を捧げる日がきたとき、満ち足りて死んでゆけるのは、ほかの誰よりも、この私です」

中里十『いたいけな主人』P25

  この小説と私のhistorieは因縁めいたものがある。初めてこの小説を読んだときに、なにか打ちのめされたような感覚を覚えて、今読み返しても打ちのめされる。

 人生は選ぶことの繰り返し。けれども選択肢は無限にあるわけではなく、考える時間も無限にあるわけではない。刹那で選び取ったものがその人を形作っていく。たとえば「ひかるちゃん」としか名指すことのできないなにかを。それをあとから「歴史」と呼ぶにすぎない。いや、「歴史」とさえ呼ばれることは稀だ。誰も覗きたがることのない「屑籠」のなかで忘れられ去られるだろう。でも、それでいい。

 

君が僕を

「分かるかこの話」

「すンごくよく分かります」

「なんとなく分かってもすンごくよく分かるわけねーだろが

 てきとー喋ってんじゃねぇぞ てめぇ……」

尾籠憲一『胎界主』無責任飛行 予選 四

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 まったく誠実に書かれた作品である。

 カール・マルクスの思想や理論についてに書かれた、初学者向けの本を、どれか適当に選んで開いてみたら、たいてい次のようなことが書いてあるだろう――20エレのリンネル=1着の上着=10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー=1クォーターの小麦=1/2トンの鉄=その他。そして挙げたすべて=2オンスの金。資本主義社会、ラカン対象aないしクリプキの固定指示子が出現することは、ある「転倒」によって尺度が一元化されること、そして換喩の連鎖が一箇所でピン留めすることを含意する。ここでは金によってそのピン留めはなされる。

 いっけん、この小説に出てくる恵み札が2オンスの金のように思えてきて、ついついありきたりな講釈を垂れたくなる。「恵まれさんという架空の概念によって、中里は市場における信頼関係について、貨幣経済オルタナティブを示してみた」――当然、そのように単純な物語では決してない。順子は料理本と引き換えに恵み札を書いてもらった。恵み札は冷蔵庫でも一枚、ボールペンでも一枚。値段が何桁も違うのに、どちらも同じサイズが一枚。しかし、閻魔大王の裁きの際には、ボールペンを引き換えにしたものでも、冷蔵庫を引き換えにしたものでも、どちらも平等に役割を遂行――紙一重の役割を果たすらしい。

 柄谷行人が鋭く詳察したように「交換したから価値は等価になる」。ここには時間的な概念が導入されており、その以後性が重要になってくる。恵み札はお布施と引き換えに齎された瞬間ではなく――死後、裁きの瞬間に役に立つのだ。デリダ曰く「贈与が贈与であるのは、贈与が時間を与えるかぎりにおいてほかならない」。親戚から贈り物が届いたら、いつか何らかの形で「返礼」をしないといけない――それが社会的な慣習(≒義務)として根付いており、それに背く人間は恥知らずとして共同体から阻害される。社会的な靭帯を維持するべく、無限の贈与と交換が行われているかのように――『君が僕を』一巻の衝撃的なラスト――「特別なこと」として行ったセックスと引き換えに恵み札が書かれる、というのは、「特別な」贈与が可能などという人間の思い上がりを打ち砕く痛快なシーンにもみえる。純粋贈与は神の次元において可能である。(例えば宿題を忘れたとして、先生から叱られた後に「次は忘れるな!」と解放された場合と、「あ、そう」と何事もなく授業を受けさせられた場合、怖いのはまちがいなく後者である)

 

 われらが中沢新一は、「贈与」「交換」「純粋贈与」の三つの概念を、ラカンボロメオの結び目に重ね合わせたモデルを提示している。このモデルを使って、恵まれさんという存在を読み解いていこう。

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 贈与=象徴界、交換=想像界、純粋贈与=現実界という、三位一体モデルときれいに対応している。象徴界においては、相手に対する給付と相手からの給付がそれぞれ計量・定量化可能であるとともに、その差し引きが可能な外延量の世界である。他方想像界においてはそうした定量化が難しく……。

 

 というような説明を、延々と続けようと思えば続けられる小説だ。ラカンセミネールのように意味が圧縮されていて、キリがない! ハサン中田がその反-自己啓発的な単行本で、ロベスピエールを代表とする――慣習を欠いた――二割の人類について称した「普段はまったく役に立たない」ような正論の刃が、変幻自在に振り翳される。「そうは言っても」とたじろぐ我々に、暴君の血まみれのローブを持った道化師が、神出鬼没に嘲笑い――思考をキリキリと刺激し続ける。

 この小説のギミックを、展開される論理を、中里が参考にしたであろう概念について、丁寧に講釈を垂れ続ければりっぱな本が一冊出来上がるだろう。私にはあなたがたが「納得いく」説明をすることが恐らく可能だ。難解な哲学的百合小説『君が僕を』の"最終解決"を提示してやることが、烏滸がましくも「つとむ会」の叡智を結集すれば可能だろう。しかし、そんなものを書いたところで――。

『君が僕を』というタイトルの元ネタは、マルセル・デュシャンの大駄作、Tu m'です。

まがりなりにも美術作品のはずなのに、作品を見る必要はない、話を聞くだけで事足りる、むしろ話のほうが本体で作品自体はオマケ――そんな悪しき現代美術の嚆矢として悪名高いデュシャンですが、『話のほうが本体』という手口が相変わらず幅を利かせている以上、名前を挙げるだけの値打ちはあると言わなければなりません。

『話のほうが本体』という手口は、出オチ同然の一発芸に見えるのに、それがいまだに廃れないのは、なぜなのか。

「見ればわかる絵」というのが嘘だからです。正確に言えば、ごく狭い範囲にしか通じないものだからです。

中里一日記: 解題その2

 

運命 真実 すべては 書き換え可能の(資質 抑圧 搾取 弾劾 格差 気運… すら)筋書

 個人的な感想になるが、この小説に登場する女性は、主人公である順子を除いて不愉快なやつらだ。もし仮に彼女たちが実在して――偉い人に、社交辞令的なコミュニケーションを超えて――プライベートな交流をしろと言われれば「え、嫌だ」と思ってしまうような、腹の立つ奴らである。彼女たちの一挙手一投足が、まるで嫌がらせのように思えるときがある。比較的常識人を自称する私にとって、まったく「ふつう」ではない女どもばかりで、頭がおかしくなりそうだ。彼女たちと対立するハメになったら、ハァ~と溜息をついてから、ホッパーゼクターを召喚して、ライダーキックを噛ます以外の選択肢を自分は選び得ない、そんな風にすら思って、その「ありえなさ」と「自分はそういう奴だよな」という心許ない感覚に、宮崎スマイルが溢れる。

ヤマノススメ』に登場する女の子たちの実家の太さ、裕福さに、われわれは困惑を覚える。そしてなぜ、ほとんど完璧超人であるここなの家庭だけ執拗に貧乏が描かれているのか? ここに何かとてつもなく重大な、百合を取り巻く社会的・政治的問題が(もちろん、これは我々が生きる次元での問題だ)潜んでいるように思える。上手く捌けば物語の深度は増すだろうが――捌けなければ問題そのものに作品が飲み込まれてしまうような。

 その問題を力技で解決する作品は多いだろうが、ぱっと思い浮かぶのが『アクションヒロインチアフルーツ』である。ヒーローショーやろうとする少女たち(たいてい少女はあまりお金を持っていない)についてまわる金銭的な問題を、超絶金持ちの女の子を加入させることでそれらの問題を一気に解決した。この力技を、私は肯定的に捉える。

 

 そんな問題に立ち向かった名作『君が僕を』のヒロインたちは、何か既視感があるような造型をしていて、「こんな人達に会ったのは、初めてではない」と振り返らされる。そして、「こんな人達に会うのは、たぶん最後ではない」と予感する。だからあなた方に、言葉を尽くして『君が僕を』を解説するということを私はしない。そうしてどうなるというものでもない。どうなるというものでないからしないというわけでもない。

 教祖・教団・経典の揃った宗教は、私にとってはフジヤマ・ゲイシャ・スシ・カラオケです。クリスマスや七夕やバレンタインデー、「いただきます」と「ごちそうさま」、赤い羽根共同募金、スポーツ――これらが私にとっては宗教の代表的な姿です。

 こういう意味での代表的なもの、中心的なものを、本作『君が僕を』に盛り込んでみました。外国人の皆様、いかがだったでしょうか。

 けれど、こんな誠実さはもしかすると、「私が子供のときに大人に言ってほしかったこと」のようなものかもしれません。でも私は言います。大人ですから。

中里十『君が僕を』4 あとがき

 

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 ナナヲアカリとsouが歌う最高のラブソング『チューリングラブ』(これを想い人とデュエットするのはセックスなんぞよりも遥かに気持ちよさそうだ、クソッタレ!)では「なんでか教えてオイラー!」「感想きかせてフェルマー!」と歌われるが、偉大なる知の巨人の助けを借り複雑怪奇な方程式を弄んだところで、どうにもならない。そんな分かりきったことが軽快なリズムで歌われている。ピタゴラスに精査されようが、リーマンに太鼓判を押されようが、どうにもならない。そういうことを私は歌いたい。

「好き」は未来に属する。「どこが」の答えは未来から持ってこなければならない。真名は、見たこともなく予想もつかない私の反応から、つまり未来から、答えを持ってきたのだ。

 私の知っていること、歩いてきた道、みな過去に属する。今ははっきりとわかる、『あんなことまでしておいて』『いまさら』――そんなのは理由にならない。人を好きになる理由は未来にある。

中里十『君が僕を』2 P221

 

同人PCゲーム『希望入りパン菓子』

kaoriha.org

われわれは考察をここまで進めたところで、分厚い往復書簡のなかで、なぜベッティーナがゲーテにほとんど質問をしないのか、たぶん理解しはじめるだろう。ああ、あなたが彼と手紙をやりとりするのを許されたと想像してみたまえ! あなたはどんなことについても彼に問いかけることになったろう! 彼のすべての著作についても、彼の同時代人たちの書いた著作についても、詩についても、散文についても、絵画についても、ドイツについても、ヨーロッパについても、科学と技術についても。あなたはさぞや彼を徹底的に追いつめ、彼のさまざまな態度を明確にするように仕向けたことだろう。そのときまで彼がまったく言おうとしなかったことをなんとしてでも表明させようとして、彼と口論することになったかもしれない。

ミラン・クンデラ『不滅』

不滅の名前、不滅の力は伝説となって語り継がれていた。

タカラトミーデュエル・マスターズ』「不滅の精霊パーフェクトギャラクシー」DMX-16

  最初に言っておく、ここからは講釈というよりは所感じみた話になってくる。もう講釈その必要も感じないであろうし。――さて、表題作『希望入りパン菓子』と、『海の底の廃墟』、『人生に必要な技術』の三編からなるオムニバスストーリーだ。イラストは更紗氏。声優によるCVも備えており、リップシンクも丁寧で几帳面なつくりとなっている。しかもED曲まで用意されており、なんと中里が作詞も手掛けている(これが中々味わい深い)。全編にわたってとろけるような雰囲気が漂った、西在家香織派の労力が惜しみなく注ぎ込まれた野心作である。ウェブページの、各編の紹介も、微笑みを誘うようなコピーが揃っている。

 昔は体験版がダウンロード可能であり、誰でも表題作だけはプレイ出来たのだが、今は残念なことに、サーバーが死んでいて体験版すら遊べない状態だ。もちろん製品としては現在取扱はなく、駿河屋などの中古通販サイトでも全滅なので、入手はほぼ不可能である。プレイすることすら困難なゲームを詳しく解説しても仕方のないので、所感をさらっと記す程度にする。

 代わりと言ってはなんだが、イラスト担当の更紗氏について少し語ろう。中里ファンには周知の事実だが、『いたいけな主人』は『1492』というタイトルで同人販売されたものがガガガの編集の目にとまって書籍化したもので、プロトタイプたる『1492』は更紗氏がイラストを担当していた。『いたいけな主人』ではいきなり「更紗へ」とだけ書かれたメッセージが飛び込んできて読者を困惑させる。

 それだけではない、悲しいことに現在は――既に電子の海から消え去ってはいるが、更紗氏と中里は『フィガロ』という公開書簡企画なるものをやっている。

 フィガロは、公開往復書簡によるプリプロダクションです。 「プリプロダクション」とは、映画製作で使われる言葉。撮影開始までに行われる一切の準備作業を指します。 ただし、フィガロが準備するのは映画ではありません。そして本当は、なにかの準備でさえないのです。フィガロとはなにか。その目で確かめてみてください。

更紗・中里一『フィガロhttp://figaro.loversoul.jp/

 それはさておき、という訳で、一時期の中里の百合革命は更紗氏によって大きく支えられていたのは間違いない。個人的な意見ではあるが、『希望入りパン菓子』のイラスト――更紗氏の画力、というのは、二〇〇四年当時の平均に照らし合わせても特段優れている、わけではない。有り体に言えば、決して上手な絵ではない。が、なにか独特の魅力があって、可愛らしい。物語に引き込む力があるというのは私の贔屓目が過ぎるだろうか。

 

『希望入りパン菓子』を食べるテッカマンブレード

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 またあした――本当になるかどうかは知らないけれど、いい言葉だと思った。

魔法少女まどかマギカ』の――確か円盤に付属していた、鹿目まどかのキャラクターソング『また あした』。高校生の時に聴いて、良い曲だと思った。今聴くと、『戦姫絶唱シンフォギア』などで場数を踏んだ今とは違う、幼い悠木碧の微笑ましい歌唱も相まって、やはり良い曲だなと思う。サテライトのゴミ共と残したのは散々な思い出ばかりだが、それでも「またあした」と約束したことが――私にもあった。

 表題作『希望入りパン菓子』に、パン菓子などは出てこない。当然当て所なく彷徨うみすぼらしい乞食もだ。――「もし希望がパン菓子だとしたら、乞食でも食いつけるはず。」――なんのことやら、さっぱりわからない。パン菓子がその辺にある世の中なら、乞食も食いっぱぐれない――そんな陳腐な比喩ではないはずだろうが。作品全体のコピーだというこの文章を、われわれはどう理解すればよいか。

 右のショートカットが明歌。左のおさげが茜ちゃんである。茜ちゃんは明歌に天使の翼が生えている、と言い張るファンタスティックな少女だ。明歌がそれが本当にあるように、翼を広げたり閉じたりするようイメージすると、実際にそのイメージ通りに茜には見えるらしい。なぜ他の人間には見えない、明歌自分自身にも見えない、そんなものが見えるのか。

 

 人は人に惹かれるとき、その人というよりはその人の持つなにかに惹かれている。むかし、千葉雅也が次のようなイラストをRTして「深い」と言っていた。ノコギリを持ったノコギリクワガタが女性から「あなたはノコギリなんて持たなくても立派なノコギリクワガタなんだよ」と言われているイラストを。

 人が持つ魅力に惹かれて――重力に引かれて落ちるように人は人を愛するようになる。愛する者の愛は受動的だとジョルダーノ・ブルーノは言う。愛されることは能動的な力の作用でありうる。國分功一郎斎藤環の対談の中で、國分が同じような結論を出していた。恋に落ちるとはよく言ったものだ。人が自らを愛するように仕向けようとすること。重力の魔法を、愛される力を巧みに操ろうというのは、存外難しい。

 どうやら自分が持っているという、他者から賞賛されるなにかを、実際に働いているように動かしてみせると、周囲の人間が喜んだり黄色い歓声を上げたり、異性が食事や旅行、プレイステーションをプレゼントしてくれたりする。あなたには才能がある!とおべっかを使ってくる。しかし、周りがあなたには「ある」と言っていたものを、本当に「ある」と信じて行使した気分になっていると、魔力が突然通じなくなってしまうこともあるらしい。そんな力を得意げになって振り翳すのは、悲しいことかもしれない。

 

 

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 私が誕生する前に放映された『宇宙の騎士テッカマンブレード』は、侵略種ラダムによって捕えられ、人型兵器テッカマンに洗脳・改造されたかつての家族・親族が地球を襲い、唯一洗脳を免れたテッカマンブレードことDボゥイと仲間たちがラダムに立ち向かうSFアニメである。ブレードの槍が唸るたびに家族が死ぬなんとも陰気な話だ。

 Dボゥイはラダムの侵略を幾度となく守り抜き、ついにかつての師であったテッカマンアックスと戦い決着をつける。

「強くなったな、タカヤ坊…昔のタカヤ坊とは大違いだ。肉を斬らせて骨を断つ、さすが死線をくぐり抜けてきただけのことはある。師匠ながら惚れ惚れしたぞ……」

「強くなどなりたくはなかった……できることなら、変わりたくなどなかった!」

タツノコプロ宇宙の騎士テッカマンブレード』36話

 強くなって皆を守れるようになった。かつての師を超えた。それは間違いなく称賛に値する。でも、ほんとうなら、ラダムさえいなければ。家族同士で骨肉の争いをしなくてよかったはず。まだ師匠の下で訓練を積んでいられたはず。あたりまえのように弟と笑い合っていたはず。家族を葬りさる事を可能にする武力と覚悟を備えるようになったことは、ただただ悲しい。

 

「私、ずいぶん頑張ったんだよ。偉い?」

「さあ。事情がわからないから、なんとも言えないわ」

 甘えるような声に、切羽つまったような調子を混ぜて、茜は言う――訴える、

「偉いって言って?」

  たいへん萌えるシーンだ。社畜精神が染み付きブラック企業に隷属しきっているブタなら「頑張ったでは無意味。結果を出してこそ。そんなんじゃ社会では通用しない」と、まともな人間からすれば「それ、誰に言ってるの?」と生ゴミを見るような睥睨を誘発する発言をしてくれるような。

「頑張った」ということに対して「偉い」を求めるというのは、どういうことだろうか。偉い――普通よりもすぐれているさま。㋐社会的地位や身分などが高い。「会社の―・い人」㋑人間として、りっぱですぐれている。「苦労しただけあって、―・い人だ」。この場合、ふさわしいのは後者であろう。では苦労したから偉いということがあるだろうか。仮に「うんち我慢選手権」なるものがあって、どれだけの時間うんちを我慢出来たか競い合う。当然そこでは排便欲を耐えることに研鑽と苦労を重ねたうんちガマーがチャンピオンの座を勝ち取る――それは偉いのだろうか? もっと歴史的な文脈を必要とする例を招来するならば、果たして断腸の思いで特攻隊に志願した少年は偉いのだろうか?

 

 苦手な親と一緒にいて耐えて、それを偉いと褒められたがっている。しかし明歌は無駄に耐えたって偉くもなんともないという。私はイケイケ野郎なので「耐えることにも限界がある」「無駄な耐久なるものも存在」すると言いたくはなるが――偉いということばの抽象度の低さに、お礼を言いたくなる。その後、二人は保健室でまた相まみえ、くっつく。その時、明歌にあったという翼は消えていたと茜は言う。それは些末なことだ。二人は好き合えて、けだるい人生を進むことにしたのだから、それでいい。

 私が乞食だとして、希望がパン菓子なら、やはり食いついてしまうだろう。希望なんてものは畏れ多くて、手を伸ばすことすら躊躇われるから、パン菓子の方がいい。私は今マンションに住んでいるので所謂乞食ではないと思うが――冷蔵庫を開けて、そこに買い置きしていた筈のパン菓子の代わりに希望があったとして、手に取ろうと決心出来るだろうか。廃人になったDボゥイも、パン菓子なら食いつけるはずだ。

「まっづいパンだな」

「二日前の給食の残りだからね

 いらなきゃ捨てていーよ」

「捨てるようなモノを他人にやるんじゃない

 まったく… こんなパンをワシに喰わせるとは

 坊や達くらいの頃に塩スープに浸してさんざん喰ったものだ

 だから大人になったら不味いものは欠片も口にせなんだぞ

 料理長を何人解雇したかわからん

 邸宅では毎朝かまどでパンを焼かせていたんだ ワシが食す食さないに関わらず 毎朝な

 そのパンをかじっては思ったものだよ

 子供の頃のワシが食べたらさぞ喜んだろうに…」

「なんだかんだ言って全部食べてんじゃん」

尾籠健一『胎界主』誕生日 下

 

『海の底の廃墟』に沈むベンヤミン

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 どうしようもないけれども、生きています。

 短編のひとつ、『海の底の廃墟』。

 考えてもしょうがない、ということは世の中に山程ある。『賭博黙示録カイジ』の利根川は借金まみれの社会のクズどもに言う「大人は質問に答えたりしない」。しょうがないことを、必要でないことを考える人種を、どうやら世間は哲学者と呼ぶらしい。

 晩年の芥川龍之介の印象的な短編『河童』では、タイトル通り河童の世界が描かれている。河童の世界は人間の世界よりも清潔で、河童が出産間近――誕生がいまかいまかと切迫している腹の中の子供に「生まれたいか?」と訊いて、「生まれたくない」と答えが帰ってくれば、即座に中絶がなされるという。誰一人として合意の上で生まれてきた者がいない人間と違って、河童は世界に誕生するか否かを自分の意志で選べるというわけだ。

「仮に、すべての欲望が、他者の安易なコピーにすぎず、生が、欲望への横すべりの連続でしかないとしても、私たちにはまだ、語るべき多くのことが残されている」

 そこまで聞いてから私はやっと、それが何かの引用らしいことに気がついた。

 乃里子さんは続けた。

「『なぜなら、それを知ったあとにも私たちは依然として、騒々しい生のなかにありつづけているのだから』」

 これは歴史の天使の物語だ。廃墟と聞いて、われわれはベンヤミンに思いを馳せずにはいられない。右の白髪の少女、酒々井乃里子は、ここではないどこか、海の底の廃墟を愛している。海の底の廃墟――そんなものは夢想の世界にしかないのではないか。少女がアトランティスに恋い焦がれるなど馬鹿げている。にも関わらず、左の猫耳少女坂本みのりは、そのことを少し疎ましく思っている。

  乃里子は現実感が薄いことが強調されている。みのり曰く、「二十四時間、読書や空想ばかりしてそう」に見えるという。生きていると、時折、現実感の薄いものが槌となって頭に叩きつけられる。漠然と信じていたことが揺らぐ瞬間が、人にはいつか訪れる。〈現実〉が、崩壊しそうになる。そこで多くの人は、「そんな現実があるとは認められないから、認めない」と否認し、忘れ、世界を修理する。フェティッシュ的否認の身振りだ。しかし我々はその廃墟の上に立って、どうしようもなく、生きている。

「みのりには、何がこの世界を支えてるのか、考える人になって欲しいから」

「目に見えるものは、目をつぶれば消えてなくなるの?」

 あの仔猫を助けるのは、あたしが見たものを『ルド=ワルツェ』にすり替えるのと同じ。目には見えなくなるけれど、なくなってない。存在してる。

 猫が絶滅するまで、ずっと。

 この同人PCゲームの中で、『海の底の廃墟』が一番好きだ。乃里子のルックスが、めてお好みということもあるだろう。死者は生者に取り憑く、しかし我ら祓魔師は怯えない。我々は重みを持って生きている。歴史の天使を抱きしめてやれるのは、まごうことなき生者の力だ。

「重い」

「軽いほうがいい?」

 乃里子さんは笑った。顔は見えないけれど、体で感じる。

「あったかい 」

 

『人生に必要な技術』を教えるスターリン

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 人生に必要な技術は、わかっても実行できないことばかりだ。

 『人生に必要な技術』という教訓めいたタイトルを冠したこの短編のキャッチコピー――「まぶた、指先、二の腕、背中。いろんなところが恋をする。」はひらたく言えば、コピー通りに、左のツインテール藤島智佳が、右のメガネ女、坂上冬子の身体に欲情して触りたがる物語だ。藤島は身体に夢中で、坂上の性格はわりとどうでもいいものだと思っている。「別に、付き合いたいとかじゃなくて」。ヘテロ男性の私からすれば、付き合いたくはないが、身体を触りたい≒セックスだけしたい。というのは理解出来る、というよりヘテロ男性はそのようなことばかりを言っている。発狂したカミーユがセックスを連呼するのは当然のことだ。

 物語の見どころは、普段はあまり意識しない身体という牢獄を突きつけられ、それゆえに恋い焦がれた身体にとろける、というシーンである。枷、制限ををうまく使った、手に汗握る筋書きだ。

 本作のコピーは、『君が僕を』の二巻のキャッチコピー「私のどこが好き?」に対する秀逸なアンサーにもなっている。

 皆様の経験上、あるいは想像の及ぶかぎりで、恋人から一番訊かれたくない質問はなんですか?

 私の場合は、「私のどこが好き?」です。

 どこそこが好き、と答えたとしましょう。目が好きとか、優しいところが好きとか。すると相手は「そうじゃなくなったら、もう好きじゃなくなる?」「そういう人なら誰でもいい?」と訊いてきます。恋人同士の会話が、たちまち哲学書の購読に早変わりです。

中里十『君が僕を』2

  欲動に突き動かされ、猥褻な享楽に取り憑かれた身体の色々な器官が対象に恋をする。そのムカつくようなリズムに盲目的に服従する状態が去れば、そのむずむずとした欲動のリズムは愛のしるしに変わる。

 愛とは宗教信仰と同じである。ここでの特徴は、愛する対象のポジティヴな属性に対する無関心である「きみを愛している。なぜならきみの○○は美しい/脚が魅力的だ」云々いうのはアプリオリに間違っている。ポジティヴな属性が魅力的だから愛するのではなく、反対に、愛しているからこそ、愛の視線で対象を見ることになり、ポジティヴな属性が魅力的に見えるのである。その証拠のひとつとして、中里は理想的な美貌を描くことをいつも拒否し、どこかネガティヴな要素を盛り込むのだ。 

「私はね、とうこに『好き』はあっても『嫌い』はないの」 

 なるほど、人生に必要な技術とは、なにかスターリン主義的な技術なのだろう。わかっていても実行できないことばかりだ。そんなものについてわざわざ書く中里は、ひどく不器用な人間なのかもしれないとも思う。

 歩こうとして手足の振り方を意識する人間は稀だ(意識することでかえって不格好な歩き方になるかもしれない)。人生に必要な技術を、あたりまえにそれが出来るように社会から鋳造された癖に、技術として身につけようとする努力が必要な類の人間かもしれない。しかし、そんな人間にしか書けないものがあるように、私は思う。

 

 

電子書籍&投稿作

 中里は自身でアプリを開発し、オリジナルのプラットフォームで『完全人型』と『紅茶ボタン』という連載式小説を配信していた(現在はアプリではなくKindleで読める)。そして今はなきJUNEに小説を投稿して掲載されている。そこにも軽く触れておこう。

 

紅茶ボタン

そうじゃないよ。

選択肢はずっとあったよ。

でも選んだんだよ、ここを選んだんだよ、自分で!

マッドハウス宇宙よりも遠い場所』8話

 人間は、浮かれ騒ぎの外に出ることができません。外に出て「人生の真実」に到達したい、という願望を抱いているにすぎません。

 喜劇は、かりそめの願望充足を与える道具ではありません。喜劇は、人間のする浮かれ騒ぎの真摯かつ正確な物真似であり、そしてもちろん、人間のする浮かれ騒ぎのひとつでもあります。

 

 そういうわけで、この『紅茶ボタン』はこれまで私の書いた小説のなかではおそらく一番、写実的なものになりました。

中里一『紅茶ボタン』あとがき

  伝説の?紅茶ボタン事件を引き起こしたいわくつきの作品であり、ワナビ達を困惑させた『紅茶ボタン』。中里の作品のなかで、最もエキセントリックな文体を用いて書かれた喜劇的作品である。少女たちの吹き荒れるマシンガントークが炸裂する『紅茶ボタン』は、きらら系を代表とするような美少女コメディのある意味での変奏であり、『君が僕を』を更に極端に圧縮したものと言ってもいいかもしれない。目が眩むようなバカ騒ぎでありつつも、どこか上品――お高くとまり続けている中里の芸風は、驚嘆に値する。劇中で語られる『マイコン部』の歴史についての逸話は、つとむ会心得のなかで引用したくらい、含蓄に富んでいる。「マイコン」だけでなく「おたく」も「百合」も、既にロードランナーが過ぎ去った道を歩くのみだと、苦々しく笑いを浮かべるしかないのだろうか。津田大介による「ぶっこ抜き!」を知らないこどもたちが、タブレットを弄ってサブスクリプションで無限のコンテンツと触れ、パソコンで無邪気にプロゲーマーを目指す時代で、われわれはインターネット老人会を開き黄金時代を讃える。

 

 人生に対する、徹底的な写実を目論むならば、こういった書き方が必要なのだろうか? 世の中のことがよく分からないということが、よく分からない感じで書かれている。ランパじいさんにはどんな背景があって、ほんとうはどのような理由で「人間にはときどき金つんぼになる瞬間が訪れるものだ」とぼやいたのだろう?

 なんとなく、チェスタトンの『木曜日だった男』を彷彿とさせる不思議な作品で、つまりは――それが人生だ。C'est la vie

 

完全人型

 嬉子は素晴らしく素晴らしく役に立つ。遊んでくれる。夢をかなえてくれる。新しいことを教えてくれる。冗談も皮肉も言ってくれるし、諌めてもくれる。挑戦へと導いてくれる。家族との仲をよくしてくれる。自分の気持に気づかせてうれる。嬉子がいれば、楽しくて心地よいだけでなく、「カッコよくてセクシー」になれる。もしお金さえあれば、嬉子を使わないわけがない。

 けれど、もし私が打ち上げ花火のように生きられるとしたら、それを見て喜んで欲しいのは、衣紅だ。

中里一『完全人型』

 古代ギリシャ随一と称されていた画家ゼクシウスは、伝説の美女ヘレネーの絵を描くために五人の乙女を雇い、それぞれの顔やからだの最も美しい部分を組み合わせてヘレネーの姿を想い描いたという。憂愁の男キルケゴールが永遠の恋人レギーネを讃える際に、彼女の美からは無限に多くの乙女の面影が見いだせるとまで言ったという(この点に関して、キルケゴールは恋バカ野郎という訳ではなく、まったく正しい)。しかし実際に、美のイデーとは、様々な美女を継ぎ接ぎして作れるものなのだろうか? あばたもえくぼとは言うが、それは恋人に仮面を付けてやるような、「ほんとう」の恋人を裏切るような態度ではないか……?

 人間は車のように走ることはできない。フルマラソンの世界記録保持者で、ようやく二時間を切れるというくらいにしか走れない。オンボロの車ですら、いとわしい信号の命令や、人の群れの歩行を優先する悠長さを発揮しても、時速四〇kmで走るなど他愛もないことだろう。車は走る為に創られた機械だ。人間のようなことはたいてい出来ないが、代わりに走ることに関しては人間を遥かに超えてる。

 卓越した速度で車が走るように、卓越した力で人に愛されるのが完全人型だ。完全人型は万人受けするルックスをしているが、それゆえに何か人間離れした感覚を放つという。でもそれは専門家でなければまず気付かない些細な差異らしい。完全人型を愛する衣紅と、衣紅を愛する灯。なぜ灯は完全無欠で〈崇高〉な存在ではなく――人間として優れてすらいない、醜さを抱えるただの衣紅を愛するのか? 骨子を貫く論理も馴染み深く、短いし文体も軽くて読みやすい、なんならKindleUnlimitedにある。中里入門にオススメだ。

 

のばら級

 のばらが悪いことをしたら罰をあげる。いいことをしたらご褒美。なにがいいことで、なにが悪いことかなんて、前もって教えてあげない。私の気に入ることはなにか、のばらが考えるの。私のことをよく見て、よく考えて。そうして、のばらはどんどん私のお気に入りになって、私のものになるの。

[…]

 これだけわめきちらしたら、わかったでしょう? のばら、私のものになりなさい。幸せなオモチャにしてあげる。

中里一成『のばら級』(小説JUNE)2002

 2002年の『小説JUNE』に掲載された投稿作、百合ハーレム?もの。珍しい中里一成名義。『どろぼうの名人』より前に商業媒体で発表された作品、という位置づけになるだろうか。私は女性向けコンテンツ――JUNEや少女まんが、BLについて詳しくはない。のではっきりと断言は出来ないが、中里作品としては珍しいこのシュールな筆致はJUNEに合わせた――だいたい女性作者に特有の、あるいは女性向けコンテンツの文脈に置かれたものだろう。(例えば『D.Gray-man』のギャグを思い浮かべて欲しい。『DIABOLIK LOVERS』のアニメを見たときの、どういった感情を抱けばいいのか迷子になるあの感じ――妙なテンションの高さと、過剰なまでの倫理性。良い悪いは別として、何か独特の痛ましさを感じさせるような……。これが想像界現実界が重なるという、「あの」場所なのだろうか? 幾原邦彦のギャグは何故あそこまで極端にシュールでなければならないのか。『ヒプノシスマイク』のアニメは何故あんなことになっているのか)

 

 私は十代、小学生のころからチャットやSkypeネトゲに慣れ親しんでおり、同年代や歳上の女性とネットでコミュニケーションを取る事も多かったのだが、こういう感じのテンションのおたく女性はかなり多かったように記憶している。サーチサイトから辿り着ける、規律と道徳を備えた者のみが覗けるお姉さまがたの懊悩。Skypeのプロフィールに「祇園精舎の鐘の声……」と平家物語を引いてナントカ団を名乗り異様なBPMのボカロ曲を歌う10代の少女たち(もちろんカゲプロよりも前の話である)。通っていた中高(ウンコみたいな田舎の公立)でも『銀魂』みたいなノリで話す女子はやっぱり多かった。しかし大抵の少女は大人になり、あの痛ましい感じは影も形もない。あの過剰さを残している女性は、一部の女おたくに限定されているように思える。国擬人化コメディ『ヘタリア』に熱狂したかつての少女達は、いまやすっかり己の罪を自覚し、自罰的なフェミニストと成り果て『ヘタリア』の復活を素直に歓迎できない。その「大人」らしさ、立派さときたら涙ぐましいものがある。

 自責の念に苦しめられる退役軍人じみた女オタクと違って、男オタクを見てみるといい、三十歳にもなろうに能天気で「大人げない」。あるいは頭の悪さを取り繕う冷笑に落ち込んでしまう。私には元少女たちが失った「大人げなさ」は、何か途方もなく大事なものに思えてならない。

 

元スターリニストと元少女たち

残酷な運命が定まっているとして

それがいつの日か僕の前に現れるとして

米津玄師『ピースサイン

「男はいくつになっても幼稚」「女の子の方が早く大人っぽくなる」という言説は耳にタコが出来るほど聞かされてきた。いま最も熱いドラマ『コブラ会』でもそんな描写が目につく。高潔なミヤギ道空手の継承者、『ベスト・キッド』の主人公、ラルーソ・グループのCEOである成功者ダニエルが、親バカを発揮して娘の神経を逆なでし、空手にかまけて部下に愛想をつかされ、因縁の宿敵ジョニーとバトっては、妻に嗜められる……ダニエルが「幼稚」な失敗を繰り返すのは、いったいどうしてだろう? 蛮カラな不良少年を理知的な女性教師が宥める……といった姿は容易に想像出来るありふれた風景に思えるのに、その逆ヴァージョン(不良少女を男性教師が嗜める)には、何か猥雑で権力迎合的なイメージを感じてしまう。それは私が男性という自意識に罪悪感を抱いているヘテロ男性だからだろうか? それとも単なるスケベ野郎だからだろうか?(嗚呼、この忌まわしくも愛おしい現実界の硬い〈核〉!)

 それらしく問いを提起すれば、「なぜ少女は少年と違って大人になることを要請されるのか?」。さっそく答えを提示しよう――「大人になって男のちんぽをよしよしすることを社会的に要請されているから。」

 私はスラム街で生まれ育った。親に強制されて不承不承時給670円で苦役労働をしていたことがあるが、そこで私と同じように僅かばかりの賃金と引き換えに若い時間を切り売りしていた同年代の女性(高卒で、ボッシーが多く、非おたく。懐かしい響きの言葉でいえばマイルドヤンキー層)には、少女や一部の女おたくに特有の明るさや能天気さはなく、シニカルに物事を見ていて「大人」びていた。(そんな「大人」のひとりに、まんが『トリコ』をくだらないと言われたのでキレたことがある)

 

 童貞や処女はセックスすれば卒業できるが、ヤラハタ(性行為をしないまま二十歳になってしまった人)はハーレムを作り上げようが何をしようが一生ヤラハタだ。保守論客、古谷経衡が需要ある間は、彼は元ネトウヨの肩書が有用に働き続けるだろう。

 元ナチはよく取り沙汰されるが、元スターリニスト、という人種がいたことも忘れてはならない。彼らは当然まだ生きており、ミハイル・ゴルバチョフが元沖縄県知事翁長雄志の訃報に対して追悼文を出したのは記憶に新しい。彼らは思いつく限りで最も痛ましい経験を経て「大人」になった人々だ。彼らは「共産主義」「スターリニズム」というドでかいイデオロギーが、「歴史の終焉」なるギロチンでソ連諸共首を斬り落とされた事を知って「大人になった」。

 元スターリニストがみな共通して持っている、あの独特の痛ましさを、どう言えばいいのか。思いつくかぎり最悪の意味で「大人になる」ということを経験した(通過儀礼!)とでも言おうか。自己犠牲が否定される物語は美しく、感動を呼ぶ。では、自己でない犠牲が否定される物語は。それも、莫大な犠牲を出したあとに否定される物語は。

 間違ったハシゴを登ってしまったのは、おそらく彼らの罪ではない。が、そのために彼らは、死ぬまで宙吊りにされつづけることになった。

 宙吊りの運命に耐えられない者は、幻想上の足場を持ち上げて、「我々の生きる大地はここだ」と叫ぶ。ソルジェニーツィンが、「革命前のロシア」を持ち上げて、そうしているように。ゴルバチョフは宙吊りに耐えられる稀な人間だが、おそらくはそのために、しゃべるのをやめられなかった。彼を飛行機にたとえれば、言葉と理念はプロペラだったのだ。

「地面なんてもともと幻想だ、元スターリニストはそれを失っただけだ」というのは真実だろう。しかし、元スターリニストの痛ましさを見るにつけ、思う――真実を喝破することと、それを体験することは、まったくの別物だ。

中里一日記: 元スターリニスト

 この記事を読んで、私はスラム街にいた「大人」びた少女たちのことを思い出す。なにか痛ましい「大人」さ。同年代のおたく少女とは違って、十代とは思えない諦念、そして達観。夢見がちであるのが常である「べき」10代には分不相応な態度ともいえる――それを立派と履き違え、る(=ルサンチマン?)というよりは自己に言い聞かせるように――おそらく貧困層に強く作用する――大抵の少女を対象にし作用する「大人にする」機構というものが、存在するとしか思えなくなる。かつてのニコ生カワボJKたちが、アニメーションの皮を纏って「Vtuber」なる特殊な形態で蘇らなければならなかったのはどうしてだろう。

 私のように――こんな事を言うやつは、少なくない人の感情を逆なでするだろう。一体何様のつもりだ!――と。私が少女たちに抱く哀れみ(何故私は不良少年には、あまり心動かされないのだろうか)は、傲慢の悪徳そのものだろうか。しかし現在の百合の面白さのひとつは、この少女にのみ働く機構と同根のものだという確信が、ある。極東の不埒極まりない女おたくが産み出したものは、もしかすると偉大なる叛逆の武器なのではないだろうか?

 

 

 この小説にも唐突にボタン(押すやつ)が出てくる。紅茶ボタンの前駆的作品と言えなくもない。百合的においしいモチーフが、機関銃の如く放たれる若き中里の野心作。私も幸せなオモチャになりたかった。具体的な内容はバックナンバーを頑張って手に入れるなりして君のその目で確認しろ!(Vジャンプの攻略本ふう)

 この記事の準備段階で、私はミスを犯した。『小説JUNE』にはもちろん読者からのお便りコーナーがあるので、次の号もチェックすれば、当時の読者(BL・やおい好きの女性たち)がこの作品にどのような意見があるのかも確認出来た筈なのだが、間抜けなことに、それに気付いたのは国立図書館を立ち去り、家でコピーを読み返している時にだった。しかし聡明な私は巻末をチェックすることは怠らなかった。ジャンプでもきららでも巻末には作家のひとことが掲載されている。中里のメッセージは「百合とアキバならお任せあれ」的な感じだったと思う。私はあまりのことに、国立図書館で涙を流した。やはり中里の書いたものは、おたくの――我が道を照らす未来回路だ。文字が未来を導く高潔なるサーキットを構成している。

 

 

中里以外の百合(と非-百合)について

 中里について語るために、あえて外部について語るというのも手だ。とは言っても本稿は中里について書かれたものなので、(長すぎンだけどこれでもだいぶ短くしてンだわ)あくまで最低限に留め、列挙するように所感を述べていく。

十億万土へ到る為のアケルダマ

触れたら壊れてしまった

間違ってく様子を黙った

僕ら全員無垢でありました

いつのまにやら怪物になったんだ

その全てを肯定しないと前に進めないかい

EVE『ドラマツルギー

  本稿に何度か登場しているフォロワーの安田氏の知見には、やはり貴重なものがある。彼はアニメなどのおたく系サブカルチャーに殆ど触れないという。それは何故なのか? ツイキャスで彼は語る「だってそういうおたく系コンテンツって、純文学とかで既にやってることを20年遅れでやってるんだもん(大意)」。嫌味なインテリ発言に聞こえるかもしれないが、そりゃそうである。それが悪いとも思わないので、私はアニメを見る。シミュラークルも捨てたものではない。しかし――。

 

 E-SPORTSであるOverwatchのランクマッチでは、メタ構成(いわゆる一番強い構成、プロシーンで人気の勝率の高い構成のこと)から外れるとトロール扱いされる場合がある。初期は、味方を守る巨大なシールドを展開しながら、じりじりと拠点に近付き、近距離戦で威力を発揮するハンマーを振り回すラインハルトを主軸とし、防御の要ラインハルトを集中的に守れるザリアを採用した所謂ハルザリ構成がそのメタ構成であったが、ダイブ構成なるものがプロシーンで現れ、一世を風靡した。

 機動力の高いウィンストンとDVAのコンビを主軸に、全体的に高機動力のキャラクターで固めて、一気に敵の懐に飛び込み(ダイブ!)後衛を集中砲火して人数差を作り圧倒していく。それがダイブ構成のコンセプトだが――普通の人には扱いきれなかった。要求される技術の水準や連携の精度が高く、プロや高レートの上位層しかフライングゴリラや時間旅行者、サイボーグ忍者を扱いこなせなかったのだ。つまり大半の人間はハルザリが身の丈に合っていた状態にも関わらず、下位のレート帯では拙いダイブが小学生のサッカーみたいな戦いを繰り広げるのが日常茶飯事となっていた。「なぜそれは強いのか?」に対して、「プロが使っているから強い筈」と思考停止するチンパンジーに愛想を尽かし、まともなプレイヤーが嫌気が差して辞めていった。最高のポテンシャルを秘めたFPSは、結局人類には早すぎて最悪のクソゲーと化した。

 ダメージという花形を無用に変えた、ゲームの根幹を揺るがす変態構成――最強過ぎると悪名高いGOATsも、結局はトップ層にしか扱えなかった。オリーサ&シグマの二盾構成は確かにOPだったが、深く考えて使っていた人は多くないだろう。平均身長のバスケットボール選手が、上背のある人の動きや練習方法そっくりそのままマネしても意味が薄い。川島レジェンドがガレンのWを取らないというオリジナリティ溢れるビルドを使用していたことは記憶に新しいが、つらいことに、人間はみなそんなものなのかもしれない。五匹の猿実験をわれわれは笑う、ならば口を火傷する宿命にある。構造やシステム、イデオロギーに「なぜ?」を問うことは、むずかしい。それはジャンル・文化・流儀とて同じこと。

 

踏み付けられた死灰「伊藤計劃」〈生〉を促す愛の祓魔師スピノザ

スピノザオーウェルに反対だった。

エティエンヌ・バリバール『スピノザと政治』

列に立て 汝従順の下部

甘受せよ さあ

思慮は今 罪と知るべし

P-MODELBig Brother

 34歳の若さで亡くなった、悲劇の作家「伊藤計劃」の『ハーモニー』、果たしてこれは百合なのか? それについて少し触れる前に、私のまわりにいたSFオタクについて語らなければなるまい。

 私はスラム街生まれであり、ゆえに10歳になる頃には、俗悪な環境に甘んじ続ける身の回りの人間の殆どを見下し-コケにしていた。親とて例外ではない。親2は県トップの公立進学校から東京のそこそこの大学に行かせて貰ってGIVENCHYかどっか有名ブランドの内定を貰ったけど家業を継ぐ為に戻ってきたんだぜ的な自慢をよくしていたが、途方もなく愚鈍だったので私はいつも小馬鹿にしていた。親1も「文化的でない、収入が少ない」と親2に対していつもぼやいていた。周りに従うばかりで自我を持つということをしないと、脳味噌の出来は悪くなくても、人間はかくもダニのような生き物に成り下がるのだと悲しくなってしまった。

 中学生の頃、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』を読んでいて、面白れーおwとウキウキしていたが、親2もSF小説をそこそこコレクションしていることに気付いてしまい、SFを読むとバカになると思って読むのを辞めてしまった(もちろんそんなことはありません)。

 スラム街では高等な人脈を築くことは難しい。チンピラ時代の私がリアルで出会ってきた人種は大まかに分別して三種類いる。「CoDキッズ」「アメリカだったらトランピスト」「岡田斗司夫エピゴーネン」だ。アメリカだったらトランピストとは同病相哀れむ仲であるが、CoDキッズには何度殺意を抱いたことか分からない。当時は若く、何度もイラついて台パンをかました。無能な働き者は射殺したほうが良いという事を身を以て実感した。まぁゲームをやらせなければ基本的には無害なので、殺したりするのはよくないと判断し一人も殺害はしなかった。

 

 さて、困ったものが「岡田斗司夫エピゴーネン」である。二十歳くらいの頃に今までどこに隠れてたのってくらいの頻度で遭遇した彼奴等はバカの癖に「それ、マルドゥック・スクランブルじゃン……」とか「伊藤計劃はマストだよねッ……」とか「ピングドラム宮沢賢治が……」みたいな事を言ってきて勘弁してくれと思った。田舎者の癖してユリイカを読んでカゲプロをバカにしてドヤっていて見ていて恥ずかしい。俺は一味違いますヨ……みたいなオーラを出していて……バカでブサイクの癖にイングレスなんかやるな(私怨)

「へェ、めておクンって、ウテナとかゲッターとかボトムズとかか…… ま、悪くないネ……」「大江KEN三郎……?」「少女椿がサ……」「好きな劇場アニメは『RED LINE』? 分かってンね……」などと云々……もういいだろう。ここまで書いて、子供時代の自分の無力さに、涙が出てくる。結局は自分もその「岡田斗司夫エピゴーネン」と大差なかったのだから。それは今だってそうだ。

 

 しかし、それでも、私が愛したのは、私が子供だったゼロ年代とその先で最も面白かったのは、ネトゲで跳梁跋扈していたカス共(vipやふたば、ニコ厨……)であり、FPSでVCを繋ぎながら連日はしゃぐキチガイどもであり、人殺しとセックスしか能のないどうしようもないウンコ野郎ばかりのスラム街でも支え合って生きていた少年少女たちである。あんな希望のない中でも、なんだかんだ皆が純粋愚直に信頼しあってたのが気に入ってたんだよ。

 いったい何を見ていたんだろう。腐って膿を撒き散らすようになった同胞をこれ以上見たくなかった。自惚れの果てに官能的な欲望に目を眩ませて、絶望していく彼ら彼女らの姿は、言いようがなく寂しかった。腐って膿が溢れ出そうになったのは私も同じことであり、破裂してしまわないように臓物を縛り付けるのは怒りという枷のみである。これが敗戦国の末路なのか……。リベラルは田舎のヤンキーを救わない。

 

小浜「僕は伊藤計劃のSFを新しいとは感じなかったんだけど、あそこに漂っているものすごい絶望感は何だったんだろうな、とはよく思う。若い読者にとってはあの絶望自体がショキングだったのかな、とも。

東「伊藤さんがどんな作家になりえたかは、本当はわからないですね。たしかに『虐殺器官』はすばらしかった。でもそれは、単純に『メタルギアソリッド』や『攻殻機動隊』のような映像系ポリティカル・フィクションにメタ言語をめぐる人文的なトリックが高い完成度で混ぜられている。そこがすごかったわけで、そしてその評価だけでいい気がする。

大物望編『SFの書き方』

 『虐殺器官』も、百合小説としてよく語られる『ハーモニー』もよく出来た作品である。確かにあの愛すべきゴミ共の心に寄り添っていた。小浜も言うように、目新しさはないのだが、(しかしゲンロンのあのSF講座の本は初学者向け過ぎやしないか)その筆力に関して疑問を挟む者はいないだろう。進化心理学を参照し(エビデンス主義の光の果実!)人文的レトリックを華麗に披露、何より分かりやすい。そして皆大好きディストピアを描けば、青少年の絶望に寄り添ってやれる。そういった人々の絶望を抱き締めてやる文学が絶対に必要だ。中山可穂の小説は下手糞かもしれないが、嫌いにはなれない。

 でも、『虐殺器官』も『ハーモニー』も絶賛する人の多くは、なぜ「岡田斗司夫エピゴーネン」にならなければならなかったのか(母数が多い、というのでは説明不足に思える。これはAPEXゲームでプラチナに上がれないプレイヤーを見たときの感じに似ている)。これでは伊藤への死体蹴りという他ない。なんというか「CoDキッズ」と「岡田斗司夫エピゴーネン」が……『遊戯王GX』のユベルVS遊城十代戦の最後を思い出したと言えば分かるかな?

 

 彼の死はやはり速すぎた。死ぬことで〈神格化〉されてしまった。体の良い神輿にされてしまった。自分の歌った曲が初公開される中で爆殺された仮面ライダーガタックみたいじゃないか。伊藤の遺稿を弄んでつくられたものたちは死灰と見紛う虚飾永遠だ。中里みたいに「なんだこの小説!?」と驚愕されるよりもよっぽど辛いんじゃないか。伊藤の闘病の記録は、読むだけでも苦悩を誘うのだが、彼が疑問に抱いた「感情」というものに対しての、無邪気な信仰を抱く人々の群れに――その「理解されなかったことば」に私は悲しくなる。

 そもそもの話、エビデンス主義というものが哀れすぎやしないか、ガブリエルや雅也も言うように貧しすぎやしないか。今日の「脳科学」が時として陥る思考停止状態、たとえば自己意識の構造を、再帰性という機能やクオリアといった「質」の問題へとすりかえるというおめでたさには絶句する。

尊い」だの「推し」だの「巨大感情」だのと、気持ちの悪い奇声を上げたかと思えば爬虫類のように目のデカい少女を手に入れるために、雀の涙ほどの給料を注ぎ込んでガチャを回し、女に相手にされたことがないからといって、存在しない女へシャドーボクシングを繰り広げ、それに飽きればフェミ叩きに走る、そのくせルンペンプロレタリアート向けの萌え声アバターには卑しくも(ニチャァ…と鼻の下を伸ばす、現在の末人以下と化したポタク

ふわぽへ『宮崎概説』

 しかし、伊藤計劃の「最悪」のファンたちは彼のことをよく理解していた。さいきん人気な國分功一郎や千葉雅也といった〈生〉を肯定してみせる彼らの哲学を尺度とし――伊藤を蘇らせる為の宗教的道具として、スピノザへの愛が必要なのだということを!

 濫用される伊藤計劃の死灰を弔い、哀悼の意を示しつつ、祓魔師としてこう言おう。病んだ思考への処方薬は、スピノザへの回帰こそ必要である。ドゥルーズスピノザへの無条件の崇拝という点にあって他の追随を許さない。フランスからアメリカに到るまで、アカデミアにおける不文律の一つにスピノザへの愛という指令がある――というのを証明は出来ないが――こんにち誰がそれを否定できるか想像もつかない。スピノザの如き愛は困難であり、我々を困惑させるユニークなものであるがゆえに。

 例えば「喫煙はあなたの健康を害する恐れがあります」といったように。そこでは何事も禁止されてはいない。ただ因果連関が知らされているに過ぎない。「セックスを本当に楽しみたければ、やりなさい!」といった指令は喜びを破壊する最善のやり口だ。とことん超自我的な例を出すなら、私が最近ホテルに宿泊したときのこと「ご滞在を存分にお楽しみいただくため、当ホテルは全館禁煙です。この規則に違反された場合は、罰金として○○頂きます」。――楽しむことを拒めば罰せられるのだ。

 過去において、超自我の裁きから疎遠な哲学者がいたとすれば、やはりスピノザであるだろう。ほとんど聖者と言ってよいほどの不偏、普通の人間の情熱と利害だけでなくすべての罪悪感や道徳的憤怒の情が気高さへと転じたユニークな姿勢を示してはいないだろうか? 百合を志す人間は極めて倫理的な態度が求められるのは自明のことであろうが、サディスティックな審級に苦しむのは人間の常であろう。スピノザを愛せないほど拗らせて絶望しきってしまう前に、処方箋としてスピノザはいかが?

 

最高の者たちの最後のダークツーリング、阿片としての『少女終末旅行

 ここにツァラトゥストラの最初の演説は終わった。世に彼の「序説」とも呼ばれる。ここで終わったのは、群衆がさけび、よろこび、ツァラトゥストラを遮ったからだ。

「ああツァラトゥストラ、この最後の人間をくれ」と彼らは叫んだ。「俺たちをこの最後の人間」にしてくれないか。ならば、超人はお前にくれてやる!」。そして群衆はみな歓声をあげ、舌を打ち鳴らした。しかしツァラトゥストラは悲しんで、心中このように言った。

「彼らは私を理解しない。わたしはこの耳のための口ではない。」

フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラかく語りき』

少女終末旅行』のアニメを見て、クオリティの高さに舌を巻いた。OPもEDも素晴らしい。世界崩壊後のダーク・ツーリングとしては最高峰の名誉が与えられるだろう。これに暗い快感を覚えるのは、ネクラ青年ならば必然だ。しかし周りの"オタク"たちの反応に唖然とする。やたらとこの作品を持ち上げるのだ。このような暗い快感に耽溺するタイプの作品は、ヘンリー・ダーガーの作品のように後ろめたさを持って読むべきである。孤独を阿片(勿論カール・マルクスの比喩!)で埋め合わせるように、決して人様の前で喜んで語り合うようなものではない。

 真のポスト・アポカリプスは本当に地球を終わらせる。最後の人間は、終末の途上におけるダーク・ツーリズムに多少の感慨を覚えるかもしれないが、性的に振る舞おうとする欲望も、生きようとする欲望も、死のうとする欲望も、すでに虚しいことを知っている。人間として、また人類として死を迎えることには、何の意味もない。保存し、継続するべきものを破壊するという意味すら無い。現代思想的な思い入れも、精神分析的な分析も、まったく意味がない。その世界は端的に無意味であり、徹底したニヒリズムがあるだけである。『少女終末旅行』は、世の凡庸なポスト・アポカリプスものや未来論に対して、その厳粛な事実を突き付けているのである。

[…]

 アポカリプスものにせよポスト・アポカリプスものにせよ、大災厄や大破局の恐るべき破壊的な力の魅力を、ときに倒錯的に描き出していると見られがちであるが、私はまったくそのようには捕えていない、そこで描き出される暴力像はあまりに通俗的であって、保存されるべきものと破壊されるべきものの区分にしても、あまりに保守的である。

小泉義之『最後のダーク・ツーリズム――『少女終末旅行』を読む』(アレvol5)

  もはや「最高」の人間たちは、ポスト・アポカリプスのような保守的なジャンルにしがみつくようになってしまった。佐々木中を引けば「幼稚」「怯えきった」ジャンルであるアポカリプスものに。つくみずのような(彼自身もここまで取り沙汰されることを望んではいなかっただろう)ネクラ・サブカル男の鬱屈した欲望を植え込まれているようでは……。宇野常寛は、かつてもう殆どご破算となった日本オリンピックから日本という国の「ヴィジョンのなさ」を指摘した。未来は保守的な夢想で描かれる。確かに、われわれは〈最後の人間〉として鋳直されてるのかも知れない。夢も希望もありゃしないのが今の世界であることは間違いない。つくみず的な作品が持て囃されるのは当然だ。私も終末旅行を夢見る。酷い人生はもう散々だ。ゆっくり旅行でもして終わりたいとも思う。それでも……

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 私は――風車に突撃する者が好きだ。百合が好きで、可愛い女の子が好きだが、何よりも漢が好きだ。現実で行動する者が好きだ。ビラを撒くものが好きだ。街頭に立つヤサグレが好きだ。フェイエルバッハテーゼ11に根ざさない読書など現実逃避だ。しかし取りて読み、酷い世界と闘う漢が好きだ。女もそうだ。

 

喜劇の誕生-百合界のアレキサンダー大王「みかみてれん」

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 自己で百合専門レーベル「みかみてれん文庫」を設立し、Kindle Unlimitedに加入さえすれば無料で良質の百合が読めるようにした益荒男。『プラネット・ウィズ』のノベライズも手掛けている(最初なんで?とびっくりした)。百合を「ガールズラブコメ」なるものとして新解釈を提示した、まさに百合界のアレキサンドロス大王だ。

 シンプルなイデオローグなのであまり長々と語ることもないのだが、みかみてれんには流石の私もなるほど、そう来たかと思わず膝を打った。少年まんがの文脈であるラブコメで百合をやるなんて!まさにゴルディオスの結び目を断ち切るような所業だろう。時代錯誤の表現だが「女特有の陰湿争い」というもの(欲望!)がある。少女まんがとか昼ドラによくある感じの、どろどろとした感情が逆巻くアレだ。それを少年まんがの文脈に取り込み、男塾なみのバカバカしい騒動(ヒステリーは症候的なもので、「健常者」(=定型発達)にとっては異質な深刻化に見える。それを非-深刻化している)に変換している。深刻な症候に苦しむ者は症候に悩んでいない外部からは、「は?」「何言ってん」としか思えないので(フォアグラを食べることに何の疑問も抱かない人間が、ヴィーガンの言動を理解出来るか、考えてみよう)、症候を提示しつつ、それを非-深刻化すればどんな事態がやってくるか。喜劇の誕生である。バディウが『哲学宣言』のなかでハイデガーを引いて「哲学の真の任務は深刻化」だと語ったが、非-深刻化は何の役割だろうか?

 

 私にはみかみてれん作品に出てくる美少女たちが、『学園革命伝ミツルギ』のキャラをマイルドにした感じに思える。あるいは乙女向け作品のあのばかばかしさとでも言うべきか――。(アニメはちょくちょく見てはいるが、正直乙女向けゲームをプレイしたことがない。しかし聞くところによると、ユーザーに嫌われないように主人公のデザインには繊細に気を使うらしい。攻略対象の女キャラが魅力的でさえあれば、主人公の男のキャラクターの酷さは不問に付されがちなヘテロ男性向けハーレムものとは対照的かもしれない)中里の作品と違って嫌味がなく、テンポもよく、読みやすい。速筆でエンターテイナーとしてもよい。採用されているモチーフも流行を取り入れていて気が利いている、女の子もかわいく、LGBT方面への配慮もあって気が利いている。

 しかしアレクサンドロス大王の逸話で注意されたい点は、ゴルディオスの結び目は「解きほぐされていない」ということだ。もし剣で一刀両断にするという野蛮な方法ではなく、難題に知恵を総動員して立ち向かい結び目を解いていたら、アレクサンドロス大王はアジアどころか世界を統一してしまう程の凄まじい力を手に入れていたかもしれない。結び目を斬り裂いたことと、アレクサンドロスが予言通りアジアの王になったことは全くの無関係なのかもしれないのだ。そこには、ただ預言者が残した謎が残るのみ。

 みかみてれんは素晴らしい。彼奴こそ「令和」の百合の幕開けに相応しい――からこそ「でも、いいの? 本当にそれで?」と頭を捻ってしまう。ともあれ、期待すべき作家である。凡庸な作品の感想には逆説も疑問符も入らない(オマージュ)。


最も崇高なヒステリー発生装置『やがて君になる

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やがて君になる』を読んで私は確信を得た。

  手っ取り早く女性同士を理解する方法――解像度の高い百合を書く為の精神と時の部屋は、人間観察を欠かさないことは勿論、特に重要なのがオタサー(自由恋愛市場における弱者の集まり)の男女の交流をよく観察することだ。

やがて君になる』の生徒会は、私の目にはオタサーの真逆のように映る。ならば百合ナビの総選挙でもブイブイ言わしまくった覇権的作品を読み解くことが重要なら、その真逆を読み解くのもまた理解に役立つのではないか。

 

 

やがて君になる』これが「今風の恋愛」という奴なのだろうか。卓越した画力で描かれる新時代の恋愛劇。いったい誰がこれを否定できようか。可愛げがないほどに完璧なまんが、そしてアニメであろう。

 ヘテロセクシャリズム、更にギデンズ的な親密さを超えた――二十一世紀、衰退国家であることが突き付けられた我々が憧れる恋愛の形態は崇高なヒステリーのように思える。症候、症候、また症候で、フェティッシュおたくの私にとっては頭がパーンしそう。若い女性に人気で、これを理解できない奴は百合を読み書きする資格すらないように思える。と、私は『やがて君になる』の力でヒステリーに陥っていることに気付く……。

 個人的な話&ルッキズム、少女至上主義全開の発言で申し訳がないのだが、おたくショップに行くと、若い女の子が平積みされたやが君の前で百合談義しているところに出くわしたことが数度ではない。しかも大体が、身なりにしっかり気を使った、ルックスでいえば女宮崎では全然ない、やね(当初は歯に衣着せない表現を用いたが、流石のことに自分を恥じ赤面。控え目な表現に変更)。

 ミヤザキ男性としては、何か嫌な感じになる。百合について語る色事どころか女性に縁がなさそうなミヤザキ男たちを見ると苦々しい気持ちになる。「可愛い女の子が楽しんでるものを楽しもうとする、オッサンのおたく男って醜くないか?」そんな自責の念に駆られる。という訳で、告解の如く先進的な人々にこんな悩みを打ち明ければ、こう諭され背中を押されるだろう「容姿や年齢、性別に囚われるなんて、時代錯誤なことですよ」。ぬるくなったコーヒーをシンクに捨てることに躊躇はない癖に。

「アドレサン」や「若者」が社会的存在とみなされるようになったのは、じつはそう遠い昔ではない。[…]若者たちはいまや、社会のほうが真似ようと努めるモデルとなり、「規範」となった。

フィンケルクロートによれば、この反転は一九六〇年代から八〇年代にかけて、すなわち、ロック、ジーンズ、ドラッグのカルチャーとその余波のなかで起こった。「〔若者文化に特徴的な、言語の破壊と他者の非言語的融合〕という退行は、もしも〈若者〉がいまやいたるところにいるのでなかったとしたら、まったく害のないものだっただろう。だが実際には、〔一九六〇年代から〕二〇年もすると、異分子たちは規範を我がものにし〔若者の〕自律は覇権となり、アドレサンのライフスタイルが社会の全体に道を示すようになった。モードは若い。映画にしろ広告にしろ、まず誰よりも十五歳から二〇歳の大衆に向けられている。」そして、まさしく「世界のほうが死にものぐるいで若者のあとを追いかけている」のである。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う「心の闇」の喪失と精神分析

  みんな若者。若者基準。若い者勝ち。現代社会のこうした志向は、「若さ」のヘゲモニーから脱落した男の幻滅をモチーフのひとつにしたウェルベックの『ある島の可能性』のなかで、ごく簡潔にこう要約されている。――「際限のない若さに純粋に魅了されること」。誰もが若さを保つ為のスキンケア、若い服装を着ること、若い音楽を聴くこと、若い言葉遣いをすることに心を砕いている。それが出来ない人間は、時代に置いていかれた悲しいジジババとして嘲笑の対象となる。

 今や「年甲斐もなく」という言説はリベラル社会においては「ハラスメント」となり、幾つになっても若々しくある事が奨励される。何を始めるにも、遅いということはなくなった。日本ではアラサー女性が、小娘のような格好をし踊り歌い、ミヤザキ男たちがそれを賞賛。年齢という失礼な先入観にとらわれない自由のモデルが日本には根付いた。クールジャパンは欧米が見習うべきリベラリズムに則った模範例だ。

 立派な人々はジェンダーの多様性について確信を持って語り「性別とは最早過去のもの」と言う。今や誰もが性器の有無に関係なく自分が男か女かを自由に選択し、悩み抜いた結果、判断保留も可能だし――選択しないことを選ぶもできる。そして次の解放運動のムーブメントは、年齢であることは想像に難くない。ノア・ハラリが言うように、ホモ・デウス達はもはや時間の軛をも超越する。

69歳のオランダ人男性Emile Ratelband氏は、法律上の年齢変更ができない状況に大きな不満を抱いている。自分はまだまだデートアプリでモテたい。顔もイケてるはずだ。医者にも、私の肉体は実年齢より若いと言われている。「もしも49歳になれたら、人生の可能性が広がるのに。」そう考えたRatelband氏は、20歳若返るために、自分の生年月日を1949年3月11日から1969年3月11日に変更するよう、裁判所に訴えを起こしている。

「私は自分を40歳から45歳ぐらいだと認識しているので、そのように年齢を変えられるべきだ。」これが彼の主張である。彼は性別変更と年齢変更の要求を同じようにとらえており、こうして引き合いに出すとトランスジェンダーの人々に不快感を与えかねないという指摘も気に留めていない。性別にせよ、名前にせよ、年齢にせよ、これは自由意志の問題だと彼は語る。

「あと20歳若ければ、可能性が広がる」69歳のオランダ人が、法律上で年齢変更を訴える | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

 

 

 ひとつ挑戦的な捻りを加えてみよう。この作品における槙くん(私の彼への率直な印象は、「面白いけど、気持ち悪い。美少年だから許されるキャラ」)のルックスが――『神聖モテモテ王国』のファーザーだったとしたら、どうだろう? 登場キャラがみんな美男美女ではなく――劇中で美形とされているキャラを除いて――ブサイクだとしたら、この作品は成り立つだろうか。

〈症候モード〉のイデオロギー――現実らしく感じさせるイデオロギーの嘘が、「抑圧されたものの回帰」としての症候――イデオロギーの嘘という構造の裂け目――」に脅かされる(ジジェクポストモダン共産主義』)。症候はフェティシズムと表裏一体のものであるが、最大の違いは後者はそれに快楽を得ており異常性を認識しているが、前者は真剣に苦悩しているということだ。『やがて君になる』を読んだ人々の感想を適当に探して見てみればいい。症候に陥っている――のは作品の仕掛けが上手く働いているという証左だ。なぜ私は、この作品を読んで「自分の世界とはまったく別のことが語られている」と疎外感を味わうのか?

 

 ジジェクの仕事は、イデオロギー的、想像的な効果へと哲学を矮小化する「症候的読解」から哲学を救い出し、哲学省察に新たな信頼性を齎す点で、有効である。神経症者(強迫者、ヒステリー者)とは近代を生きる人間の謂いである。健常者と呼ばれるいわば普通の人は、ラカン精神分析では軽度の神経症者とされる。『やがて君になる』のヒロイン七海燈子はとんでもないヒステリーに陥っており、小糸侑に感情移入するかのように読者は振り回され、困惑させられ、そうしてこの作品の前に「ヒステリー者」にならざるをえない。

 百合作品が語られる際の「女の子が好きなんじゃなくて、好きになったのがたまたま女の子」式の言説には何か途轍もない欺瞞を感じる(YY,P114を参照)。この作品を素朴に読めば、たびたび「ヒステリー者」として想像的な袋小路に行き詰まる。見世物小屋の中で、小屋の中以外――世界を忘れて見世物に熱中するというのは、立派でないどころか美しくすらない。ならばジジェクヘーゲル理解のように、ラカンと読んだり、マルクスフロイトが切り拓いた道を、もう一度辿ってみたり――というような柔軟な読み方が必要に思える。「精神の病」というヘーゲルの時代以降にやっと見いだされた病を、同じく近代的なものである「恋愛」その変奏である百合を読みとく鍵としてみるのは、効果的な試みではないだろうか。

 

別の仕方で百合を語るために「千葉雅也」を読んでみる

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 渋谷センター街から横道を入って、井の頭通りのちとせ会館の前に出る。その上にある日焼けサロンに行く。ロッカールームにうようよいる冬でも真っ黒な男たちを見て、なんでこんなイケメンが女と付き合うんだろうと不思議な気持ちになる。こんなにイケメンならイケメン同士で付き合えるだろうに。ゲイは数が少ないのだという実感がなかった。街で見かける男のほとんどがノンケだなんて、嘘みたいに感じる。この無数の男たちが女しか好きにならないなんて、僕を騙すための壮大なドッキリなんじゃないかと思う。

 金髪と黒い肌のコントラストが鮮やかな、小柄な男がいる。付きすぎていない筋肉の起伏が、上等な木を使った家具のように美しい。こんなにかわいいのに、つっぱって、男らしく、女を引っぱっていこうとするに違いない。もったいない。バカじゃないのか。抱かれればいいのに。いい男に。

千葉雅也『デッドライン』

 百合はBLなどの女おたく文化――「女性の欲望」を屋台骨にしていることについては散々述べた。当然そこにはレズビアニズムも反映されたりされなかったりしている――が、ではゲイ文化はどうだろうか? BLに登場する男は実際の男とは掛け離れているにはしても(大抵の百合より、BLのがカリカチュアライズが激しい感じがする)、男と男の関係という点では同じである。ゲイ文化がBLを経由して百合に浸透してもおかしくはないのではないだろうか?

 当然、ゲイ文化とBLはまるで違う。適当なBL本と、田亀源五郎児雷也のゲイまんがを比べれば違いは一目瞭然だ。しかし非-女おたく文化における、有名なゲイ雑誌『薔薇族』の愛読者たる女性が一定数いたのは確かだ。ジャンルとしての百合の語源ともなった――『薔薇族』内で「百合族の部屋」という新コーナーがあらわれた。この「百合族の部屋」は女性同性愛を扱ったコーナーではない。あくまで男性同性愛者に関心を抱く女性からの投稿欄である。結果として、百合族なるものは定着しなかった(YY,P101)。まぁなんやかんやで、ゲイ文化と百合なるジャンルは、あまり接点がないという結論に到る(ホモソーシャルという意味でだったら、どうだろう?)。

 

 バイセクシャルを公言している千葉雅也がゲイ小説を発表した、と聞いて、これは何か百合への知見が得られるかもしれない(立派な態度ではないことは前提として――浅はかだろうか?)と思い『デッドライン』を買って、読んだ。ポリティカル・コレクトネスやポスト・コロニアリズムといったポストモダンの果実を口にすることを拒んでいる私は、千葉本人が投影されているであろう主人公のゲイであることへの素朴さ、ゲイであることへの素直な喜びや欲望に、はっとさせられる。そして軽やかだけれど、現実にありあそうな「配慮された」抑圧も感じる。巧みな差別とでも言うべきか。「解放の思想は解放の理論を必要とする。誰が、何から、いかに、解放されたいのかを知らなければ、現状に対する不満や怒りのエネルギーは、方向を見失う。」とは上野千鶴子の有名な言葉だ。

 恋愛結婚のヘテロカップルと同等の権利を同性愛者が獲得することは必要だと私は主張する。むろん獲得されるべきだ。しかしその「べき」論を、作品に批判や検討なく、’「自明の正義のように」持ち込むことはいかなるときも美しくない。必要なのは善悪ではなくその彼岸である美だ。

 女性化や動物化について語ったドゥルーズガタリその他諸々が引かれているが、非常に読みやすい内容となっている。「小賢しさ」のない――「動物」のように!この圧倒的な素朴さは、素朴な人間には不可能であるように思える。

  2007年、アメリカでのことです。保守派の(=非常にゲイに優しくない)上院議員(男性)が、空港のトイレでおとり捜査中の警察官(もちろん男性)を性的に誘ったとして現行犯逮捕され有罪を認めた、という事件がありました。

 事件そのものは、見てのとおりのものであり、私から言いたいことはなにもありません。私がここで問題にしたいのは、この事件に対してどんな態度を取るか、です。

「自分自身もゲイでありながら、政治家になるために保守派に媚びた」とその議員を批判するのは、よくある態度であり、立派な態度でさえありうるでしょう。が、作品を読む・書く態度ではありません。

 

 もうひとつの例を見ましょう。

 1980年代のHIVパニックが収まってから現在に至るまで、欧米におけるゲイの権利運動というと、同性婚がもっとも注目されています。外野から見ると、ゲイの権利運動イコール同性婚、とさえ見えるかもしれません。

 欧米におけるゲイの権利運動は1990年に始まったわけではありません。70年代、60年代、50年代にもあり、当時の運動の担い手の多くは現在も生きています。そんな人々のひとりが、同性婚の争点化について、こんな感慨(大意)を述べていました――「どうしてゲイの権利運動は、恋愛結婚のヘテロカップルの真似事に熱中するようになってしまったんだろう。私たちの時代はこんな風ではなかった。恋愛結婚のヘテロカップルの真似事でない、ゲイらしい人間関係とライフスタイルを目指していたのに」。

 以上の2つの話を並べられて、さて、読者諸氏はどんな態度を取りたくなったでしょうか。あくまでも、作品を読む・書く態度として、です。  私の模範解答――「もしかすると例の上院議員は自分なりに、『ゲイらしい人間関係とライフスタイル』を実践していたのかもしれない」。

 これはどう見ても、立派な態度ではありません。「この非国民め!」と罵られても仕方なさそうです。が、作品を読む・書く態度とは、こうしたものであるべきだと私は考えます。

中里一日記: 百合だからコラム百本 第5回 セクシュアリティと善悪とヒエラルキー

『デッドライン』的な考えをする百合キャラクターがいたら、それは『解放区としての百合』で中里が提示した「ストーカー的ヒロイン」――よりも遥かに節操はあるにせよ、フリーセックスなフェティシストとしての――一昔前にはよくいたお笑いレズキャラと紙一重ではないだろうか?(お笑いレズキャラとストーカー的ヒロインの違いは、前者は可愛い女の子になら興奮するが、後者はもちろん誰でもいい訳ではなく、対象に執着しているからこそストーカー的なのである)。フリーセックスのゲイ≒乱交するゲイ(YY,P126を参照)に近しいのは、女子校の王子様……。少女セクト

『落ちこぼれフルーツタルト』は徹底的のお笑いレズキャラの話に見える。そうやって色々考えてみると、百合というジャンルはまだまだフロンティアであることを再認識させられますな。

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凍てつく世界、燃え盛る浄罪の焔、純白の薔薇『私に天使が舞い降りた!』

 詩の真実を数学素の潜在的虚無主義に対置するよりも、この美の同一性に、「ごく僅かの人たち」ではなく、遂にはすべての人が気づくようにしなければならないのだということを我々に考えさせるのである。

アラン・バディウ『哲学宣言』

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 私は人生で一度だけ神秘体験をしたことがある。TVアニメ『私に天使が舞い降りた!』の十二話を見ていた時のことである。劇中劇『天使のまなざし』が演じられる。始まって数分、普段モニタの光でのみ生活しているのだが、深夜だというのにやけに部屋が明るい。そして凍てつくように寒く、痛みすら感じる。ふと後ろに気配を感じると、そこにはラテンの詩聖ウェルギリウスが立っていた。彼は私に言う「見るのだ。詩人、めておよ!」。彼の言うとおりに、見た。まだwifiが繋がったので、Twitterにそのことを投稿したら。バディウから「いいね!」が付いた。

 部屋の蛍光灯は、小カトーの瞳に変わって私を見守る。ウェルギリウスは『天使のまなざし』についての解釈のヒントを呟く、そのたび神が授けられたうつくしいメッセージが――魂に浸透し「嗚呼、分かった」と、罪が消えていく……。高慢の自惚れ屋の罪が、嫉妬の暴君の罪が、憤怒の、怠惰の、貪欲の、暴食の罪が浄罪の焔に焼き払われ消えていく。焔は暖かかった。そして画面の中の天使たちの愛の邂逅によって、愛欲の罪が消え去った……。痛みが消え、自分を消していく……。

 するとウェルギリウスは満足そうにほほえみ、「私はここまでだ」と言った。途端に心細くなったが、永遠の淑女ベアトリーチェが私の手を引いた。そうして至高天を目指しながら、宇宙いっぱいに映し出されるわたてんを見て涙する。諸遊星天から恒星天、原動天と下から順に登っていく。トマス・アクィナスをはじめとする列聖と、わたてんについての神学的な話をした。やがて私はエンピレオへ至り、天上の純白の薔薇を見て、この世を動かすものが神の愛であることを知った。そしてウェルギリウスのことばを思い出し、継承すべくかたく決心した。「我、冥界を動かさん」。確か三時くらいには解放されて、ビールを飲んで寝たと思います。

 

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読者「おい! 大法螺はやめろ! 折角ここまで読んでやったのに、そろそろフィナーレときた段階でふざけるのか?」

 

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筆者「本当のことですよ。言いがかりはよしてください」

 

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読者「コノテーションを読み取れという意向は理解出来るが、これは純粋な読者を混乱させてしまう恐れがあるリスクの高い賭けだろう。君の芸風には困惑させられる」

 

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筆者「まぁ、そう言わないで下さい。逆に聞きたいんですが、こういった書き方以外に、アニメわたてん最終話の素晴らしさを示す方法があるんですか?」

 

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読者「あの神秘的な劇中劇を叙述するのはむずかしいことは認めよう。反論を捻り出すのに苦しむのは確かだな。しかしもう少しマシな書き方はあっただろう。言い訳ばかり達者な未熟者には困ったものだ」

 

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筆者「まったく、齧歯類ふぜいが文句ばかり付けて。これでも苦労しているんですよ」

 

中里の師「中島梓」そしてキリストからレーニンへ-また元へ

酷い話じゃねぇか

酷い世界だろ ここは!

モノリスソフト 任天堂ゼノブレイド2』

 女おたく文化を語る上で外せないのが栗本薫中島梓である。『グイン・サーガ』や『美少年学入門』が有名だろうが、中里は彼女の最高傑作を『魔都 恐怖仮面之巻』だと言う。(中里一日記: 中島梓先生の訃報に接して

 中島――栗本の作品を全部読むのは、はっきり言って無理がある。寡作の権化として知られる彼女の作品を、全部読めというのは、時間的にも難題であるし、まず入手が出来るかどうか、が問題になってくる。取り敢えず『グイン・サーガ』くらいは読破してから語れ!と強要されても、勘弁してくれと言わざるをえない。なので本当に最高傑作なのか、私にはフェアな判断が出来ない。少なくともそんな事を言うのは、彼女の読者のマジョリティではないということは分かる。しかし、『魔都』を読んで言えるのは――この作品が苦手な人間とは、仲良く出来る気がしないということ。

いや、ぼくは、ちっとも小説など書きたくなかった。ぼくはただ小説の主人公でありたかっただけだ。

栗本薫『魔都 恐怖仮面之巻』

 人は何故小説など書かねばいけないのか。これを打ち明けるのは、はっきり言って不利益になるのだが、私は小説を余り読まない。まんが、アニメやADV等の複合的なコンテンツの方が圧倒的に好きだ。絵も音楽もできないゴミの心地よい避難所、と小説を見下すことすらあった。

 だから小説を読むからには哲学的・宗教的な小難しさや、著者の深淵なる知的背景、薀蓄の量を求めてしまう傾向にある。クンデラエーコチェスタトン辺り(なんとメジャーで面白みのないことだ)が好きといえば、なんとなく理解して貰えるだろうか。ソローキンくらい突き抜けていなければ、量産型きららまんがの方がよっぽどいい。おたくになった原因は『キノの旅』あたりの電撃文庫だが(ANIMAXで放送されていた『灼眼のシャナ』を見るために夜ふかしを覚えた)、ライトノベルをたくさん読んだとは言えない。確かに中学生のときは『デュラララ』や『GOSICK』に興奮し、高校生のときは『人類は衰退しました』に感動した。だが今や――ご覧の有様である。何故だろう、鬱病と関係あるのか? しかし最近ようやく分かってきた。なぜ人は小説を書くのか、文学を書くのか、書かねばならないのか。闘いであり、革命の為だ。私が小説を書いたのは「啓蒙」そして「自己変革」の為であったことを思い出す。

 

『魔都』この小説に、小難しいところは何もない。舌を巻く修辞的なレトリックが、叙述的な仕掛けが拵えてある訳でもない。ただ切実な実直さに、打ち拉がれるのみ。本物の小説家は、人の心をここまで揺さぶることが出来るのか、驚くだけ。小説を書-かない人にとっては、社会生活を円滑に送る上で邪魔にすらなるであろう感性が、洪水のように押し寄せては、たじろがざるをえないだろう。彼女の作品を読むのが、今やジジババばかりというのは勿体ない。

 ここで我々は、中島梓栗本薫の「行き過ぎた」感受性が、その才能を惜しげもなく濫用し決河の勢いで小説という媒体へ変換されたことが、シューベルトを聴くレーニンの身振り(彼は感動のあまり泣きだして――「革命家にこのような感受性は必要とされていない!」と冷酷であろうと努める)に似ていることを意識する。

 我々が必要なのは、感傷に浸る事でなく、それを飼い慣らすことだ。感情を変幻自在にコントロールするという意味では当然なく――あらゆる日和見的妥協を退けた、かくあるべしという世界への愛であり要請、世界に対する怒りへの変換――『魔都』には破壊的な執念が込められている。ロベスピエールからチェ・ゲバラにいたるまで、革命家達がよく承知していたように、愛と憎悪が革命の為の必要条件である。キリスト教ローマ帝国に対して行ったことを、今日の帝国に対して、そのレーニン的身振りを反復できたらどんなに素敵だろう。

 とりあえず、読んでミ……。

 

糞の為に焼かれた神の子のヰタ・セクスアリス『女の子になりたい』

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 まふまふさんは、おたくガールに大変人気がある所謂男性アイドル的存在であり、現在のサブカル音楽シーンを語る上では外せないミュージシャンである。私の好きなVtuberであるアズリムちゃんの『人類みなセンパイ!』の作曲にも参加している。中性的なイケメンであらせられるまふまふさんは、下手な女性よりも美しいと言ってもいい。

『女の子になりたい』は二千万再生もされている人気曲だが、なぜ百合を語る為に女の子になりたいと歌うカマホモを取り上げなければならないのか。

上目遣いで太陽が昇って

ウィンクのひとつで喧嘩が収まる

まふまふ『女の子になりたい』

 そんなことが可能だとするなら、女の子とは神にも等しい存在ではないだろうか。この曲で歌われる女の子の特徴は、ひどく紋切り型に思える。まるで宮廷恋愛で騎士が婦人に捧げる愛の手紙に多様されるレトリックのように、誰を指しているのか分からない。「女の子に理想を抱きすぎではないか?」というシニカルな意見を、この曲を聴けば誰もが脳裏に掠めるだろう。しかしそれが無粋であることを同時に理解する。BLにおける〈美少年〉のような存在である〈女の子〉。フランス亡命後のクンデラのキーワードであるところのキッチュ

「存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なもの(kisch)という」

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 人間の生物学的条件である排泄、肉体の汚穢、馬鹿騒ぎ、ノンセンスをことごとく否認し、清潔にして十全に肯定的な価値観で貫かれた世界を思い描くこと。未来への確信に満ち、微笑みに溢れた世界のなかで、多幸症に酔い痴れること。『存在』の著者によれば、こうした天使的な理想主義こそがキッチュの本質であり、それは「人間の性」に属するものと考えられている。

四方田犬彦オデュッセウスの帰還』

  まふまふによって歌われる〈女の子〉はまさしくキッチュそのものである。〈女の子〉であることが絶対的な美との同意であり勝利であるような前提そのもの。誰もがひれ伏す「かわいい」という力へ疑問を抱くことは不毛であるかのように歌われる。〈女の子〉になりたい男性を、近年よく目にする。「女の子になりたい」と言う男性に「お前が女になってもブスやぞ」というのはナンセンス極まりない。ブス(顔がぶさいくな女性)は〈女の子〉には成り得ないからだ(美容整形という西洋に特有の形態である女子割礼が必要になってくる)。そういった意味で、誰かが男の娘について西尾維新を借用してこう語った「女の子になりたいと努力する男の方がより本物らしい」や、「女装は男にしかできない最も男らしい行動」というのは、真に迫っている。ホラティウスのことばを捩ってみれば、二流の女は存在を許されるが、二流の男の娘は存在を許されない。〈女の子〉という概念の作用によって。

 

 ここで我々は否応なしにキルケゴールゲーテが崇拝する少女性、キャロルやナボコフに代表されるロマン主義的な少女への憧憬を連想する。八〇年代ロリコンブームのさなかで、一部の男性おたくは「少女を保有/少女とセックス」を欲望するのではなく――「少女である」ことを欲するようになる。なぜ男性向けエロまんがでは、男性の快楽はほぼ描かれず、少女の性的快楽ばかりが強調されるのだろう?

 少女とはファルスの典型であり、フェティシュと症候を同時に引き起こす力である。

水仙』では、インポの漫画家が美少女にセックスしてもらうのですが、男性の快楽はほとんど描写されません。逆に彼女の絶頂こそが丁寧に描かれます。『水底』では、山あいを流れる小さな川の底で暇を持て余す影のような少年が、美少女と出会い性交するのですが、少年は彼女とはそれきりで、夏が終わりを告げても、同じ場所で待ちぼうけるようになります。『海から来た機械』では、史羽という少女について来た機械のヤドカリのような生物が、彼女の望みを果たすために彼女そっくりの姿に変身して、想い人である先生と彼女の望まない強引な手段で結ばれようとします。美少女と結ばれたいという欲望は、去勢されたメタモルな機械を媒介にすることで、報われないのならいっそ美少女と同一化したいという倒錯した、肥大化したエゴのような欲望へと変質し、無意識に彼女を傷つけてしまいます。ここではその暴力性が描かれています。

ふわぽへ『宮崎概説』

 もっと芸術的な例を挙げて少女の力を証明するなら、欲望を魅惑するものの絶頂を成すように建てられた影像、プラトン的主題からボッティチェリの筆に至るまで同じ形相を以って更新されている影像、すなわち、ヴィーナスの誕生アフロディーテであるヴィーナス、波間から表れ出てきたヴィーナス――彼女の身体は苦い愛の波の上に立っている(精神分析家的な悪癖を発揮するなら、勃起していると表現すべき)ヴィーナス、あるいはロリータ。

 その影像は何を教えているか? 我々はその影像を、フェニヘルの用語を用いるなら、「少女=ファルス」の象徴等式において、同定することが可能だ。ファルスはここにおいて、他の仕方で連接されたはおらず、本来的に言って、同じ仕方で連接されている。我々がファルスを微示的に見るところは、まさに、ファルスが存在しないところである。我々がファルスをヴェールの下に仮定するところは、ファルスが欲望の勃起において顕現するところ――それは鏡の此方側である。

 ファルスがヴィーナスのまばゆい身体において、我々の前に存在するとき、それは、まさに、その下にはファルスは存在しない限りにおいてである、あの形相がリビドー装飾されているのである。

 歴史は谷川だけでなく、百合にも味方をしなかった。〈崇高な男〉の発見によって少年愛やおいへの道を歩みはじめた一九八〇年前後、百合は、複数性のなかでようやく存在できた世界解釈モデルのひとつにすぎなかった。もちろん、〈崇高な男〉のメカニズムをそのまま〈崇高な女〉にできるわけがない。少女まんがの読者と作者が「女」だったのだから。

 しかし、少年愛まんがなしには、現在のやおいボーイズラブの隆盛もありえなかった。百合の重要なインフラであるやおいボーイズラブの起源を理解することは、百合を理解するうえで大きな意義がある。

中里一『百合史・百合論』P78

〈女の子〉であることへの勝利の確信、百合で強い勢力を誇るきらら系まんがに多く発露されるイデオロギーは、〈崇高な男〉を創造するメカニズム――人を男にするシステムから切り離された――とは駆動形態を異にする。なぜなら、〈女の子〉は、殆ど〈女〉であることで成立する〈崇高な男〉とは違い、〈殆ど女〉らしくあることが条件であるからだ。いわば、過剰なまでの〈女〉らしさが〈女の子〉の条件であるから――ここで阿澄佳奈ニャル子さんを演じていたとき流行したコピペが閃光のように脳を貫く。

阿澄佳奈「(何かキモいセリフばかり言わされるし……キモいオタクに付きまとわれるし……)」

阿澄佳奈「(それにこんなキャラ現実にいないよ……何でこんな演技ばっかり……)」

スタッフ「阿澄さん、本番お願いしまーす」

阿澄佳奈「まっひろさーん!!!!!!私と結婚しましょーうwwwwwwwww」

 我々は大事な疑問を思い出す。そもそもの話「女」って何? 書き殴ってみたが、難しい。この辺を詳しく解説すると、また立派な本が出来上がるので、それを理解する為に百合という試みが必要とされているのかもしれない――という風にブン投げて世界の果てへと向かおう。

 

世界の果て

 ディオゲネスプラトンは彼を「狂えるソクラテス」と呼んだ。「シニカル」の語源であり犬儒派とも訳されるキュニコス派が彼を創始者とするのでは無論ないにせよ、彼の姿にこそ類似したものたちのひとつの群れをなすことは確実である。彼は貧しく、物乞いであり、杖を持ち頭陀袋を担ぎ裸足で彷徨し、家なく祖国なく、国家を否定して世界市民を自称し大甕のなかに住んでいた。彼は同時代の人びとに対して嘲弄的であり、傲然と尊大であった。地位も名誉も習慣も結婚制度も、人肉食をも含む食の禁忌すら冷笑した。捕えられて奴隷に売られ何が出来るかと問われれば人を支配することだと答え、アレクサンドロス大王が名を告げて誰何すればひるまず俺は犬のディオゲネスだと名乗り何を望むかと言われればそこを退け陽光を遮るなと言った。心身ともに厳しく鍛錬することを何よりも尊んだが、一方で何をするにも公然と隠さず広場で行い、それは飲酒に限らず性交や手淫にも及んだ。曰く「腹もこのように擦りさえすれば満足すればよいのだが」と。プラトンも幾度もユーモラスと言っていい応酬を演じ、果ては彼が人間は二本足の羽のない動物であると定義すればその教室に羽を毟った鶏を投げ込んでこれが人間なのだと嗤った。

佐々木中『夜戦と永遠 ラカンフーコールジャンドル』「文庫版補論」

 あなたが読み飛ばしているその一行一字は、 すべて誰かの犠牲の上に書かれているのを知っているんですか?

ProjectMoon『Lobotomy Corporation』「イェソドコア抑制」

 道化師は全ての者が歩んだ道を辿りました。その道の終わりはいつも自分でした。彼女らが集まって自分なのか、自分が彼女らに似たのか知る術はありませんでした。

「君たちが私を作ったんだろうか、それとも私が君たちを作ったんだろうか。」

「私はみんなに似ていて、みんなが集まって私に似ているから。」

「ゆっくりと辿った。君たちが歩いた道を。」

ProjectMoon『Library of Ruina』「虚無の道化師」

 

 中里はソヴィエト連邦についても造詣が深く、アネクドート共産主義エピソードをよく引用する。その中でも、『百合史・百合論』で引かれた、百合を語る上で最も重要であろう、ソ連水爆の父サハロフがネデーリンから受けた侮辱をそのまま掲載する。

 私はグラスを持って立ち上がり、およそ次のように乾杯の言葉を述べた。

「われわれの水爆装置の爆発が今日のように成功するように。ただし都市の上空ではなく、実験場の上空で」

 まるで私が淫らな言葉を口に出したかのように、一座はしーんとしてしまった。ネデーリンはにやりと笑い、グラスを持って立ち上がって言った。

「ではこれから小話を一つ紹介しよう。寝間着姿の老人がイコン(聖像画)の前で祈った。『神様、導き給え、強め給え、導き給え、強くめたまえ』。ペチカに横になっていた老婆がそれを聞いて叫んだ。『おじいさん、強くなることだけを祈りなさい。導くことは私がやるから』。では国防の強化のために乾杯!

アンドレイ・サハロフ『サハロフ回想録 上 水爆開発の秘密

 ここまで歩み進めたあなたは、私なぞに騙されない者として荒野を彷徨う。穴を掘っても何もない。導いてくれる勇気ある犬はいない。挙句の果てにまだまだ先は見えない。

 

解放区としての百合

ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在』に寄稿されたもの。

 これまで述べてきたとおり私は、〈同性愛者〉や〈セクシュアリティ〉という概念を、カッコの外に出したくない。これらは〈格付け〉〈棲み分け〉〈共生〉のゲームの産物であり、百合はそのゲームからの侵食を受けない遊びである、と述べてきた。

中里十『解放区としての百合』(ユリイカ百合特集)

  お前を繋ぐ何もない。真理もなく誤謬もない。さぁ、走れ!

 

百合史・百合論

 手に取って、読め! 手に取って、読め! それをしないということは既にお前は死んでいるということだ。行け、お前は走狗ではない! ディオゲネスのように、行け! 走れ! イゾルデ! 走れ!

 

歴史のくずかご

 ル文研八十年の歴史をかたちづくった人々は、なぜキリスト教カバラに情熱を傾けたのか。私はおそらく、その答を知っている。文献捏造の疑いにとらわれた、あの大先輩も、知っていたにちがいない。

 捏造のほうがまだ救われるかもしれない、と思えることもある。キリスト教カバラは、思想として失敗した。著者たちが全身全霊を費やして書いた文献は、彼らの信じたような真理の礎ではなく、歴史の重要な一幕でもなく、些細な世迷いごとになった。人間の信念がこれほど虚しいものだとは、あまり思いたくない。

 けれど私は、これを逆さにする。

 彼らの業績を称えるべき理由がなにひとつないこと、それは彼らの失敗の証ではなく、自由の証だ。彼らは自分の情熱を、誰のためにも役立たせず、ひとりで味わいつくした。文献の一ページごと、一行ごとに、輝かしい才能と情熱が、惜しげもなく濫用されている。それはまぎれもなく、命あるものが持つ途方もない力の証だ。ル文研の情熱は、この力への共感に発している。

 生きていることの、目の眩むような傲慢さ。

中里一『歴史のくずかご』

  随分と駆け足だったが、もう言い残したことは何もない。いや――無限にある。

 ゆえにサミュエル・ベケットの『名付けえぬもの』の末尾の言葉を引いて本稿を終わろう。まぎれもなく二十世紀文学の傑作であるこの作品は、不死の部分対象の姿をとって生き抜く欲動を描いた武勇伝である。

「沈黙の中にてはわからない。でも生き続けなくてはいけない。いやできない。でも生き続けよう。」

 

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