【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

生者に取り憑く死者 めておろぎーの他者論のーと

 

序章:死、死者、死霊――他人事デハナイ!

生が死に対立するなどと言わぬように気をつけよう。生けるものは死んでいるものの一種でしかなく、それもきわめて稀な種なのだから。

フリードニヒ・ニーチェ『悦ばしき知』

 ふとした瞬間、我々は死者の事を考え―想起し―思い馳せる。

 それなりに長く生きていれば、時折、身近で親しい人間が死する―此岸から彼岸へと旅立ち―唯物論的世界観での永遠の別れを経験するのは必然と言ってよい、避け難い運命であろう。身近でない人間についてであるならば、またかと飽き飽きする程の怒涛の勢いで、強迫的なまでに「死んだ」というメッセージが我々に届けられる。昨日も今日も明日も、毎日毎日毎日必ずあらゆるメディアから誰かが死んだというメッセージが通告されている。

  遠い国の名前も知らない人間だとしても、彼ら彼女らが理不尽な死を迎えたとすれば、我々は何か悲哀や悔恨、憤りの感情に捕らわれる。もしそれが親兄弟や世話になった親戚、恋人や親友などの身近な人間であるとすれば、下手をすればそれまでの人生が一変する程に熾烈な感情に身を焦がすことになるかもしれない。志半ばで死んだ誰々の意志を継ぐ――などという感動的なエピソードは枚挙に暇がない。

 

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 筆者が好んで聴くアーティストのひとり『RURUTIA』は、楽曲制作を始める切っ掛けとなったのは、友人の自殺であり、自責の念や悲しみなどの感情を整理する為に曲を作るようになったと語っている。人間の死が他の人間を大きく変える――残された生者は、まるで死者に取り憑かれて人が変わったように今までとは別の仕方で闘いを始める、というエピソードは数えればきりがないほどの、至極メジャーな、ありふれたと人間存在の普遍的な慣習と言っても過言ではないのだ。

 

 誰もが知る代表的な例といえば、理念の為に毒杯を仰いで刑死したソクラテスが、現実政治への距離を置いていたプラトンの思想的転換を促す契機となったことだろう。プラトンは著書の多くでソクラテスのイタコ芸をやってのけている。これは、プラトンソクラテスが取り憑き―死者が生者を操るという普遍的な事象の、最も有名な事例ではないだろうか?

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 死者――この不気味な他者は、我々の精神を、たましいを、どうしてこうも激しく揺さぶるのであろうか?死者を恐ろしく感じた事のない者は滅多にいないだろう。彼らと上手くやるのは大変むずかしく、我々は喪を成し遂げる時でさえも、宗教的な専門家に高い金を支払って頼らなければいけないのだ。何故、我々は此岸で死者とよろしく酒を酌み交わし、手を取り踊る事が出来ないのだろうか?

 我々は物心付いた時には生者として世界に誕生した事を理解する。生者が現存在-生者である条件として、いまだ《死》を経験していないという事が不可欠である。此岸と彼岸の断絶は筆舌に尽くし難いほどに深い。ゆえに死者は絶対的な他者であり理解し難いのだ。

 では一体、何故、そんな死者が寄生虫のように人間の精神を蝕み、時として死者とそっくりの後継者へと仕立て上げて、巨大な社会的問題へと駆り立てる事が出来るのであろうか?

 

 

 人は死ぬ。死にうる。「すべての」人が当該する唯一の真理、唯一の事実があるとすれば、それは「死ぬ」ということだ。「すべての」人が死ぬ。「すべて」とは「死」のことだと言っても過言ではあるまい。これを書いている私も、これを読んでいるあなたも。「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」。

 この台詞が、オウム真理教麻原彰晃の言葉である事にも留意されたい。プラトンパイドンから、ヘーゲルニーチェハイデガーに至るまで、哲学史の中でも、死は主体の中にあって軸をなすものだった。

日常的な相互存在の公開性は、死のことを、たえず発生する災難として、「死亡例」として「承知している」。あれこれの近親者や遠戚の人が「死ぬ」。未見の人びとならば、毎日、毎時間、「死んでいく」。「死」は、世界の内部で起こる当たり前の出来事である。かようなものとして、それは日常的に接するものごとの特色をなす目立たなさのうちにとどまっている。そして世間はまた、この出来事にそなえて、すでにひとつの解釈を用意している。死について口にだして、あるいはたいていは言葉をはばかるようにして、世間が「漏らす」語の趣旨は、《ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は、自分の番ではない》ということなのである。

M・ハイデッガー存在と時間

  この直後でハイデッガーが続けるように「《ひとは死ぬ》という話し方は、死はいわば世界の人の身の上におけるひとごとだという意見をひろめる」。確かに人は死ぬ。絶対の理だ――そして、それがあまりにも耐え難いが為に、我々はそれを意識に昇らせないように努めながら日常に戻っていく。「死ハイカナル瞬間ニモ可能デアルトイウコトヲ」それを覆い隠して。

 つまり我々は、神経を殺す劇薬―ブランショが言う何か灰色に溶け出した不穏な静けさの中に解き放たれた―を用い――死をどこか他人事として受け止め、ハイデッガーが言う「非本来的な現存在」として生を送っている。

 

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ゼロ年代厨二病まんが『GetBackers』の激ヤバキャラ赤屍蔵人の名台詞。 

 

 旧石器時代に、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって、人類は類人猿と分岐した。「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を思い知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということだ。

 人間を類人猿から最初に分かったのが葬礼であるとするなら、「死者の発揮する恐るべき力能」についての知が人間性の核をなしているとも考えられる。だから、「人間性とは何か」という問いを突き詰めようと試みた思想家たちが殆ど例外なく死者と葬制の問題に取り憑かれてしまうのはことの道理である。

 

 当然だが唯物論的に死者は「存在」しない。「存在しないもの」が生者を繋縛し、生者のふるまい方を操り規定する。この「存在しないもの」については、これを生者の世界の語法によっては語ることができない。だから、節度を知る思想家は、死者については「死者が存在する」という言い方が不可能であることを知って、これを直接的に議題にすることを自制する。語り得ぬものには沈黙しなければならないヴィトゲンシュタイン)。しかし、死者たちは迂回的な言い回しで、それと名指されることのない仕方で名指される。語ってはならないものについて、黙ってはいられない!ジジェク

 

 ラカンに教育分析を受けたスチュアート・シュナイダーマンは、あるセミネールでラカンが自身の独特の文体について語った時のことをこう回想している。

戦争で殺された死者たちの幽霊の存在が生き残った者たちの精神生活の重要な要素であると言うのは過言だろうか。私はかつてあるセミネールでラカンが言った言葉を覚えている。彼のエクリチュール、彼が自分を表現するときの謎めいた方法は、もし彼がそれ以外の語法で語ったならば、「彼ら(they)」が彼にもう話すことを許してくれなくなるだろうから、この語法で語るしかないのだ、ラカンはそう言ったのである。そのとき、彼がいったい何の話をしているのか私には見当もつかなかった。セクシュアリティは欧米諸国ではもう日常的事実となっており、性的なほのめかしや言及が渋面で迎えられるような雰囲気ではもうなくなっているのに。しかし、あのときラカンはおそらく死者について考えていたのである。生き残った者たちの精神に取り憑き続ける幽霊について考えていたのである。

スチューアート・シュナイダーマン『Jacques Lacan: The Death of an Intellectual Hero

 

 ラカンにあの文体を要請しているのは「死者たち」、それも世界大戦の死者たちの「幽霊」ではないかとシュナイダーマンは推理する。

ヨーロッパの戦後世代が直面した問題は、いかにして〈他者性〉(Otherness)を同化するか、いかにして〈他者性〉を統合するかということよりも、むしろ、いかにして西洋的倫理を再建するか、いかにして形而上学と神学の問いかけに接近する伝統的なやり方を刷新するかであった。西洋思想を賦活してきた主体性概念の転覆は、この計画の第一部だった。第二部は〈他社性〉との対話あるいは弁証法であった。あきらかに文明の基盤に何か間違ったものが紛れ込んでいたのである。だから、あたかも何ごとも怒らなかったかのように、今まで通りに続けることはもはや不可能だったのである。

 死者は確かに「存在しない」――ここでは二重の意味で受け止めるべきだろう。一つは単純な唯物論的世界観において物理的に存在しないという意味で。もう一つは、死者を語り得る相応しいことばが見当たらない―無理矢理に〈絶対的な他者〉という空虚なシニフィアンに押し込めるほかないという意味において。その二つのレヴェルで死者は「存在しない」のである。しかし「存在しない」筈の死者が人びとの精神に取り憑き影響を及ぼすという事は疑いようのない事実であり、我々の周辺を徘徊し纏わり取り憑き寄生し乗っ取ろうと目論む。この理解し難い「他者」に対して、どのような態度を取るべきなのだろうか?

 

 前置きが長くなった。

 ざっくりと平易なことばで言えば、本稿は死者という究極な他者を取り上げ、死者や他者が生者に及ぼす影響を多角的なパースペクティブから考察した記事である。死者と他者とはなんぞや?彼らを浮遊させたまま弄くり回す狂気の霊的実験室ごっこをやってみようという訳だ。賢明なるめてろぐの読者の皆様方におかれましては、高次の唯物論を語るには霊性についての議論が欠かせないというのは当然の了解ではあろうが。

 かなりの量の本をブリコラージュし我田引水しまくって私見を付け加えて出来たノートなのだ(夢月ロア)

 常日頃から練り上げようとツトム評議会を開いたりして頑張っているめておろぎー(なんとも大層な!)が死者をどう捉えるかのメモ書き、書き抜き、覚え書き、的な感じのものとして、参考程度に読んで頂ければ幸いだ。

 

もくじ

 

1章:死者が生者に取り憑く-再び迫り来るマルクス弁証法唯物論

死者を招来する祓魔師マルクス

生者はしばしば死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承する。

マルセル・プルースト失われた時を求めて』8

 プルーストが引いている法諺「死者は生者に取り憑く(le mort saisit le vif)」は、『資本論』第一巻に付された「第一版序文」に刻まれた有名な文句の一つでもある。

 マルクスはこの法諺をどのように利用したのか?

われわれは、資本主義的生産の発展だけでなく、その欠如にも苦しめられている。近代的窮迫の他に多くの古い窮迫がわれわれにのしかかっている。この窮迫は、古風な時代遅れの生産様式が時勢に合わない社会的また政治的な従者を引き連れて存続していることから生じている。われわれは、生きているものに悩まされるだけでなく、死んだものにも悩まされる。死者が生者を捕らえる!

カール・マルクス資本論

  この法諺は、先王や所有者の死(現在なるものの過去化)に当たって間髪入れず統治のための資源(権力であれ、財であれ』の継承―連続が遂行されねばならないこと――だからこそ「王は死んだ。王よ、永遠なれ!」の意味を明らかにしているのであり、それは統治の切断が存在しなければその連続も存在しないという統治装置の秘密――〈王は決して死なない!〉の暴露でもある。

 またであればこそ、マルクスは、いわゆる単線史観の行論過程における修正にあたって、王-統治ならぬ資本-統治の、恐らく元国家-統治の自在な姿勢変換を通じた、二つの身体の切断と連続の為に装置を表現する、「現在の社会がけっして固定した結晶体ではなく、変化することが可能な、またつねに変化の過程でもある、有機体である」という一文を歴史読解の背信性において、付け加えたのである。

 またそれをプルーストが『失われた時を求めて』で「次元の異なる、はるかに根の深い、即位の到来」と思考喚起的に呼んだのだとすれば、我々は、その喚起に応えて、この王位継承に関わる文言を資本に関わる文言に読み替え、「順序の異なる、はるか遠くに起源を持つ(原国家が、そのつどそのつど、その姿を変えて)到来しては新たな時代」を形作るという脱領土化と再領土化の循環史に他ならない歴史の変遷を、つまり生者(現在)が「死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承する」ことの反復を、まさに史的唯物論というイデオロギーの再開として、論じねばならないだろう。

 

 ここで「世界史の死者の招霊―覚醒を促す名高い祓魔師マルクス」を掲示しておく。

人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、人間は、自由自在に、自分生きている人間の頭のうえに悪魔のように伸し掛かっている。そこで、人間は、自分自身と周囲の事物とを変革する仕事、これまでにはなかったものをつくりだす仕事に熱中しているように見える丁度その時に、まさにそういう革命的危機の時期に、気遣わしげに過去の亡霊を呼び出してその助けを求め、その名前や、戦いの合言葉や、衣装を借り受けて、そういう由緒ある衣装を見つけ、そういう借り物の台詞を使って、世界史の新しい場面を演じるのである。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

 

迫りくる弁証法唯物論

 ここで我々は、フランス革命ドイツ観念論の関連が教えてくれたことを思い出さねばならない。フランス革命ドイツ観念論は、同一の歴史的局面の二つの側面であるが(それの究極的な象徴が、フランス革命を自由の自己実現の過程と捉えたヘーゲルが、街を凱旋する英雄ナポレオンを見て「世界精神が歩んでいる!」と称した歴史的なエピソードだろう)、直接に交わることはありえなかった――即ちドイツ観念論は、いかなる政治革命も起こらないドイツの「遅れた」条件のもとでのみ出現したということだ。

 ここには克服不能パララックス・ギャップの出現、つまり密接に関連した二つのパースペクティヴの対立の出現である。それらのパースペクティヴには、どのような中立の共通基盤もありえない。最初のうちは、そうしたパララックス・ギャップという観念は、有る意味でヘーゲルに対するカントの復讐というかたちを取らざるを得ない。

 つまり、「パララックス」は、より高い総合へと弁証法的に「媒介/止揚」することが不可能な基本的アンチノミーの別名のひとつに他ならない。というのも、二つのレヴェルには、共通のことばも共有される基盤もないからである。とは言え、私-ジジェクの関心事は、けっして、弁証法にたいし消去不能な障害を設定することなどではない。パララックス・ギャップという観念によって、われわれは弁証法の転覆的な革新を識別できるようになる。

 この観念は、そのための重要な手がかりを提供してくれることを強く主張したい。このパララックス・ギャップを適切に理論化することは、弁証法唯物論の哲学を再興する為に必要な対処のステップである。例えばバディウが、現在の主要な政治的-哲学的対立として挙げている、「民主的唯物論」と「唯物論弁証法」の対立はまさしくこのパララックスについての思考の形態ではなかろうか。

 

 ここで、我々は基本的なパラドクスに出会う。現代の科学の多くは、ごく自然に唯物論弁証法を実践してはいるが、哲学的には機械的唯物論的と観念論的蒙昧主義のあいだを揺れ動いている。この場合、妥協の余地はなく、いかなる「対話」もなければ、窮地での同盟という方策をさぐることもありえない――現在のような弁証法唯物論の一時的な後退の時期には、レーニンの戦略的洞察が極めて重要である。

「軍隊が退却するときには、前進しているときの百倍もの規律が必要になる。……メンシェヴィキが、『いま、あなたは、退却中だ。わたしはいつも退却を支持してきた。わたしはあなたに同意する。わたしはあなたの仲間だ。一緒に退却しよう』と言うなら、我々はこう答える。『メンシュヴィキ主義の公然の表明に対して、我々の革命委員会は、死刑宣告を決議しなければならない。そうでなければ、革命委員会は革命委員会でなくなり、何かわからないものになってしまう。』」

 

 現在、マルクス主義が危機にあるのは、マルクス主義運動の社会的政治的な敗北のためばかりではない。理論に固有のレヴェルでも、マルクス主義の哲学的土台としての弁証法唯物論の衰退による危機を指摘できる――問題なのは弁証法唯物論であり、これよりはるかに受け入れやすく、それほど厄介でもない「唯物論弁証法」ではない。ここでは、規定的反省から反省的規定への移行が、きわめて重要である――これもまた、ひとつのことば、もしくはことばの並びが、すべてを決定する事例である。この事を表すお馴染みの事例が――ラカンの「自我理想」と「理想自我」という、さながら言い間違いのような――二つの用語が指し示す位相の異なりではないだろうか?

 

 ここで「弁証法唯物論」の基本的立場を要約的におさらいしておこう。「唯物論」の一種として、物質しかないことを認める。だが物質が「全てではない」。物質ではないものは存在しないが物質が全てではない。では何があるのか?――何もない。

 つまりは「無」があるということである。この「無」こそ物質が現象することを可能にするものであり、ヘーゲル風に言えば物質的「実態」に内在する「主体」である。

経験的なものの素になるものである「実体」には超越論的構成と現象を可能にする「無」が内在している。ここにこの唯物論弁証法的次元があり、端的に「全てが物質である」とでも表現されるべき機械的唯物論との差異がある。そして経験的なものの領野そのもの、つまり「現象」にしても「主体」という「無」の次元を自らの可能性の条件にするものとして「否定性」に貫かれてある。「現象」は一種の意味的な全体性であるにせよ、それそのものとしては偶然的で支えなきもの、必然的に崩壊しゆくものなのである。ジジェクによるラカンの転用を用いて言い換えれば象徴秩序は一貫しておらず〈他者〉は存在しない。これが「弁証法唯物論」の梗概である。

木元裕亮『スラヴォイ・ジジェク研究-「否定的なもの・否定性について」』

 

 話を戻そう。哲学的にいえば、スターリン主義的な「弁証法唯物論」が、ばからしさそのものだというのは、的外れではなく、むしろ核心そのものである。

 というのも、この主張は、まさしく、ヘーゲルラカン的立場と弁証法唯物論の哲学の同一性を、ヘーゲル的な無限判断として考えるということだからである。これは、その同一性を、最高のものと最低のものの思弁的同一性として考えるということであり、「精神は骨である」というヘーゲル骨相学の公式に似ている。それでは、弁証法唯物論の「最高」の読み方と「最低」の読み方の差異は何にあるのか?

 

 無慈悲なスターリンは、弁証法唯物論史的唯物論の差異を存在論化することで、重大な哲学的あやまりを犯した。この場合、かれは、差異を、普遍的形而上学と特殊的形而上学の差異、つまり普遍的存在論と、その存在論を社会という特殊な領域に適用することの差異として考えていることになる。

 ここで、「最低」から「最高」へと映るためにおこなわねばならないのは、普遍的なものと特殊なもののこの差異を置換し、差異を特殊なもの自体のうちに移すことだけである。「弁証法唯物論」は、人間そのものについて、史的唯物論とは異なるもうひとつの見方を与えてくれる。そう、史的唯物論弁証法唯物論の関係もまた、パララックスという関係である。両者は、実質的には同一である。一方から他方への移行は、純粋にパースペクティヴの移行である。この移行によって、死の欲動というような話題がでてくる。これは、人間的なもののうちにある「非人間的」な核であり、その射程は、人間の集団的実践の地平を超えている。

 ギャップは、こうして人間そのものに固有のものとして、人間と人間自身の非人間的過剰のギャップとして示される。だとすれば、「生者」と「死者」という生命存在における究極の-みせかけの二項対立-二律背反(あるいは究極のコントラスト)は、「最高」と「最低」の差異を生命存在-現存在へと移して示す、パララックス・ギャップの代表例に他ならないのではないだろうか?

 

 

世界史で踊る亡霊

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 ここでもう一度『ブリュメール18日』へ立ち返ろう。柄谷行人の『表象と反復』という題の付論で語られているように、『ブリュメール18日』において、表象=代表システムがもつ否定性-「穴」は、それが殺し追放した「王」の座である。我々はその座に「皇帝」としてのボナパルトが蘇ってくるのを見出す。王や皇帝や大統領は紙幣と同様に実在している。

 しかし、重要なのはそれらが代表性を可能にする「存在の無」であるということだ。したがって、「王」や「皇帝」が誰あるか、あるいはそれらが実際に王や皇帝と呼ばれているかどうかさえ問題ではない。ほんとうの問題は、近代において人類が獲得した議会制-代表制-象徴界は、現実の可視的な王や大統領や皇帝といった存在者とは別に、決して埋めようのない穴を持っており、それが「抑圧されたものの回帰」として反復されるということなのである。

 我々が真にみるべきなのは、この「象徴界」から文字通り排除されている階級である。マルクスは、自分たちの代表者も自らの階級的利害を普遍化して擁護する言説もたず、それゆえ他の誰かに代表されなければならない階級の存在を指摘している。言うまでもなく分割地農民であるが――しかし我々が忘れてはならないのが、本稿が死者について書かれたものだということ。

 

彼らは自らを代表することができず、代表されなければならない。

彼らの代表者は、同時に彼らの主人として、彼らを支配する権威として現れなければならず、彼らを他の諸階級から保護し、彼らに上から雨と日の光を送り届ける、無制限の統治権力として現れなければならない。

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

 まるで生ける屍のような彼ら――分割地農民は、直接には党派を形成しないにも関わらず、この政治過程を「夢」のようにする役割を果たしている。意識化するとは言語化することだとすれば、分割地農民の「欲望」は決して言語化されないがゆえに、「意識」に、つまり政治的言説の場にあらわれるとき、倒錯したかたちであらわれるほかない。ボナパルトは、彼らにとって、「代表するもの」ではなく、主人なのである。そしてこの哀れな分割地農民の究極の変奏が、死者という寄生的な他者ではなかろうか。そして我らは、他者の目をナポレオンの代役としての自分に向けさせる必要に、したがって毎日ごく小規模なクーデターを行う必要に迫られた、仮面をつけた滑稽なボナパルトそのものではないだろうか。

 

 生者と死者のパララックスが織り成す――歴史(史的唯物論、あるいは弁証法唯物論)というものは几帳面で徹底的であり、古い姿形を葬るときには、多くの段階を経てやり切り終わるまでやり通す。世界史的形態の最後の段階は、それ自体の喜劇である。

 アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』のなかで深手を負って命を落とす悲劇に至ったギリシャの神々は、ルキアノスの『神々の対話』で、いま一度、今度は喜劇的な死に方をしなければなかった。歴史はなぜこのような方向へ進むのか?それは人類が自らの過去と明るい気持ちで決別できるようにである。

 

 仮面舞踏会から、また別の仕方で、おなじ言葉を引いて、この章を終わろう。

人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。

[…]

それらの革命の中で死者を蘇らせたのは、したがって新しい闘争を賛美するためであって、昔の闘争のパロディを演じるためではなかった。与えられた課題を空想の中で誇張するためであって、それを現実の中で解決するのを恐れて逃げ出すためではなかった。革命の精神を再発見するためであって、革命の幽霊を再び出没させるためではなかった。

 カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日

 

誤謬A-倦怠と待望

僅かな悪足掻き

 十代二十代の水俣病患者たちと八年間、寝食を共にした著者が書いたルポタージュ『下下戦記』より引用する。

まあ、見てろや。哀しみも怒りも、貼らいっぺぇ溜め込んで、いつか本気で口をひらく時が来る。ある日突然、俺達、自分の手で「若衆宿」に火をつけて、世の中に立ち上がって行きたいぜよ。

そげん想えば、胸ン所がグルグル鳴って一層切なくなって来っとじゃ。俺ら達、何でこげん生き方をせんばならんどか?寛太朗が言ったそうだよな。「今まで裁判裁判て騒がれて、何か自分でも立派なことやってきたつもりだった」と。だけどな、「ふっと気がついたら、一人だった。自分で何やったかなて考えたら、なあ~んもやっていなかった」と。自分が水俣病の患者というだけで、後はなあ~んもなかったとよ。なあ~んもなか。後は使いものにならん患者の身体ひとつッ。わかるかい、お前等に、この気持がよ。こン虚しさがよ。患者である事に、何か大事な意味でもあるって言うんなら、俺達、いつでもくれてやる。

持ってけ、こンど腐れ水俣病

どれほど「水俣病患者」という「虚飾」をはぎとり、ただの漁師の息子や娘として部落の衆や支援者と出会いたかったことか。どれほど身悶えして娑婆の世への隘路をさがし続けてきたことか。そしてそれがどれほど超え難い壁であるか。敏や晶子達はただそれだけのために、物心ついた時から泥だらけになってころがりまわってきたのではなかったのか。

泥だらけになっても奪いたい本当の娑婆は部落の中にあり、支援運動は向こう辺端からさしのべられた仮の娑婆である。しかしそのどちらに身を寄せようと、彼等は水俣病患者以外のなにものにもなれなかった。いや、支援運動こそより一層患者であることを要求したのである。「怨敵チッソによって患者にされたことを忘れるな。患者であることに徹する所からしか闘いは生まれない」と。奇妙な事には、支援者の眼には、若い患者がのしかかってくる水俣病の重圧をぬぎすてようともがく事は逃避であり、政治的自覚が欠けていることになるのであった。

敏は行き、私達は残る。敏は行くことが出来る。彼が患者であることを知る人は少ない。認定されぬ為に彼は水俣を棄てることができる。[…]

清市や晶子にはもうその事も許されない。認定患者はどこに行こうと廃人であるとされたから、水俣病の地で生きるより他に道はない。去れない魂とでも言うべきもの達が海辺端の部落のあちこちにひそんでいる。

 吉田司『下下戦記』

 

「不幸の再生産」という言葉がある。金銭や文化資本が乏しい劣悪な家庭環境で育った人間が、子供を作り自分がされてきた事を子供に押し付け、不幸を再生産するという、なんとも痛ましい話だ。ねじれたキューでゲームを始め、一丁前に子供を持って平凡な家庭を築くという幸福な願望――しかし彼らにとっては余りにも多くを望んで、結果余りにも僅かしか得られない人々がいる。

 

 私はサテライトという貧者ばかりのド田舎に産まれ、そこで同年代の貧乏人の子どもたちを友人として育ってきた男である。彼ら彼女らの多くは大学進学など夢のまた夢だと諦念に落ち込んでいる。みな差別と暴力と貧困にあまりにも馴染んで大人になり、テレビやインターネットで見る華やかな都会の世界に憧れるも、家族や親族、植え付けられた地元への同情心という枷に縛られ一生をそこで終わらせるしかないと諦めているのが殆どだ。ならば「貧困層である事を引き受けて理不尽と闘え!プロレタリアートである事に徹する以外に闘いは生まれない」と階級意識を持つ事を要求したくはなる。

 しかしそのように上手く事が運んでいれば、今頃世界は社会主義国家が順調に育っていたことだろう。私はサテライトのあるADHDの少女から、次のような悲痛なことばを聞いて怒りに震えたことがある。「私の人生はもう何の期待もないから、子供を産んでその子の為に掛ければ何か頑張れるかもしれない」。

 

 フィリップ・ヒルが書いたラカンの入門書にあった、いかにも馬鹿っぽそうな若い女性が赤子を抱いて「私は私がして欲しかったことを、何でもあなたにしてあげるからね」と囁く図を彷彿とさせる言葉だった。社会的な成功を幸福と設定して、それを達成すべく中流層の子供たちは努力に励む。偏差値の高い大学に入学したり、上場企業に入社したり、芸術に励みコンクールで賞を取ったり、何らかのインフルーエンサーとして多数の承認を集めたり、それは千差万別の夢として理解される。

 だが、田舎の貧困層の少女たちはそんな夢を見ることは許されない。だからこそ最も簡単で安易な幸福を目指す――それは日本語の読み書きすら、四則演算さえ満足にできなくとも可能だ「子供を作ること」。再び繰り返すまでもなく、資本主義体制を強化し、不幸の再生産を引き起こすエゴイスティックな道である。

 

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 現在あまりの人気に社会現象となっている吾峠呼世晴の大ヒットまんが『鬼滅の刃』の有名なシーン。全ての鬼を生み出した原因である鬼舞辻無惨が、鬼を滅する為に命を懸ける鬼殺隊に対して「しつこい」「お前たちは異常者だ」と言い放つ印象的な場面だ。

 この鬼舞辻の冷笑的な態度は、労働改革やフェミニズムにいたるまでのあらゆる左派活動家に対しての典型的な右翼的態度――「改革だ革命だなんてお笑い草だ!そんな無駄な活動に勤しむ暇があれば、努力して高い収入を得ればいいだろう!」というような発言を彷彿とさせる。この加害者のイデオロギーを内面化した時、少女たちは運命に抗うことをやめ、僅かばかりの資本と共に田舎で子供を産むことを受け入れる。しかし誰がそれを責められようか?何の土産もなしに産み出され傷付けられた生を生きる人々にとって、エゴイスティックであろうが幸福を希求する態度、はかない生命の煌めきの証左である。闘争に参加出来るような異常者に、「逃げるな。理不尽と闘え」と指図されるのは、なにかあまりにも残酷でグロテスクな出来事として実感されるのではないだろうか?

 

われわれ現代人が正常・正気・自由と呼んでいる「狂気」が幅をきかせている文脈においては、われわれのあらゆる参照枠が両義的で疑わしいものなのだ。
たとえば、左翼である「アカ」(Red)になるより「死」(dead)を選ぶ人間が正常と言われ、自分の魂を失ったという人間が狂気と言われる。人間は機械であると言う人は科学者かもしれないが、自分は機械であると言う人は精神医学の用語では「離人症」とされる。黒人を劣等だと言う人間は広く尊敬されるかもしれないが、自分の皮膚の白さをガンの一種だと言う人間は狂気とされるのである。
R.D.レイン『引き裂かれた自己 狂気の現象学

 ポスト・トゥルースの時代、ポスト・イデオロギーという嘘が蔓延する時代にとって、左派というのは異常者だと見做されるのはめてろぐの賢明なる読者も理解しているだろう。バディウグローバル資本主義体制は次のように我々に嘯くと述べている。「あらゆる存在が金銭的観点のみによって評価されるという、極めて不平等で残酷な事態が、私たちに理想状態として提示されている。自らの保守主義を正当化しようとする既成秩序の擁護者たちは、この秩序を素晴らしいとか、理想的だとはなかなか言えないが、代わりに、その他すべてのものが最悪だと言うことにした。彼らは言う。確かに、われわれは完璧に善い状況を生きているわけではない。しかし、悪のうちに生きていないだけ幸運だ。われわれの民主主義は完璧ではない。けれど、めちゃくちゃな独裁国家よりはマシだ。資本主義は不公平だ。けれど、スターリン主義のように犯罪的でもない。アフリカで何千万人をエイズで死なせてはいるものの、ミロシェヴィッチのように人種差別的で国家主義的な宣言をすることはない。われわれの戦闘機はイラク人を殺害してはいるが、ルワンダ人がやっているように、彼らの首を鉈で切り落とすことはなどはしない、云々」。

もういいだろう。対象aと剰余享楽が、享楽を吸引し調整しているかぎり、世界は「ほぼ」平和なのだ。それがどんなに紛争や汚職や搾取に塗れた世界であっても。ラカン理論に通暁した社会学者たちは言う、資本主義は、「性的関係はない」という「不可能」な穴を中心に、永久に欲動を回転させつづけるのだと。そう、彼らがそう口にすることは、この世界の享楽を肯定することになるのだ。権力を求めるのもいい。金を求めるのもいい。異性に、あるいは同性に狂うのもいい。品のよい衣服に身を包み、ギャンブルや株に打ち興じるのもいい。たまには麻薬を嗜むのみいし、ちょっとしたサディズムマゾヒズムに身を浸すのもいいだろう。それはとても楽しいことだ。

佐々木中『夜戦と永遠』上

 

不合理ゆえに我信ず

 だが、倦怠と待望のはざまを超えて、理不尽と欺瞞に、闘わずいられない人々がいる。立ち上らなくてはならないと使命感に駆られる者たちがいる。それは何故か?――かつて希望を夢見た少年少女の亡霊が、歴史の亡霊たちの声が、〈死者〉と〈他者〉の声が聞こえるからだ。理不尽に憑き動かされ、なぜ?私が?の問い。ここにこそテルトゥリアヌスの言葉を引いて埴谷雄高が叫んだあの「不合理ゆえに吾信ず」の境地があるのではないだろうか?

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 私は強くはない。自分の事で精一杯だ。強くはなれなかったが、それでも。私も、いつか、彼らのように立派な人になりたい。

 

2章:死者と共に歩む-鏡像界にて錯乱し神の花嫁となるツェラン

 フランス革命は万人がtuになることを望んだ。以下に掲げるのは、南フランスの貧しい地帯のタルン県が、紀元二年霧月二十四日(一七九三年十一月十四日)に行った決議である。

 ある市民がもう一人の市民にvousで話しかけ、相手がtoi(tuの名詞系)で答えるのは、明らかに平等という永遠の大原則に反している。したがって、今度は自由なフランス人の言語から単数のvousを追放し、代わりにtuないしtoiをあらゆる場合に使用する旨を、ここに決議する。

ロバート・ダートン『歴史の白昼夢』

  フランス語で「vous」はあなた、「tu」は君である。

 

 この章ではドイツ出身のユダヤ系詩人であるパウル・ツェランを中心に「死者」について語っていきたい。日本でのツェラン知名度はほぼないに等しいゆえ、簡単に説明しよう。ナチスに両親を殺害され、自身も強制収容所で虐殺されるすんでのところで危うく助かったのちに詩人として高名になったが、いわれなき誹謗中傷にあい精神病を発症してセーヌ川に投身自殺した、かわいそうな人である。

 

 パウル・ツェラン詩文集の帯には、あのラカン精神科医である斎藤環がメッセージを寄せていることも、当然余り知られていない。そのまま紹介しよう。

 《「あの日」から私が求めたのは、死者たちを「悼む」言葉ではない。彼らと「ともにある」ための言葉だ。そこにツェランの言葉があった。絶対的な脆弱、絶望的なまでの希望、そして戦慄的な優しさをはらむ言葉が。》

 

かつて、死に人が群れていたころ、

あなたは身をひそませた、わたしのなかに。

パウル・ツェラン『かつて』

 

 ツェランは、ポー、マラルメヴァレリー、エリオット、カツェネルソンなど綺羅星の如く並ぶ詩人に共通する比喩を借りて――言葉を「投瓶通信」に例える。誰かが叫び、語り、あるいは書きつけた言葉は、いつかどこかの浜辺に辿り着き、そこで「君 Du」に現実をもたらすだろう。ここで「Du」――「お前」「君」「あなた」「汝」どうとも訳せる、極めて多義的ニュアンスを孕む二人称単数親称は、どこかにいる他者だけではなく、「未来の自分」をも意味している。

ブレーメン文学賞受賞挨拶」で彼は言う。「詩はこのような意味からしても、途上にある、何かを目指すものである」。では何を目指すのか――自問自答しつつ、彼はこう答える「語りかけることができる『君 Du』、語りかけることができる現実を」。

 

 ツェランの詩においても詩論においても、君(Du)の世界、この呼びかけにおいて開かれる世界が重要であることは間違いない。この果てしない呼びかけ、達するかどうか分からない言葉の一投ずつがなければ、彼にとって詩は詩足り得ない。

 ここでジャック・ラカンの知見を導入し、普段ラカン派が軽視しがちである想像界の理論を用いて、ツェランの世界を横断してみよう。主著『エクリ』に所収された「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」を中心として、初期セミネールで幾度となく繰り返されている想像界の理論は、一言で言えば、自己は阻害されたものとして、つまり自分ではないものとしてしか与えられない、ということである。鏡像段階論で語られるとおり、幼児は鏡を目前にしてそこに自らの「全体像」を、「統合された自己イメージ」をはじめて見るまでは、自分自身がこのような形をしているということは知らないばかりか、世界や他者との区別も知らないのだ。ということは、「自我」というものがそもそも存在しないということである。

 確かアラン・ミレールによれば、精神分析の究極的な治療-完了は、想像界象徴界が完全に一致することとだという。精神分析の完了とは、ある意味で幼児帰りをさせてやるという訳だ。じっさい、そんな事は不可能ではあるのだが。

 

 鏡は「全体的な同一化」をもたらす。自我の全体的な同一性をもたらし、自我の全体的な同一性をもたらす。ラカンが「遊びをするように」幼児は自らのイメージを迎え入れると表現しているように、ここからナルシズムの過程、すなわち「愛」の過程が開始されることになる。しかしここに二律背反がある。自らを魅惑する自らの姿は、どこまでも外部から与えられたものであり(ナルシスに囁くエコー!)、自らの自由にはならない。自らの姿は、「自我」は、自分自身に有限性や限界を、こうでしかない自らを通達するものであり、そうとしてしか「私」は有り得ないのだ。

 人間の有限性とは、究極的に、そして端的には死である。ゆえにラカンが「鏡像的なイメージという形で人間が見る、死という絶対的主人のイメージ」と京葉するのは、なんら誇張ではない。

 鏡に写った自らの姿に向かって、「君」と語りかけることは常に可能である。「私」(自我 moi)は、「私ではない」「君」と呼びかけうる鏡に写った何かとしてしか与えられない。しかしその「君」である何かは「私」の有限性を、すなわち死を通告―言うなれば、「君は私の死の姿である!」。私がこうであり、こうでしかありえず、つまりは限界がありいつか死に至る存在でしかない事を通達するこの忌まわしい姿が「君」であり同時に「私」である「他者」であり―すなわちラカンの言う「少他者」である。

 その、根本的に自らのなお限界そのものである「君の姿」が与える「自己への愛」が「君への憎悪」へと姿を変えるのは見るに容易い。ラカンの素晴らしいところ、ここに根源的攻撃性の噴出を見る。いわく攻撃性はナルシズム的と我々が呼ぶ同一化の左様と相関的である。常に自我あるところに愛憎の両義性を我々は見出すことができる……。そして根本的な袋小路に行き詰まる。つまり、「私」へのナルシスティックな愛は「君」への愛と憎悪になる。ここにおいて、他者は全て「私」になり、他者は全て「君」になる。「私と君」の世界は混沌としており、まさに「愛憎」が逆巻く憎悪と暴力の世界だ。ここで自罰パラノイア-症例エメを思い出されたい。

 

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 ラカンが言う「私 je」と「君 tu」の鏡像的関係の切りのなさは、ツェランが深く影響を受けたマルティン・ブーバーの論旨における「私・君(Ich-Du)」の果てしなさと符号している。ブーバーの代表的な著作が「汝と我(Ich und Du)」というタイトルである事を提示することも本来なら必要はないだろう。ブーバーはその主著のなかで、ここの具体的な「私・君(Ich-Du)」関係における「君」の「永遠性」を述べたのち、「永遠の君(Du)」すなわち神とその永遠性を述べ立て、この二つをすり替えている!!

 ここにラカン想像界の理論を適用すれば、この永遠性は鏡合わせの像が無限に相互を写し合う、そうした永遠に過ぎない事になるだろう。それはラカンの言う「想像界の袋小路」そのもの、象徴界へと向けて解消される理論的な端緒こそは与えられているが、永遠に残り続ける残滓に過ぎないのではあるまいだろうか。この論点はツェランの詩論がブーバー哲学に影響を受けている―という以上に意味がある。

 

 詳しい説明は省くが、晩年のツェランニーチェアルチュセールの如く狂い、最愛の妻や知己、そして自分までも殺そうとナイフを抜いている。ここに存在するのは「自分-je-Ich」と「他者-tu-Du」の区別がついていない、鏡像界で錯乱したツェランの姿だ。自分を害し罰する為に他者を殺傷しようとするツェランの姿を確認出来るのだ。

あなたがわたしのなかで死に絶えるとき――

 

ちぎられる

最後の息の結び目のなかに

なおもあなたは

隠れこむ、

一片の

いのちとともに。

パウル・ツェラン『あなたが』

  自分が死ぬ最後の瞬間になっても、「わたし Ich」の胸の中に住む「あなた Du」は消え去ることがない。死者と共に歩み行こうとする覚悟のうた。この詩が表しているのは、まさしくラカン想像界であることは一目瞭然だ。明らかにツェランは錯乱している。想像界に惑わされている。未熟で幼稚なものがしがみつきたがる、内田樹の悪名高いスローガンを借りれば「大人になれ!」と言いたくなる者の領域、常にラカニアンにとって低く見られてきた〈想像界〉の―しかし〈現実界〉と重なり合う部分。なれば、西洋の男性〈神〉にとっての〈花嫁〉が顕現する崇高なる領域ではなかろうか?

 

 錯乱するツェラン、狂気に陥るツェラン、愛する「Du」あるいは「Ich」を抱きしめて歩むツェラン。ここに〈死者〉と共に歩み行く〈生者〉の姿が認められるのだ!

 詩の「なおまだ」は、自分がみずからの存在の傾斜角のもとで、みじめな生き物としてのみずからの存在の傾斜角のもとで、みじめな生き物としてのみずからの傾斜角のもとで語っていることを忘れない人間の詩の中にのみ見出されるものかもしれません。

 ともすれば詩は――これまでよりさらに明確に――ひとりびとりの人間の、姿をとった言葉であり、――そのひたすらに内面的な本質からいって、現在であり現前であるのえす。

 詩はひとりぼっちなものです。詩はひとりぼっちなものであり、道の途上にあります。詩を書くものは詩につきそって行きます。

 しかし詩はまさしくそれゆえに、つまりこの点においてすでに、出会いの中に置かれているのではないでしょうか?――出会いの神秘のうちに。

 

 死は「別のもの」へおもむこうとします、詩はこの別のものを必要とします、詩は一人の相手を必要とします。詩はこの相手をたずねて、この相手に語りかけます。

 どんな書物、どんな人間も、「別のもの」をめざす詩によっては、この「別のもの」の姿です。

パウル・ツェラン『子午線』

 

お前は私を

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マルセル・デュシャン『Tu m’ 』

  『Tu m’』は、1918年にデュシャンによって制作された油彩作品であり、大駄作だ。

 デュシャンと言えば『泉』が有名だろう――まがりなりにも美術作品の癖に、作品を見る必要は特にない、美術に自信ニキやジジェクあたりの話を聴くだけで事足りる。というよりも話の方が本体で作品自体はオマケ。そんな悪しき現代美術の嚆矢として悪名高いデュシャンが、1913年の《チョコレート磨砕器 No.2》から5年ぶりに描いた油彩作品であり、デュシャン最後の油絵。

 この作品はそれまでのデュシャン集大成として、カタログの形で視覚化されているらしい。デュシャンの後援者であるキャサリン・ドライヤーの書斎の本棚の上の空間を埋めるために依頼された作品のため、横長になっているようだ。

 『Tu m’』、この動詞が抜けた言葉が、言外に言わんとすることは何だろうか?「お前は私を」のあとには、いったいどのような言葉が接続されるのであろうか?見れば分かる――というのは嘘だ。世の中には見ても分らない絵――狭い一部の人間にしか分らない絵がたくさんある。だから我々は、音楽の素養もないのに、ベートーヴェンの五番を聴いて、苦し紛れに「運命はかく扉を叩く」などと言ってのけるのだ。

 

 十六世紀、デンマークの名門貴族ティコ・ブラーエは、こんな謎にとらわれた。「星の世界はどうなっているのか?」。彼以前の人々は、書物のなかに、つまり先人の説に、答えを求めた。先人の説は、現実の天体の動きとは食い違ったけれども、彼以前の人々は誰もそれを解決出来なかった。そこでティコ・ブラーエは、名門貴族として受け継いだ私財を投じて、巨大な天体観測装置を建造した。彼は、星に答えを求めたのだ。土星の輪さえ見えなかったティコ・ブラーエの時代から、エッジワース・カイパーベルト天体が見える今日に至るまで、私達はずっと同じことをしている。「星の世界はどうなっているのか?」その答を求めて、星の囁きを聞き分けようと耳を欹てている。

「つまりどういうこと? ぼくは……ぼくには分らない。最後の数というのはどういうことだね?」

「そうね、最後の、至高の、最も大きな数ということね。」

「でも、I。それは馬鹿げているよ。数は無限の数だけあるんだから、何を最後の数にしようたって、だめさ。」

「じゃ、最後の革命というのはどういうことなの? 最後の革命なんてないのよ。革命は無限よ。最後の革命なんて子供向きのお話。子供は無限をこわがるものだから、子供が夜、安心して眠るために必要なだけなのよ……」

ザミャーチン『われら』

  私とお前。君と僕。その関係が何なのか、それはそこに存在するそれっきりのものであろうように。お前にとって私は何なのか、お前にとって私は何なのか、その答えを探さないで済むように。

 

知るべき時!

石がやおら咲きほころぶ時、

心がそぞろ高鳴る時。

時となるべき時

 

その時。

パウル・ツェラン『光冠』

 

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3章:死者は何を語りかけるか ドストエフスキーにたじろぐレヴィナス

「すべてがゆるされる」死者が跋扈する―サディスティックな神在る世界

 ドストエフスキー『ボボーク』は彼の最も不気味な短編小説で、今日なお解釈者たちを当惑させている程だ。この奇妙で「病的なファンタジー」はたんに作者自身の心の病の産物に過ぎないのだろうか?それとも神聖冒涜、すなわち聖書に描かれた神の〈啓示〉の真理をパロディにしてしまおうという悍ましい企てなのだろうか?

 物語の冒頭には、ランボーの「これは私ではない。これはまったくの他人である」の奇妙な否定が書かれている。この小説では、イワン・イワーヌイチというアル中の文学者が幻聴に悩まされている。

最近、奇妙なものを見たり聞いたりする。それは声というわけえはないが、まるで誰かが耳もとで「ボボーク、ボボーク」とささやいているみたいなのだ。

このボボークとはいったいどういう意味だろう。気を紛らわす必要がある。気晴らしのつもりで歩いていたら、葬式に出くわした。

フョードル・ドストエフスキー『ボボーク』

 そこで彼は遠い親類の葬式に参列する。その後、墓地でぶらぶらしていた彼は突然、死者たちのシニカルで軽薄な会話を耳にする。

すると、どうしてそうなったのかはわからないが、さまざまなことが聞こえてきた。はじめは気にもとめず、無視していた。しかし会話は続けられた。それはくぐもった声で、まるで枕で口を塞がれているみたいだったが、同時に、はっきりと聞き取ることができ、しかもすごく近い。私は我に帰り、腰をすえて、注意深く聞き始めた。

 彼はその会話から、肉体が死んでからも、肉体が完全に滅んでしまうまでの間は、人間の意識は生き続けるということを知る。死者たちは肉体が滅びることを、水がごぼごぼ音を立てるような「ボボーク」という語で呼んでいる。死者のひとりが言う。

 

大事なことは、二、三ヶ月は余計に命があって、それからボボーク!ってことです。この二ヶ月はできるかぎり愉快に過ごせるように、すべてを別の基盤の上に並べ直すことを提案します。みなさん、いっさいの恥をかなぐり捨てることを提案いたします。

 

  死者たちは、自分たちが現世の諸条件から完全に自由であることを知って、生きていたときのことを話して楽しもうとする。

「……さて、嘘はつかないようにしましょう。私が気にしているのはそのことだけです。だってそれが肝腎のことですからね。地上では嘘をつかずに生きていくことは不可能です。生きるというのと嘘をつくというのは同義語ですからね。でもここでは、ひとつおなぐさみに、嘘をつかないことにしましょう。畜生め、墓場にだって何か意味があるってもんだ。私たちはそれぞれの身の上を声に出して話し、何も恥ずかしがらないことにしましょう。まず私が自分のことを話します。私は肉食動物に属していましてね。あちらの上の世界じゃあ、何でも腐ったひもで縛られていたんです。あんなひもなんて消えちまえ。この二ヶ月をまったくの破廉恥な真実の中で生きることにしましょうよ。裸になって、自分を曝け出しましょう」

「裸になろう、裸になろう」いっせいに叫びだした。

 イワン・イワーヌイチが嗅ぐ悪臭は、腐敗する死体の臭いではなく、倫理的悪臭である。ふいにイワンがくしゃみをすると、死者たちは静かになる。魔法が解けたように、われわれは日常的な現実に戻る。

そのとき私が不意にくしゃみをした。それは突然の思いがけぬ出来事だったが、その効果は驚くべきものだった。墓地らしく何もかもが静まりかえり、すべてが夢のように消えてしまった。墓場にふさわしい静寂が訪れた。私がいたから彼らが恥ずかしがったとは思えない。いっさいのハジをかなぐり捨てる決心をしていたのだから。五分ほど舞ったが、言葉も物音もいっさい聞こえなかった。

 ミハイル・バフチンは「ボボーク」の中にドストエフスキーの芸術の精髄、彼の創作活動全体を凝縮した小宇宙をみた。バフチンによれば、ここにはドストエフスキーの中心的テーマ、すなわち、もし神と霊魂の不滅がなければ「すべてが赦される」という観念が示されている。

「二つの死の間」にある生命のカーニバル的な地下世界では、すべての規則と責任は宙吊り受胎になり、死んでいない者たちは一切の恥をかなぐり捨て、狂ったようにふるまい、正直さと正義を笑い飛ばすことができる。このヴィジョンの倫理的恐怖は、それが「真理と和解」という観念の限界を示しているということだ。自分の犯した罪を公に告白することが、彼の内部に倫理的浄化をもたらすだけでなく、付加的な猥雑な快感を生むような、そんな犯罪者がいたとしたらどうだろう?

 

 この死者たちの「死んでいない」状態は、フロイトが挙げる夢に出てくる父親が置かれる状態とは対照的だ。その父親は、自分が死んでいることを知らないがために、(夢をみている人の無意識の中では)生き続けている。ドストエフスキーの小説の死者たちは、自分たちが死んでいることをじゅうぶん承知している。承知しているからこそ、一切の恥をかなぐり捨てられるのだ。では、死者たちが生きている人間から隠している秘密は何か。「ボボーク」では、破廉恥な真理は一切聞かれない。死者の幽霊たちは、聞いている人に「品物を届け」、彼らの汚れた秘密を打ち明けるべき瞬間になると、口をつぐんでしまう!

 おそらくこれに対する説明は、カフカの『審判』に出てくる〈法の門〉の寓話の結末の説明と同じである。門の中に入れてもらうのを長年待っていた男は、臨終の間際に、その門が彼ひとりだけの為の門であったことを知る。もし「ボボーク」においても、自分たちの汚れきった秘密を漏らすことを約束する死体たちの見世物全体が、あわれなイワン・イワーヌイチだけのために上演されたのだとしたらどうだろう。言い換えると、生ける死体たちの「破廉恥な真理」という見世物が、聞いている者の幻想に過ぎないとしたら?しかもその人物が宗教的な聞き手だとしたら?

 ドストエフスキーが描いている場面が神無き世界ではないことを忘れてはならない。話す死体たちは(生物学的)死の後の生を生きている。このこと自体が神の存在の証である。そこには神がいて、死後も彼らを生かしている。だからこそ彼らは何でも言えるのだ。

 

 ドストエフスキーは、「すべてが赦される」恐ろしい神なき世界を説明するためにこの場面を描いているのだが、彼が描いているのは、真の無神論的な立場とは無縁な、宗教的幻想である。では、「すべてを言う」という猥雑な真摯さへと死者たちを駆り立てる衝動は何か。ラカン的な答は明白だ。超自我である。ただし、倫理的審級としての超自我ではなく、楽しめという猥雑な命令としての超自我である。このことが、死者たちが語り手から隠そうとしている究極の秘密が何かをめぐる洞察を与えてくれる。恥を恐れることなく全てを語ろうという死者たちの衝動は自由ではない。この状況は、「さあ、これまで話したかったのに、普通の生活の規則と束縛に邪魔されて話せなかったことが、全部話せる(できる)ぞ」というのではない。

 彼らの衝動は残酷な超自我の命令に支えられている。幽霊たちは自分たちの猥雑な行動に没頭しなければならないのだ。しかし、もし死んでいない者たちが語り手から隠しているものが、彼らの猥褻な快楽が本質的に脅迫的なものであるという事実だとしたら、そしてこれが宗教的幻想だとしたら、引き出すべき結論がもうひとつある。すなわち、死んでいない者たちは邪悪な神の脅迫的な呪いに縛られているということだ。そこにドストエフスキーの究極の嘘がある。

 彼が神無き世界の恐ろしい幻想として描いているものは、じつは邪悪で猥褻な〈神〉に関するグノーシス主義的な幻想である。この例から引き出すべき、もうひとつのより一般的な教訓はこうだ――宗教的な著述家たちが無神論を糾弾するとき、頻繁に「神なき世界」のヴィジョンを描くが、それは宗教そのものの抑圧された裏面の投影なのである。

 

 私はここで「グノーシス主義」という語を厳密な意味で、すなわちユダヤキリスト教的宇宙の革新的な特徴である真理の外在性を拒絶するものとして用いた。ユダヤ教精神分析との親近性については厭というほど議論されてきた。どちらにおいても、欲望する〈他者〉の深淵との外傷的な出会いに商店がおかれ、われわれに何かを要求するのだが、それが何であるかを明かさない不可解な〈他者〉という恐ろしい形象が登場する。

 ユダヤ教では人が〈神〉と出会うが、その不可解な〈召命 Call〉は人間の日常的な存在のルーティンを粉砕する。精神分析では子供が〈他者〉(この場合は親)の快楽の謎に出会う。このような、真理は外的な外傷的遭遇(ユダヤの民への神の〈召命〉、アブラハムに対する神の命令、不可解な〈恩寵〉、これらはすべてわれわれ本来の特質とは、いやわれわれの生来の倫理とすら両立しえない)に依存しているというユダヤキリスト教的な考え方とはまったく対照的に、異教徒グノーシス主義ユダヤキリスト教の姿勢を異教に書き写したもの)は真理への道を、霊的な自己浄化という「内的な旅」、真の〈内なる自己〉への回帰、自己の「再発見」として捉える。

 西洋の精神性の中心にある対立はソクラテスとキリストの対立だと指摘したキルケゴールは正しい。記憶と想起の内的な旅と、外的な遭遇の衝撃を通じた再生の対立。ユダヤキリスト教の枠内では、〈神自身〉が究極の「人を苦しめる者」であり、われわれの生活の安寧を容赦なく乱す闖入者である。

 

 

「神よ、なぜ私を選ばれた?」戸惑いの中で死者を弔うレヴィナス

 ここでレヴィナスに話を移そう。御存知の通り、レヴィナスは「死者の切迫」について深く思考-受け取り続けた哲学者である。それがホロコーストで数多の近親者や同胞を失くした事に所以する事は博覧強記たるめてろぐの皆様にとっては常識であろう。

 レヴィナスは「たまたま」「運良く」他の場所であれば致死的な条件であった筈のユダヤ人身分による迫害をまぬがれ、「偶然」身にまとった法的擬制に過ぎない「フランス軍兵士」という資格ゆえに生存することを赦された。つまり、このときのレヴィナスの命がけのアイデンティティは、「〈私〉がその起源において誰であるか」によってではなく、「〈他者〉あるいは〈律法〉との関わりの中で、何者として機能しているか」によって規定されたのである。そして彼は思うのだ「何故、私は生き延びたのか?」「いったい主体性という概念は何であるのか?」

 

 レヴィナスだけではない。戦争やテロル、虐殺、大事故や天災というカタストロフに巻き込まれ、「たまたま」「運良く」生き残った人間は、ふつう「生き残ったこと」の意味(あるいは無意味)を考えるものだ。納得可能な理由を探す。しかしそれは見つからない。「どうしてか、その理由は分からない」。

 

 生者と死者の間に乗り越え不能の境界線を引くことから文明は始まった。そう人類学は教えている。オルフェスの地獄下りも黄泉比良坂の物語も、生者と試写は戴然と分かたれており、決して交わることができないという人間性の根本に関わる命題を語っている。だが、ホロコーストを生き残ったユダヤ人たちは、この死者と生者を分かつ「境界線」をはっきりと視認出来ない。なぜ生き残ったか?なぜ私が?――その理由が分からないからだ。彼らの目に、死者は「幽明界を異にする」ことができぬまま、生者の世界をぼんやりと遊弋するハメになる。それゆえに、太古の神話作家たちがそうしたように、「理由なく生き残った者」たちもまた、「生死のあわい」に分節線を引くという使命を引き受けなければならない。

 

 生死の文節線を引くこと、それが「死者を弔う」ということである。

 

 弔うのは、この場合、それによって「無意味に死んだ」人々の霊を慰めるためというよりはむしろ、「無意味に生き残ってしまった」自分たちの生き残りという事実に何等化の意味をもたらす為である。死者たちに向かって「私たちが生き残ったのは、あなたがたのために/あなたがたに代わって、ある仕事を果たすためだったのです」と告げることができなければ、「私が生き残った理由が分からない」という、行きていることの根源的な無根拠性に彼らは耐え続けなければならな。だから、生き残った人々は「死者を弔う」ことを最優先の責務として引き受けるのである。

 

去りゆく死者、生き残った意味を探す生者

 生き残ったことに意味を与えるとすれば、それは生き残った者は、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐える為、つまり特権ゆえではなく、より多くの義務を引き受ける為に「選ばれた」、という自己規定を自ら引き受けることの他に道がない。

 レヴィナスは「選び」について、こう書いている。

「選ばれた」という言葉を「特権」の擁護で解してはならない。それは「責任」の用語で理解されねばならない。

私は他者に対して責務を負っていると感じている。それゆえに、私は私自身に対しては、他の人々に対するよりもはるかに多くを要求することになる。

 レヴィナスは繰り返し「他者」とは「寡婦、孤児、異邦人」であると書いている。私たちはこのことばをふつうは「弱者」「貧者」「保護なき人々」「被抑圧者」「被差別者」「被迫害者」「プロレタリアート」「おたく」「宮崎」……と。

 総じて無権利状態にあり、私たちが支援の手を差し伸べるのを待望しているある種の「社会的立場」というふうに存在的に解釈している。確かに「他者」はそのような人々を優先的に指称しているのだろう。しかし、それだけでは尽きない。

 レヴィナスが「他者」ということばを使うとき、そこには「死者たち」も含まれているのではないだろうか?保護なき「寡婦、孤児、異邦人」について語るときに、レヴィナスはもしかすると、アウシュヴィッツの、ダッハウユダヤ人たちのことを念頭に置いているのではないだろうか?

 

「他者」をめぐってレヴィナスはフランソワ・ポワリエと次のような対話を交わしている。レヴィナスのことばの中の「他者」を「アウシュヴィッツの死者たち )と読み替えて読んでみると、そこに哲学的な他者論というよりはむしろ「祈り」に似たことばを読み取ることが出来るように思える。「祈り」――なんと、非-マルクス主義的な――社会主義的に不穏当なことばだろうか!

ポワリエ:他者に対する、他者の身代わりとしての有責性は、具体的にはどのような行為として実現されることになるのでしょうか?

レヴィナス:他者はそのあらゆる物質的窮状を通じて私にかかわってきます。ときには他者に食料を与えることが、ときには服を着せることが問題になります。それが聖書の言っていることです。飢えている者には食べ物を与えなさい。裸で行く者には服を着せなさい。渇いている者には水を飲ませなさい。身を寄せる場所のない者には宿を貸しなさい。人間の物質的側面、物質的生活、それが他者について、私が配置すべきことなのです。他者について、私にとって深い意味があることなのです。それが私の「聖性」にかかわることなのです。これまでたびたび引用したマタイ伝の二五章の対話を思い出して下さい。「おまえたちは私を追い出し、私を狩り立てた」。「いつ私たちがあなたを追い出し、狩り立てたことがあるでしょう?」、「おまえたちが貧しい者たちに食べ物をあげることを拒み、貧しいものたちを追い払い、彼らに見向きもしなかったときに!」。他者に対して、私は食べること、飲むことから始まる有責性を負っているのです。いわば私が追い出した他者は私が追い出した神に等しいのです。[…]過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱くこと!私は他者を知るより先に、存在しなかった過去のあるときに、他者にかかわりを持ってしまっていたのです。

エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』

 

報復の連鎖-「やったらやり返される」

 歴史が教えるように、これまでの殆ど全ての粛清と排外主義は、「死者の遺言執行人」、「非人道的迫害の証人」を自称する人々によって担われてきた。

 大戦間期のヨーロッパにおいてファシズムが賦活されたのは、何よりもまずWW1の死者たちをどう弔うかという問いに、大後の人々が存在論の語法をもって答えようとしたからである。そして、今なお、「死者の遺言執行」を大義に掲げる人々が、世界の各地で民族対立、宗教対立、迫害と差別、テロルと報復の、終わりのない暴力連鎖を生み続けていることはここに繰り返すまでもない。

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名作まんが『シャーマンキング』では復讐を果たした者が、さらなる報復の連鎖に巻き込まれる姿が幾度となく描かれている。

 

 その事を勘案すれば、「死者たちの身内からなされる権利回復と賠償の要求」の語法こそが「存在論の語法」だということは分かる。

「死者たちの遺言執行人」たちは「死者の名において」私には告発権が委任されているというかたちで正義を要請する。そして、そのような言葉遣いでしか死者にについての言及が果たされないというのが本当ならば、世界ではこれから後も、報復の暴力が連鎖し、人が殺され続け、「今ここで行われるテロル」の正当性を証言する為に死者たちの骸は墓場から掘り起こされ続け、「死ねない死者」たちが間主観性という名の「煉獄」にひしめくことになるだろう。

 

 つまり「不-理解」に蝕まれ、理解することから退却すれば、頼りになるのは想像を巡らすことであり、そこから生まれるのは暴力態勢である。こうして二元的思考と体験がもたらす絡み合いが描かれ、他者からの攻撃を予期することからもたらされる結末がどのようなものかが見えてくる。誰もが襲撃に備えなければならない。もし我々が、その襲撃を復讐と呼ぶならば、そのときこの二元的世界に登場してくる問題は、復讐はすべてまた復讐に対する報復を挑発することになる。ヘーゲル法哲学の中でいみじくも示したように、そうなれば我々は報復の連鎖という留まることを知らない循環に落ち込んでしまう。

 

「あのね、リーザ、あるときゾシマ長老がぼくにこんなことを言ったんだ。人間というものはたえず子どものように世話をしてやらなければいけないってね。」

フョードル・ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

 このアリョーシャの台詞は、そのままレヴィナスの代表的な概念「顔」に通ずる言葉だ。誰もが無力な子どものように様々な暴力に取り囲まれている。誰もが誰もに対して「傷付けられた!」と糾弾出来る時代である。その暴力は私たちが「他者」というものに出会わず、自己中心性の中に閉じ籠もっていることから生じる。

 このため誰もが暴力に曝される運命に在る悲惨な子どものような存在なのだ。

 

死者が生者を召喚する

たとえ世界の人々が何も知らず、すべてを忘れてしまったとしても。私たちは「受難中の受難」を見世物にしたり、この非人道的な叫び声の記録者や演出家としてささやかな虚名を得ることを自らに禁じています。その呼び声は永遠の時間を貫いて、決して消えないままに残響し続けるのです。その叫び声の中に聞き取れる思考に耳を傾けましょう。

 エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』

 

 この文章はホロコーストの死者たちに対するレヴィナスの構えがどういうものであるかを私たちに教えてくれる。死者たちのことばは「永遠に残響する叫び声」であり、それを記録したり分類したりカタログ化したりすることは「私たち」には許されない。生き延びた者に許されているのは、その叫び声の中に「思考」を聴き取り、それを「あの時代を生き残った私たち一人一人がそこに目眩のするような既視感を覚える種類のフィクション」として語り継ぐことだけである。

 それ以外の「証言」の仕方は、ラカンが言ったとおり、「死者たちが許さない」。だから、生者たちは「召喚する者」ではなく「召喚される者」として自らを位置づけることになる。死者たちを生者の法廷に呼び出して、その証言を語らせるのではなく、生者たちが「死者たちの陪席する法廷」に召喚されて、そこで自らの有責性について弁疏することを求められるのである。

 

 生者が語れるのは畢竟「生者のことば(ロゴス)だけであり、それは死者たちには届かないし、死者たちの声を語り継ぐことも出来ない。「死者たちのために/死者たちに代わって」語ろうと望む生者は、そのことを口にした瞬間に「身分詐称者」へ自らを貶めることになる。それは「私は立法者だ」と宣言する物が、その権限を私より上位の審級に求めたとたんに詐称者になるとういラカンの指摘の通りである。

 だから「死者たちのために/死者たちに代わって」語る権利は生者には許されない。

 それを語れるのは「死者たちは存在する」ことを自明とする存在論の語法だけであり、その語法こそ、その死者たちを煉獄へ追い払った当の暴力の公用語、「権力の語法」に他ならないのである。

 

西欧哲学はほとんどつねに存在論、すなわち存在者の知性を保証する中間的・中立的項を介在させて、「他なるもの」を「同一者」に還元してきた。私のうちにすでにあるもの以外は「他者」から何も受け取らないこと。あたかも、未来永劫に、外部から私に到来するもの、私は所有しているかのように・[…]それこそが「他なるもの」の「同一者」への還元なのである。

エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』

 この『全体性と無限』のしばしば引用される箇所の「他者」を「死者」に、「同一者」を「生者」に読み替えるとき、私たちは改めてこの企ての困難さを知ることになる。死者たちが「主題あるいは対象となり、目に見えるかたちで顕現し、つまりは光の中に位置づけられる」こと、それは死者たちについて存在論の語法で語るということである。レヴィナスはそれを止めなければならないと言う。

 

 今の私たちの世界に「神の代訴人」や「神の遺言執行人」を自称する人々はもうそれほど多くはないし、その名乗りを信じる人も少ない。しかし、「死者の代訴人」、「死者の遺言執行人」たることをみずからの倫理的責務であると信じている「善意の人々」は数多く存在する。かつてマルクス主義者は「プロレタリアと第三世界の被抑圧大衆」の前に恥じ入ることで、己の「政治的正しさ」を基礎づけ、知的威信を獲得しようと望んだ。今また別の人々は、そのつどの「弱者」(被抑圧者、被迫害者、被差別者)を探し出し、彼らの「代訴人」という立場から正義を要請しようとする。その初発の動機がどれほど善意であっても、その理路はついに存在論的であることを免れない。

 というのも、そのようなとき、「他者」たちは、まさに「私」の道徳的。知的卓越の「証人」として存在のうちに召喚されているからである。俗に言う「サバルタン問題」だ。「他者」たちは「『私』を審問する」仕事を通じて、「『私』を基礎づける」作業に功利的に使役されている。「他者」たちは全体性のエコノミーの中にきちんと戸籍登録され、IDカードを発行され、その勤務形態についてことこまかな規則を課されて「使役」されるのである。

 けれども、それを嘲笑うこともまた私たちには許されず、忌々しいアンチノミーに対面させられてしまう。それだけ「存在論の帝国の版図」は宏大なのであり、私たちはいくらそこからあら外で用途しても、そのつどそのエコノミーの中に引き戻されてしまう。存在論批判をそれと知らずに存在論の語法で行うことの危険。『全体性と無限』のあとに、レヴィナスを嬉々として引用する存在論者たちという逆説にレヴィナスは思い至ったのではないだろうか。『存在するとは別の仕方で』はだからこそ書かなければならなかった。

 

 レヴィナスにおいては他なる時間とも言うべきものが、他者との関係から必然的に生じる。他者との時間、他者と共にあることの特異な時間性は普段の時間性を引き裂くように作用する。「私は他者の人質である」他者の人質であることで私は初めて一人の主体である,そうした他者との関係において,主体は自らの意志・意図・意識・能作・決断などに回収しえないものを経験する、あるいはそうした経験へと晒される。すなわち、危険に乗り出す、試練に身を晒す等々の本源的な意味での、受苦にほぼ等しいような経験をする。主体は、自らがいわゆる経験の主体ではなくなるという経験に露呈され遺棄されるのだ。

 

誤謬B-後悔と贖罪

死に至る病

おお、苦痛よ。私はとうとうお前を尊敬するに至った。

お前は決して私から離れなかったのだから。

ああ、私には分かったのだ、つまり、存在する事でお前は美しいのだ。

お前は、あわれな暗い私の心の悲しい炉端から

決して離れなかった人たちに似ている。

フランシス・ジャム『苦痛を愛するための祈り』

 

絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な狂暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し伸べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、――いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って狂暴になりたいのである、彼は全世界から全存在から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。

からしていまかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、――それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得されることもできない。「…」彼は彼自身であろうと欲する。彼は自分の具体的自己からの無限の抽象をもって始めた、しかるに今や彼はついにそのような仕方で永遠となることはとうてい不可能であるまでに具体的となった、――にもかかわらず彼は絶望的に彼自身であろうと欲するのである。ああ、何という悪魔的な狂想であろうか!永遠がもしかしたら彼の悲惨を彼から奪い去ることを思いつくかもしれないということに思い到るとき最も狂暴になるというのは!

ゼーレン・キルケゴール死に至る病

 他者のために世界を見ること、望むこと、行動することは、しかし、暗黙のうちに他者の侵害であり、支配であり、そして管理することを意味する。独りよがりの知ったかぶりと優越感のパースペクティヴが他者のパースペクティヴの上に覆い掛かる。他者に対するまなざしを自己中心的に変化させることは、したがって同時に他者からの退却であり、他者を侵害することである。こうしたことは、見ること、感じること、行動することの差異をなくすことであって、その為にもはや、何が他者を自分から分離し、他者たらしめるのかを区別できなくしてしまうということである。

 権力の観点からみると、二つの相補的な展開が起ちあがってくる。すなわち、筆頭は、他者のために考え、それによって他者を制御し、他者のために正しいことを行うという試みのなかで、言い換えれば、他者を支配し彼を禁治産者扱いする試みのなかで生起する。こうした行動は同時に報復を産む。というのは他者の異議申し立てと抵抗が主体の側に欲求不満と攻撃の動きを発生させるからである。主体は絶望し、痛みを感じ、憎しみに満たされてそして落胆する。

 友-敵という分極化の観点でみると、同一の展開は、一方では他者を友として独占することを意味し、その限りでこのことは成功裸に運ぶことはないし、また他者を敵として誤って判断し他者を拒むこともうまく運ぶことはありえない。善なるものと悪なるものを区分けすることで友-敵を分けるのは、したがってこうした展開のもたらすステレオタイプの帰結である。

 最後にさらに関心を引くのは、こうした経緯のなかでの暴力への移行である。絶望、憎しみ、そして罪責感のために憎しみを抑圧することから主体への重圧が肥大化し、その結果ついには自制心を失い責任感の境壁を飛び越えてしまうと、憎しみは赤裸々な暴力の形ではやくも暴発を起こす。主体は敵の悪事から解放されようと努めるが、主体はそれによって敵を傷付け、心痛を与え最後には身体的に亡き者にしようとすることになる。このようにして相互作用の連鎖は解消されるが、その結果は犠牲者には、無力、孤立無援、苦悩そして死を意味し、また手を下した者や共犯者には、勝利、虚しさ、そして無意味、罪、恥辱などへの転落を意味する。

 数多の犠牲を踏み台にしても、いよいよ克服出来なかった者に残されている人生は、絶望、そして後悔と贖罪の日々だ。体を隠してくれるイチジクの葉はとっくに枯れ果てた。しかし、それでも我々は進まなければならない。

 

比喩的に語るならば、それはいわば或る著作家がうっかりして書き損ないをしたようなものである、この書き損ないは自分が書き損ないであることを意識するにいたるであろう、(もしかしたらこれは本当はいかなる書き損ないでもなしに、遥かに高い意味では本質的に叙述全体の一契機をなすものであるかもしれない)さてこの書き損ないはその著作家に対して叛乱を企てようと欲する、著作家に対する憎悪から既に書かれた文字の訂正されることを拒否しつつ、狂気じみた強情をもって彼は著作家に向ってこう叫ぶのである、――「いや、おれは抹消されることを欲しない、おれはお前を反駁する証人として、お前がへぼ著作家であることの証人として、ここに立っているのだ。」

ゼーレン・キルケゴール死に至る病

 

4章:他者への責任 息子を神に奉献するキルケゴールに狂うデリダ

われわれの世界の全体は、無数の生けるものの灰である。そして生けるものが全体に対してどれほどわずかなものであろうとも、それでもやはりかつて一度は、すべてが生へと転じられたのであり、そのようにありつづけるだろうということに変わりはない。

フリードニヒ・ニーチェ、一八八一年の手稿より

 

「決断の瞬間はひとつの狂気である」

 ジャック・デリダの読書であれば、この一文がキルケゴールという名と共に、デリダの繰り返し用いるスローガン的一文であるということを知っているにちがいない。たとえば次の一節、決定のジレンマを巡って述べられている。

決断の瞬間は、そのものとしては正当でなければならなが、つねに大急ぎの切迫した有限の瞬間にとどまっていなければならない。それは、決断をめぐる理論的な知であれ歴史的な知であれ、反省であれ熟議であれ、そうしたものの帰結であったり効果であったりしてはならない。というのも法的・倫理的・政治的な認識の熟議が決断に先立ち、また先立っていなければならなにもかかわらず、決断は、当の熟議の中断を印づけるからである。決断の瞬間はひとつの狂気であるキルケゴールは述べている。

ジャック・デリダ『法の力』

 

 ジェフリー・ベニントンによれば、このデリダのスローガン的一文は、デリダが10代の頃に読んだ、キルケゴール『哲学的断片』のフランス語訳から引かれたものであり、だがそれは不運にもニュアンスを損ねた訳であったというのだ。より正確には「(ソクラテスからすれば、キルケゴールのように)決断の瞬間(という考えを持ち出すこと)は愚かの一言に尽きる」。という旨の文章だったようである。しかしベニントンはデリダの誤読をあげつらた訳ではない。肝腎なのは、誤読にもかかわらず、この一文が『哲学的断片』のひとつの重要な論旨をとらえているということ、そればかりか、若きデリダにとって思いがけず生じたトラウマ的狂気とも言うべき読解の出来事を刻印している

 デリダが「決断の瞬間はひとつの狂気である」このスローガンを反復し、さらには呪文のように持ち出すことは、確かにひとつの読解でさえないとしても、どこかしらパウロキルケゴール的な意味における瞬間の出来事性を捉えていたということになるだろう。それは若きデリダの来歴において生じた断絶、トラウマ、転換=改宗、根底的な「印象」ないし刻印、ターニング・ポイントないし切断という性質をもつ出来事であり、それ自体は忘却不可能だがいくぶん忘れられていた出来事の記憶において、デリダのちょサウのいたるところで規則的に回想されおそらくは強迫的に反復された狂気の瞬間なのである。「決断の瞬間はひとつの狂気である」とはひとつの狂気である。

 

おそれとおののき

キルケゴールの緊密で研ぎ澄まされた筆致によって生み出された最高傑作のひとつ、『おそれとおののき』の主題はなによりも「信仰」であり、人間が神に対してもつこの関係の困難を、ユダヤ、キリスト、イスラームという啓示宗教の始祖たるアブラハムの物語に託して論じている。それが目指すのは、この困難に立ち向かった信仰の父アブラハムへの最高の讃辞となることである。

 

 アブラハムの物語とは、よく知られているように、旧約聖書の『創世記』第二二章に見出される、いわゆるイサク奉献の挿話である。神はアブラハムに子孫繁栄の約束をしておきながら、あるときアブラハムに試練を課した。「あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。私の命ずる山で、イサクを燔祭の供物として捧げなさい」。イサクはアブラハムが一〇〇歳にして初めて授かった一人子であり、彼なくしては後のユダヤキリスト教の系譜が断たれてしまう始祖の一人である。三日と半日かけてその地に赴き、アブラハムはイサクを薪に縛り付け、刃物をとって屠ろうとしたその瞬間、神の使いが天からアブラハムに呼びかけた。「その子に手を下すな。汝が神を畏れる者であることは、いまわかった」。アブラハムは目を開いてあたりを見回すと、一頭の雄羊がいて、代わりに供物として捧げた。

 この物語は一般には、神がイサクの命を引き換えにしてアブラハムの信仰心を試すために課した試練の物語である。理不尽とも言える神の命令に従順に従い、試練を克服したアブラハムの偉大な

 この物語は一般には、神がイサクの命を引き換えにしてアブラハムの信仰心を試すために課した試練の物語である。理不尽とも言える神の命令に従順に従い、試練を克服したアブラハムの偉大な精神を証した寓話として伝えられている。たてこのうえなく過酷な試練であっても確かな信仰心さえあれば、神は最後には信仰に報いるといった物語にもみえる。しかしキルケゴールアブラハムを讃えるのは、試練を乗り越えた悲劇の英雄としてではなく、「信仰の騎士」としてである。次の一節をみてみよう。

アブラハムはすべての人にまさって偉大であった。だがそれは無力さを強さとする力によって偉大であった。狂気の姿をした希望によって偉大であった。自己自身を憎む愛によって偉大であった。

ゼーレン・キルケゴール『おそれとおののき』

 

 アブラハムは、オデュッセウスとは異なり、悲劇を克服する異形によって感動と涙を誘うのではなく、狂気と境を接した行動の「宗教的な畏怖」によって強い印象を印づける。キルケゴールアブラハムを「信仰の騎士」と名付けるのは、神の試練に耐えたことでイサクを殺さずに済み、信仰の父となったその帰結によってではない。そうではなく、以下にみるように、不条理な試練に対してどこまでも孤独のなかで神へねお応答責任を果たそうとした沈黙のプロセス、その不安との戦いによってなのである。「アブラハムの物語に見落とされているのは不安である」。

 かくして沈黙のヨハンネス-キルケゴールは自らの企てについてこう記している。「私がアブラハムについて語るとすれば、まずもって試練の苦痛を描写するであろう。そのために私は、蛭のように、ひとりの父の悩みからあらゆる不安と悩みと苦悶とを吸い出して、アブラハムがいかに悩んだかを、しかし悩みながらもあくまで信じていたということを描写するであろう」

 

 では、『おそれとおののき』はアブラハムの直面した苦難と不安をどのように提示しているのだろうか。キルケゴールは、イサク奉献に含まれた問題を三つの問いへと定式化している。三!神聖なる数字!

  1. 倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか
  2. 神に対する絶対的義務というものは存在するか
  3. アブラハムが彼の企図を、サラ、エリエゼル、イサクに目して語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか

 内容に照らしてもう少し敷衍すれば、1なぜ、いかなる点で、アブラハムは倫理的規範や道徳法則を超えて行動するのか、2ほかならぬ自分だけが神に対して果たすべき唯一無二の義務とはどのようなものか、3なぜ、どのような正当化のもとで、アブラハムは、自分が行おうとしていることを家族に秘密にしていたのか、と言い換える事が出来るだろう。これら三つの問題は互いに関連し合っている。

アブラハムはイサクを衷心から愛さずにはいられない。神がイサクを要求するとき、いよいよ深く彼はイサクを愛さざるをえない、愛すればこそ、彼はイサクを犠牲に捧げることができるのである。 なぜなら、イサクに対するこの愛こそ、この愛と神に対する彼の愛との逆説的な対立によって、彼の行為をひとつの犠牲たらしめるものにほかならないからである。しかし人間的に言えば、アブラハムは、みずからを他人に理解させることがまったくできないということがこの逆説における苦悩であり、不安である。彼の行為が彼の感情と絶対的な矛盾に陥る瞬間においてのみ、彼はイサクを捧げることができるのである。しかし彼の行為が現実になると、彼は一般的なものに属することとなる。そしてそこでは彼は殺人者、どこまでも殺人者なのである。

 この一節は、愛と憎しみの逆説、犠牲の本質、他人に理解させることができないこと、殺人者になること、といった論点に触れている。以下、これらを三つの項目に分けてみていこう。

 

犠牲

 どうすれば此岸の世界から神への愛(信仰)を証すことが出来るのか。それは『おそれとおののき』の言葉でいえば「不条理なものの力」に訴えること、すなわち、最愛のものをこそ憎しみ殺す――デリダの言葉では「死を与える」――ことによって犠牲にすることである。これが、信仰の試練として神が課した要求にほかならない。

 最愛の子ではなく、私を愛せ――一見嫉妬深い神のように思われる。しかしそのような比較が問題になっている訳ではない。すなわち、殺して神に捧げる為に、イサクを憎み、私を愛せ、と神が要求しているわけではない。ならばこのとき、神に捧げものをするとはどういうことか。犠牲とはどういうことなのか。

 そもそも憎いものを殺害したところで犠牲にしたことにはならない。つまり、少しでもその愛に陰りがあり、偽りがあるならば、そのことを口実として、アブラハムは子殺しの苦しみをあらかじめ安らげることができるし、イサクを捧げる痛みを軽減することができる(私は弱い人間であり、純粋にはイサクを愛せていなかった、だから神は犠牲を要求したのだ、云々)。そうすれば免罪される訳ではないとしても、子殺しはなにがしか理解可能な行為へと解釈される。しかしこれは本当の意味での犠牲ではないし、信仰の証にも届かない。

 私と神との唯一無二の関係のもとでは、選択の余地はない。神を愛するためにそのぶんイサクを愛さなくなるのではなく、この対立は逆説的に一致するのでなくてはならない。つまり、神を愛すればこそ、ますますイサクを愛するのであり、イサクを愛せば愛するほどイサクを憎み殺さなくてはならないのだ。逆に言えば、神に捧げることなくしてイサクへの最高の愛を証すことはできない。神への愛とイサクへの愛とが逆説的に合致するその絶頂においてはじめて真の犠牲は成り立つ。愛ゆえに捧げよ、捧げるべくますます深く愛せよ――誇張法によって激化されたこの矛盾を、極限において引き受けるということが、イサク奉献の核心なのである。

 

倫理の切断

 愛ゆえに捧げなければならないというこのような行為は、人間の倫理からすれば狂っているとしか言いようがないだろう。実際、アブラハムの行動を外面的にのみ見るならば、単なる幼児虐待であり、挙げ句に殺人を犯そうとしたのと変わらない。しかしキルケゴールが強調するのは、それを犯すことによってこそ、倫理を停止し、真の犠牲が可能になるということである。逆説の瞬間をくぐり抜けるこの犠牲こそが、有限な人間の側から、絶対的な義務を引き受け、信仰(無限なる神への愛)を証すことができる。

 ここで宙吊りに停止される倫理とは、「親は子を愛する」という、愛のもっとも基礎的で一般的と言うべき倫理である。問題となっている「目的論的停止」とは、いまみたような意味での「犠牲」のことだ。しかしこれは、たんに倫理に反すること、犯罪的なことをしたり支離滅裂な言動に勤しむという意味ではない。そうではなく、愛という倫理を最大限に尊重した極点でこの倫理を切断する(この場合は最愛のイサクを捧げる)ことに他ならない。「最愛」という言葉は、ここでは厳密に受け取らなくてはならない。倫理の切断は、あくまで倫理の尊重(ここでは愛)を条件とするのである。

 かくして倫理の切断か遵守かという比較対象ではなく、尊重ゆえの切断として極限まで高められたこの矛盾の頂点において、一瞬ではあれ倫理の一般的秩序から飛躍し、イサクへの愛と神への愛とが逆説的に一致する瞬間として信仰を証す、という図式が得られることになる。とはいえ付言すれば、これは事後的に見出される説明様式であり、当事者にとっては意味をもたないまま(狂気の沙汰)だというのがここでの主旨であることに変わりはない。

 

秘密と責任

 もうひとつの論点。このとき「アブラハムは、みずからを他人に理解させることがまったくできない」。キルケゴールは、アブラハムの苦悩と不安を繰り返し強調している。アブラハムは神の要求に応えようとするみずからの企てに関してどこまでも沈黙を守らなければならず、実際そうする事しかできない。

 神への信仰が証される条件とは、神と、単独者としての自分との唯一無二の関係――ただし非対称的な――に入ることであった。イサクを犠牲にすることをもし家族(妻サラ、僕エリエゼル)に話したとすれば、もちろん止められるだろう。例え家族の反対を押し切るとしても、彼らとのやりとりのなかで孤独を不安を和らげる様々な慰めや口実を得ることが出来るだろう。しかしまさにそのことによってアブラハムは、神との唯一無二の関係を維持できなくなる。というのも「語ることの慰めは、語ること私を一般的なものへ翻訳してしまう」、つまり、倫理や道徳的規範を支える言語の汎用性のもとで私の行為を共有可能なものにし、神に単独者として応答する責任を放棄することになってしまうからである。

 

 最終的-結果的にはイサクは生還し、子孫繁栄の約束が果たされた。結末を知っている読者は、安心してこの物語を受け止めることができる。しかしそれでも忘れてはならないのは、アブラハムの困難さが、倫理的にも宗教的にもあくまで宙吊りの状態に置かれた孤独な境遇のうちにこそあるということだ。繰り返すが、キルケゴールアブラハムを讃えるのは、三日半のあいだ苦悩と不安に曝され続けたこの沈黙の宙吊り状態にとどまるかぎりなのである。

 

イサク奉献解釈の読み替え

 デリダが繰り返し引用するキルケゴールの文「決断の瞬間はひとつの狂気である」に戻ろう。この文が『おそれとおのおき』から取られたものでないとしても、イサク奉献の物語にあって、この文の含意は以上から明白だ。「決断の瞬間」とはイサクの犠牲にあっては、倫理の言葉では殺人の瞬間を指すが、すでに見たように、まさにこの行為がイサクへの史上の愛と絶対的に対立するその究極の矛盾において、アブラハムは狂気の瞬間に陥る。

「決断の瞬間はひとつの狂気である」と別のところでキルケゴールは述べている。この逆説を時間や媒介において捉えることはできない。つまり言語にあっても理性に即しても捉えることはできない。贈与と同じように、そして「死を与える」と同じように――それらはどちらも贈り物を贈ることがなく、現前にも現前化にも還元されえない――、逆説は瞬間の時間性を要請する。それは非時間的な時間性、把捉不可能な持続に属するのである。

ジャック・デリダ『死を与える』以下DM

 

 デリダが力説しているのは、「決断の瞬間はひとつの狂気である 」とされるこの一瞬が、それ自体としては時間(という理性=言語的秩序)に属さないような「瞬間」のうちにあるということだ。そこからデリダがこのテクストに与えるタイトル「死を与える」の意味が明らかになるだろう。原則的には、この死の贈与は二重であるとデリダは述べているが――「神にその死を与えながら息子に死を与えること」(DM)――、狂気の瞬間を考慮するもうひとつの意味が付け加わるのであり、実は三重である。つまりそれは「みずからに死を与えることによって、また神への捧げ物としてこの死を与えてみずからを死ぬほど苦しめることによって」(DM)、イサクの犠牲であるだけでなく、アブラハム自身の犠牲でもあるのだ。要するに「死を与える」とは、まさに狂気という自死の瞬間に、他者(息子)に死を与え、かつ、他者のこの死を神(絶対他者)に与える、ということである。

 

 以上を踏まえ、デリダ読解へ。ここでデリダキルケゴールの解釈をたどり直しながら、どのようにイサク奉献の物語を読んでいるのだろうか。結論から言えば、デリダは、責任の概念そのものが孕む逆説を、キルケゴールのように宗教的寓話の釈義という次元にとどめることなく、当の概念-論理的な次元から捉え直すことで、神という絶対他者の物語をいわば世俗化しようとしている。デリダの言い方によれば「イサク奉献の物語は、義務や絶対的責任の概念そのものに棲みついている逆説の物語的責任の概念そのものに棲みついている逆説の物語的な射程の展開として読むことができるだろう」(DM)。

 説明すれば、キルケゴールの神は、私たちを、神との唯一無二の絶対的な関係に置く。しかし神が絶対的他者の別名であるならば、この関係の形式は――いわば超越論的シニフィアンの形式として――実のところあらゆる他者にあてはまる。つまり、イサク奉献の物語で語られている犠牲の逆説的矛盾は、聖書の特異な宗教的寓話というにとどまらず、義務や責任という一般概念に依存して構築されている近代社会の倫理全体を問い質すものとなるのだ。とすると、イサク奉献で語られている神の理不尽な要求は「ごくありふれたことでもあるのではないか。責任の概念を少しでも吟味してみれば、必ず確認されるようなことでもあるのではないか」(DM)。次の引用は『死を与える』をめぐる議論で取り上げられることの多い、有名な一節である。

 無限の数の他者たちがおり、他者たちの無数の普遍性がある。同じ責任が、一般的で普遍的な責任(キルケゴールが「倫理的次元」と呼ぶもの)が、他者たちに私を束縛する。私が他者の呼びかけや要求や責務、さらには愛に応えるためには、他の他者を、他の他者たちを犠牲にしなければならない。Tout autre は tout autre である。[…]他者との関係、他者の視線や要求や愛や命令や呼びかけとの関係に入ってしまうと、私は次のことを知る。倫理を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者たちに対しても同じやり方で、同じ瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それらに応えることができないということを。(DM)

 

 デリダ自身が解説しているように、この一節で導入されている文《Tout autre est tout autre.》は、一方ではトートロジーによる他社性の強調、「他者は他者だ、つねに相変わらず、他者の他性は他者の他性だ」(DM)を意味する。しかし他方では、主述間の意味を区別して「いかなる他者も、まったく他なるものだ」と二重に読むことができる。ここで重要になるのはとくに後者の意味である。つまり、他者のいるところではどこでも当の他者性は完全なる絶対他者性だという含意を導入している。この他社製の構造自体は、まさにキルケゴールが神の名のもとに突き詰めようとしていた構造と異なるものではない。

 例えば自分の職業や市民としての活動を通じて(会社員であれば顧客や取引先に対して、公務員であれば住民に対して、教師であれば学生に対して等々)、ひとりの他者に責任ある義務を果たそうと思えば、その間この他者とは異なる他の他者、無数の他者に対する責任(応答可能性)を裏切ることになる。そこには最愛の他者(たとえば家族や恋人」を含まれる以上、イサクに刀を振り上げるかのごとく最愛の人を犠牲にしつつあることになる。すなわち「夜も昼も、あらゆる瞬間に、世界のすべてのモリヤ山で、私は刀を振り上げつつある。私が愛する者に、愛すべき者に、他者に、およそ共通の尺度のないような次元で私が絶対的な忠誠を負っているようなひとりの他者に対して、私は刀を振り上げつつあるのだ」(DM)。

 かくしてデリダは、極限的な状況と思われたイサク奉献の例外性が、むしろ「日常的で平凡なことの構造そのものを明らかにしている」ことを強調するのであり、「倫理の一般性に代補的な錯綜を課すことで例外や法外なものを普遍化したり散種したりする」という点に「キルケゴールのテクストがますます大きな潜勢力を孕んでいく」(DM)ことを見出すのである。

 

 こうした議論は、一方では、あらゆる他者に無限の絶対的他性を認めることによって、キルケゴールが「神とこの私」に特化していた唯一無二の宗教的関係を、日常的な経験へと偏在化しようとする。キルケゴール的な神の世俗化とも言うべきこうした解釈の方向は、その実キルケゴールに反論して倫理を、道徳の一般生へと還元せずに無限の他社製によってあらためて定礎しようとしたレヴィナスの試みによってすでに切り拓かれていたものだ。

 しかし他方で、デリダは、宗教的次元を倫理的次元へと置き換えようとしたレヴィナスの議論(『固有名』!)にも反論する。というのも、神にも他者にも絶対的な特異性を見出すとするならば、いまや宗教は倫理化されたのではなく、両者の区別不可能な関係のなかで、倫理が宗教化されたとも言いうるからである。キルケゴールからすれば「レヴィナスの倫理はすでにして宗教なのだ」(DM)。

 要するにデリダは、キルケゴールの一種の神学的思弁を世俗化するのと同時に、レヴィナスの倫理をいわば脱世俗化する仕方で、宗教的な次元を日常に再導入するのである。宗教的なものと倫理的なものの相互混淆を導くこうした議論の方法は、キルケゴールの思考をたんなる聖書釈義の哲学に改宗しないために必要な操作である一方、私たちの日常の経験に偏在している宗教的次元、すなわち信の構造を解明しているという点で、きわめて意義深いものと言えるだろう。

 

責任の偏在化と無責任化

 他の者を犠牲にすることなく、別の他者に応答することはできない。あるいは眼前のこの他者の前で応答責任をとるためには、他のすべての他者たちに対する責任をおろそかにせざるをえないし、さらには倫理や道徳の一般性や規則性に依存した責任に留まる事もできない。私はこの犠牲について決して正当化できないだろう!――確かにそうだ。

 しかしながら、いかなる他者に対してもこうした神的な応答責任を見出す議論は、この私にとってこの他者にこそ果たすべきと思われた特異で一回的な応答責任を実のところ無化してしまうという帰結を孕んでいないだろうか。責任の偏在化はその効果において偏在的な無責任化をもたらさないだろうか?私にとって、責任を果たすべきこの他者が、たまたま遭遇した者、他の誰かでありえたかもしれない者、結局のところ代替可能な者だと分かっているのだとすれば、当の他者に対する責任を、神と同様の絶対性において私たちは本当に引き受けることができるのだろうか。そのような意味で「責任を果たせという要求に応答すること、この責務そのものに責任ある仕方で応答すること」は本当に可能なのだろうか?

 キルケゴールの他者は神ゆえに唯一それ以外には考えられない絶対的な他者であるのに対して、デリダがその神聖を偏在化する他者は、そのような唯一無二の重みにおいて受け取ることが難しい。権利上はそれぞれに異なった、かけがえのない他者なのだが、すべての他者が各々に唯一性をそなえているのであれば、事実上の唯一性は互いに相殺され、結局のところ均されてしまうのではないだろうか?

 

 このように抽象化された他者に対して「すべての牛が黒くなる闇夜」というヘーゲルの文言を持ち出すことが適切かどうかはさておき、これは単なる思弁上の問いにとどまらない。別の角度から考察し直してみよう。こんにち私たちは、本来は比較不可能なはずの他者の唯一性をつねに比較したり等置したり重ね合わせたりしながら、複数の他者と関係せざるをえない。民主主義であれ資本主義であれ、近代の市民社会の殆どの制度は、質的に異なる特異な諸個人を均質化・数量化することによって成り立っている。

 とりわけ情報管理社会といわれる現代の世界は、一人格の唯一性を、膨大な個人情報(ビッグデータ)の束として統計学的に処理し、AIやその深層学習による演算プロセスを通じて当の個人のアイデンティティをきめ細かに識別し序列化してさえいるのだ(携帯電話やSNS、クレジットカード、交通ICカード等々、私たちは多彩な認証システムのネットワークにつねに補足されている)。

 情報処理テクノロジーが飛躍的な発展を遂げた結果、定義上比較不可能で計算不可能であったはずの唯一無二の他者性は、人間の認知限界をはるかに超えた制度によって情報の集合体として計算可能なものへと近似的に代理=再現されることになる(かつて流行したクリプキのテーゼに反していまや固有名は確定記述の束に還元しうるかのようだ)。そうした発想のもとで、唯一無二の他者性を事実上等しく尊重したまま比較・序列化して扱うことのできる諸制度がますます全面化する世界に私たちは生きているのである(だからこそ、サンデルが有名にしたトロッコ問題であれピーター・シンガーの言う「人命の脱神聖化」であれ、一見大陸哲学の伝統からは素朴にみえる、個人の唯一性を功利主義的に考量する類いの議論が、けっして無視しえぬ説得力をもってしまう状況があるのだ)。

 意識しようが、そのような状況-構造に組み込まれて生きるなかで、それにも関わらず、私にとってのいま・ここにいるこの他者を、誰でもよい他の誰かであったかもしれない偶然性――実際にはデータの束として制度上管理された偶然性であり、新たな機会主義の問いを定義するだろう――に委ねることなく、いわば神的な唯一車として受け止めること、そのような存在に対して応答責任を負うということはいかにして可能なのか。私にとっての他ならぬこの他者の存在を、誰でもよい他の誰かの偶然性ではなく、いわば偶然的であるがゆえの必然性としていかにして肯定できるのだろうか。

 

 我々にとって、いま・ここにいるこの他者は、家族であれ恋人であれ友人であれ、素朴な事実としては誰でもよい誰かではない――たしかに私はたんに随意に選んだのではない有限な生を生きており、その有限性を否定することはできない――、そうした想定は不要だと見做されるかもしれない。しかしデリダの立論はそうした想定の可能性を浮き彫りにしているのであり、なおかつ実際にも、現代はそうした可能性を思考しなければならない世界がますます支配的になりつつあると考えるべきである。「誰でもよい誰か」に対するたんい偶然的ないし恣意的な(無)責任が拡大しつつあるのだとすれば、「誰でもよい誰か」にも関わらずこの他者への責任を担わなければならないという偶然性ゆえの必然的な応答責任をこそ区別し、追求しなければならない。

 このような必然性とは、キルケゴールにあっては「情熱」と呼ばれるだろう。神という無限の絶対的他者の前では最愛の他者(イサク)を犠牲に捧げなければならないという不条理がこのうえない切迫感もって襲い来るとすれば、それは、まさにキルケゴールの言う「信仰の情熱」の意味においてである。しかし唯一神ではないこの他者に、そのような情熱をいかにして見出すというのだろうか。

 

信の秘密を分かち合うこと

 キルケゴールが提起した世代から世代への伝承の問い――《神のまえで単独者として立つ》その信仰をデリダが世俗化した意味で、「信」という講義の言葉で言い表そう。アブラハムが直面したように、他者にたいするこの「信」の情熱は共有不可能である必要がある。ゆえにこの秘密の情熱は、明示的な意味内容として次の世代へと伝達することができない。だがキルケゴールはそれは決して不可能であるとは言わない。

 デリダが問うているのは、秘密を分かち合うことの可能性である。すなわち「私たちがアブラハムと分かち合うのは分かち合われることのないもの、それについて私たちがなにも知らないような秘密」(DM)を分かち合うことに他ならない。秘密の内容を暴いて共有することではなく、秘密を秘密のまま、分かち合うことなく分かち合うことである。

 秘密であること自体が秘密であるような秘密を分かち合うこと――そもそもラカンに拠るまでもなく、自らの用いる言語が親から学んだ他者の言葉ではなかっただろうか。あらかじめその意味も効果も理解することなしに猿真似をするしかないものだ。我々は誰しも、そのような秘密の伝承者と知らずとして神=他者の信者であったことになるだろう。

  

5章:天体重力、そして廃墟に舞う天使 ブランキとベンヤミンの神的暴力

彗星

他ならぬ天体そのものが、私としては、鬱々とした重みをともなった何か相当な理由がなくてはちょくちょくお出まし願ったりすべきではないと信ずるものだが、私はぱらぱらと筋書きをめくり、星星が集まっているところなのだと知った。

 ステファヌ・マラルメ『バレエ』

 死者が再来し、彼らの行為はもう一度われわれとともに成ろうとする。[…]死者は戻ってくる、新しい行為のなかだけでなく、新しく告げられた意味連関のなかにも。

エルンスト・ブロッホトーマス・ミュンツァー――革命の神学者

  ジャック・ランシエールは、マラルメがさほどの他意もなくブランキの『天体による永遠』を皮肉った上記の一文からブランキ論への序文のための題辞とした。だがその際に彼は、この幽閉者が『天体による永遠』の草稿を『資本と労働』の草稿とともに妹に託したことをことさらに伝えることを忘れなかった。まるでこれら二つの書が一対の作品でなければならないことを強調するかのように。

 その序文でランシエールは、ブランキが「天体を凝視することで彗星の性質(など)[…]をめぐるさまざまな論争を知ったのではな」く、むしろ「鬱々とした重みをともなった何か相当な理由」があったからこそ彼の天体の重力に魅了されたと指摘する。そのうえで彼は、楕円を描いて巡航する彗星と天体の秩序立った運行との脆い併存あるいは交錯を、「多少とも楕円状の周回」といった修辞を用いて表現する、ブランキへの注意を促している。

 

 彗星とは、いわばベンヤミンの「歴史の天使」ならぬマラルメの『類推の魔』に登場する「天井の栄光を分有する〈回想〉」という名の天使の別名であり、ラプラスが「いかなる名目のもとでも自分の体系の内部に留めておくことができず、その放逐のために星から星へと盥回しにし、彷徨わせ」た出来事、合理的説明にはその出来が不都合な事実であるという理由から残滓として――彗星と命名された隠喩である。円環に属しながらもガス状の塵-屑の緒を随え、天体の運行にいくつもの二つの焦点を強いる否定性でもある。そしてこの彗星がもたらす遺抗の現在の時における残響こそ、例の憶想という永遠の〈歴史〉から必ずおくりとどけられる土産への応答。それは人々の内面に想起をもたらし、然るが故に、未来に恃んで過去へのさまざまな背進的居残りを志位、ついには人々が過去におけるその失敗の質受けを未来へ投企する、当のものだった。

 この彗星の巡航―資本と労働―を描くドゥルーズの体系は、ブランキには内心「俗悪きわまる再販、無益な繰り返し」と映りもしただろうが、であればこそ彼に、「過ぎ去った世界の標本がそのまま、未来の世界のそれとなる」という反復を強いるこの「重力による羽交い締め」から――ランシエール風に言い換えれば「重力の魅惑」という遁れる、現実的な象徴界からの幽閉の圏外に遁れられることが可能かと、問わせた当のものだった。そしてその問いの回答こそ、時を時において跨ぎ変革を仮構する、革命後の市民社会の秩序に力強く拝跪するブランキだった。

 

ただ一つの分岐の章だけが、希望-期待に向かって開かれたままにある。忘れないようにしよう。この地上でわれわれがそうであったかもしれないことのすべては、どこか他の場所でわれわれがそうであることを。

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』

 目も眩むような宿命の蠢きに倦むブランキをその背後に強く感じさせる、しかしであればこそその「跪く力は物凄く」、その意味でふたたび翻り、この希望を込めて「俟つ」こと(待望)には死が貼り憑いて剥がれないことを証す機制でもある。

 ランシエールは、ブランキのこの固有の諦念-幽閉に向かって、希望そして死に裏打ちされる複数の分岐を、「再生-叛乱の衝撃」と呼ぶだろうが、彼は、そう命名することで、「消滅した星々は、新たな火種を生み出す衝撃によってのみ、ふたたび燃え立つだろう。彼は、この衝撃を生み出すことができる力だけが、死んでしまった星々を互いに粉々にし合う誘引力-重量である」ことを、むしろ秩序が間歌的に出来させては首尾良く鎮圧することができる秩序-階調の乱調を強調しながらも、告絵いるようにさえ見えるのだ。

 

 ラカンフーコー「作者とは何か」のセッションにわざと遅れて到来したかのように最後に登壇し、「構造は街頭でデモらない」という六八年のスローガンの一つにたいして痛苦の警句〈構造の街頭への降臨〉を献呈し当て擦ったように、構造は敗北として街頭に振り積み、人々を倦怠に閉じ込めるのだ。そしてそれはまた、「世界の起源」を論ずるブランキの「衝突して再生に至るこれら天体の亡骸どうしの邂逅は、容易に秩序の混乱を思わせる」といった、秩序の混乱への期待に潜む徒労感を込めた記述である。

 

 このブランキに触発されてベンヤミンは、しかし、本音を漏らして正しくも、夢見ることが幸せだとするヴィクトル・ユーゴーの「待つことが人生だ」に並べて、J・P・ヘーベルの有名なアフォリズム「倦怠は死を待っている」を引用し、この夢と倦怠という一箇同一の所作に「神話の反復としてのブランキ理論」を重ね合わせ、それをもって一九世紀の歴史の基本的な実例としたのだった。だがそれはパサージュ論で「どの世紀においても人類はやり残したことをやり直さなければならない」と当たられた、対抗宿命あるいは偶然を誘発する一対である想起という辛酸をも含意している。

 ここでベンヤミンが用いたこの〈居残り nachsitzen〉という動詞が突きつける事実、つまり人間は、いつでも過去のスーヴェニールに憑き動かされ、現在においてそれを腑に落とし(きれずに!)、ベンヤミンに言わせれば過去と共に蒐集された「異郷」に、その思いを馳せながら生き延びる為に過去を現在に置いて想起し、倦怠の果てに四月テーゼの如く跳躍することで、現在という時に有りながらも過去と未来に身を引き裂かれることを、つまりひとは歴史に居残りを命じられているのだ。

 

 とすれば、その冷徹な事実によって、マラルメの〈回想〉あるいはブランキの〈分岐-希望-期待〉とはドゥルーズが連続性を偏愛したと評すキルケゴールの「反復」。したがって差異の生産ではないかと疑問が湧き上がってくる。期待とは不安定であり、不安・おそれ・おののき――をもたらすことを意味している。そしてまさにここでこそ、「歴史とは構成の対象であり、その構成がなされる場は、均質で空虚な時間ではなく、現在の時に充ちている時間」というベンヤミンが『歴史の概念について』で語ったものではないだろうか?

 人は円環と交錯する彗星を、倦怠-死と共にひたすら待つのみなのか、あるいは出来事の出来を不安・おそれ・おののきと共に、期待に導かれて重力からの分岐に遭遇してはそのつど跳躍するのか、あるいは両者を同時に不可能に引き受けるのか、あるいは屈託とともに否認するのか――。

 

 タルデュー『退屈』に「ローマ人の生への倦怠を褒め称える永遠の記念碑」を読み取ったベンヤミンは、『天体による永遠』で「宇宙はたえざる破局の場」と書き付けた幽閉者ブランキを、世界は「もし円環の幸運のうちに目標がなければ、何の目標もっていない。また、自己自身にいたる円環が善き意志をもっていなければ、世界は何の意志も持っていない」と書き付けた「力への意志」のニーチェと並走させ、倦怠と永遠回帰を重ね合わせる。

 だが――であればこそベンヤミンは、同時にブランキは「市民社会に屈服するが、その跪く力は物凄く、そのために市民社会の王座が揺れ動き出す」とも書き付けるだろう。彼の「無条件の屈服」が、この「宇宙像をみずからの投影として天空に映し出している社会へのもっとも恐るべき抗議」であって、「古代の永遠回帰の理念がもつおそらくは最も恐るべき切っ先をへし折」ることで、「地獄の刑罰の永遠性は、循環の永遠性の代わりに、苦悩の永遠性を設定」するからだ。「循環の永遠性」は「苦悩の永遠性」へ偏移する。この苦痛を伴う待機を、ベンヤミンは倦怠とも言うだろう。

 

天使

 ベンヤミンは『歴史哲学テーゼ』の第九テーゼにおいて、パウル・クレーの絵「新しい天使」に言及している。

ひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めてきている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げらている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きついていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流しゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミンコレクション』Ⅰ

 

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 神的暴力とは、この天使の野蛮な介入であるとしたら、どうだろうか。天にも届く瓦礫の山、この瓦礫状に積もった不正の山を目の当たりにしながら、天使はときどき、この山を無に戻すために、「進歩」の破壊的な影響に復讐するために反撃するのだ。人間の歴史全体は、名もなき民衆=〈他者〉の苦しみを生み出す不正を正す過程としてみることができるのではないか。こうした不正はおそらく、どこかで、「神的な」領域において、記憶されている。不正は積み重ねられ、罪は記録され、緊張感はどんどん限界を超えて高まっていく。そしてついに神的暴力が、報復的な破壊的怒りとなって爆発するのだ。

 そうした正義の暴力的な執行に対立するのは、不正としての神的暴力、突発的な神の気まぐれとしての神的暴力である。いうまでもなく、ヨブ記はその最たる例である。ヨブが不幸な目にあったあと、彼の友人である聖職者たちがやってきて、この不幸を意味づけるための解釈を提示する。ヨブが偉大なのは、彼が身の潔白を主張したからではなく、むしろ、この不幸には意味がないと主張したからである。最後にすがたを現した神は、信仰をまもる聖職者たちの意見とは、反対にヨブの立場を肯定する。この聖職者の友人の役割とは、象徴的にうわべを取り繕うことによって、トラウマの衝撃を誤魔化すことである。

 

 ベンヤミンの解釈者たちは、「神的暴力」が実際になにを意味するのか懸命に理解しようとしている。それは、現実には絶対に起こらない「純粋な」出来事という、あの左翼の夢の一例なのだろうか。ここで想起すべきは、エンゲルスプロレタリアート独裁の一例としてパリ・コミューンに言及している部分である。

 最近、社会民主主義者の俗物たちがふたたび〈プロレタリアート独裁〉という言葉に健全な恐れを抱いている。よろしい、だが紳士諸君、この独裁がいかなるものか知りたいか。パリ・コミューンをみるがいい。あれこそは〈プロレタリアート独裁〉であったのだ。

 神的暴力に関しても、適切に言葉を入れ替えて、こう繰り返すことができるだろう。「よろしい、だが批評理論家諸君、この神的暴力がいかなるものか知りたいか。一七九二年から九四年の革命的〈恐怖政治〉をみるがいい。あれこそは〈神的暴力〉であったのだ〉。(この言い換えは、例えば一九一九年の〈赤色恐怖政治〉などを使っても続けられる。要するに、神的暴力を現実に存在する歴史的現象とみなすべきである。

 

 神的暴力とは、純粋な欲動の表現、生命の過剰、死にきれなさの表現であり、法に統制された「むきだしの生」に衝撃を与えるものである。ベンヤミンの考える、革命が勝利するために不可欠な「神学的」次元とは、欲望の過剰性の次元、「手にあまる」欲望の次元に他ならない。そして神的暴力と対立する神話的暴力は、生贄を要求し、むきだしの生を支配する。それに対し、神的暴力は、生贄をもとめず、罪を消滅させる。「暴力批判論」の最後の段落で、ベンヤミンは「人間による純粋な暴力の至高の現れ、革命的暴力は、可能である」と主張しつつ、同時に重要な限定条件を付け加えている。

しかしながら、純粋な暴力がこれまで、いつ特定の事例として実現されたことがあるか決定することは、人間にとってほとんど不可能であり、また急を要することでもない。というのも、それとしてはっきり認識できるのは、神話的暴力だけであって――ただし、それが比類なき効果を発揮する場合、話はべつだが――神的暴力ではないからだ。暴力のもつ、罪を消滅させる力は、人間の眼にはみえないのである。[…]神的暴力は、一罪人に対する群衆の神的な審判において現れるが、それと同じように、真の戦争においてすがたを現すかもしれない。[…]神的暴力は、聖なる殺害のしるしであって、けっしてその手段ではないが、「摂理的」暴力と呼べるかもしれない。

ヴァルター・ベンヤミン『Critique of Violence』

 ここでは、最後の文を正しく解釈することがきわめて重要である。神話的暴力と神的暴力との対立は、手段としるしとの対立である。つまり、神話的暴力が〈法〉の支配を打ち立てるための手段であるのに対し、神的暴力は何の手段にもならない。それは、罪人を罰するための手段、安定した正義の状態を回復するための手段にさえならない。それは世界の不正のしるし、世界の倫理の「関節がはずれている」ことのしるしである。しかし、だからといって、神的な正義に意味があるわけではない。それはむしろ、意味を欠いたしるしである。だからここでは、ヨブが首尾よくしりぞけた誘惑、このしるしになんらかの「深い意味」を読み込む誘惑に負けてはならない。

 ここから論理的にいえることは、バディウの用語でいえば、神話的暴力は〈存在〉の世界に属し、神的暴力は〈出来事〉の世界に属するということである。はたから見れば、単なる突発的な暴力に過ぎない行為であっても、当事者にとっては神的なものになる可能性がある。そう、その行為の神的な性格を保証してくれる大きな〈他者〉は存在しないのである。それを神的なものとして解釈し受け入れる、賭けともいうべき仕事は、完全に主体の仕事である。これは、奇跡に関するヤンセン主義の教えに似ている。奇跡を客観的に証明することはできない。信仰にかかわらない客観的な立場にあるひとにとって、奇跡はつねに平凡な自然の因果律によって説明することが可能である。ある出来事は、ただ信仰者にとってのみ、奇跡になるのである。

 

 神的暴力は、突発的な無秩序状態としての純粋な暴力からはもちろん、法を設立するという例外的な地位にある国家主権からも区別されるべきである。フランス革命に関連させて言おう。「プロレタリアート独裁」から国家主義的暴力への移行、ベンヤミン流にいえば、神的暴力から神話的暴力への移行という感知しにくいものをきわめて的確に表現したのは、意義深いことに、ロベスピエールではなくダントンであった。「人民が恐るべきものにならなくてすむように、われわれが恐るべきものになろう」。

 

 したがって、神的暴力でいう神は、古いラテン語の金言「民の声は神の声」でいう神と同じ意味で理解すべきである。つまり、「われわれは〈人民の意志〉のたんなる道具としてそれをやっている〉という倒錯的な意味ではなく、摂理的決断にからむ孤独を勇敢に引き受けるという意味で。それは、大きな〈他者〉の保護を得ずに絶対的な孤独のなかでなされる(殺したり、危険を冒したり、命を捨てたりする)決断である。それは、道徳からはみ出すとしても、「不道徳」ではない。つまり、天使のように無邪気に殺してよい、という許可を行為者に与えるのではない。社会構造の外にいる者が、即時の正義/報復を要求し且つ実行しながら「盲目的」に攻撃すること、それが「神的暴力」なのである。

 

誤謬C-自由と救済

鳴り響く喇叭の音

 デリダキルケゴールの「狂気」を連想させる話がある。それは以下の花園紀男の発言である。(田原総一朗連合赤軍とオウム)より)

千尋の谷があると。こっち側の崖から向こうの崖まで一メートル五〇センチだと。普通、幅跳びではね、二メートル、跳べると。そしたら、誰でも、こっちから向こうまで跳んで渡れるんですよ。だけれども、千尋の谷があるわけです。

そのとき、跳ぶというのは、平地で跳べるのと、そこで跳ぶのでは別ですよね。だけれも、いろんな意味で、そこまでは、崖じゃないところまでは適当にきたわけですよ。

[…]

だから、すべてこっち側で起こったことです。

 

  この痛苦を伴うリアルな譬え話は、「谷」を「跳び」超える、あるいは「門」を潜り抜けるといった、単純な決断だけを要請しているのだろうか?あるいは花園の「すべてこっち側で起こったこと」という発言は、ただ単に、待機の結末を指示しているのだろうか?それを絓秀実は、正しくも、密接に関連する「決断主義」と「シニシズム」の問題として、次のように措きなおした。

確かに、われわれは二メートルを跳べる力能があるにもかかわらず、それが千尋の谷であるということで、一メートル五〇センチの幅の谷の前で躊躇していると言ってよいだろう。われわれの力能にとって、本当は五〇センチの差異など存在しないのである。にもかかわらず、われわれは、その存在しない差異にとらわれてしまっており、そのことがシニシズムを生んでいる。しかし、一方では、その無であるところの差異こそがわれわれの存在の条件であり、われわれには、それを跳ぶことが不可能であるのかもしれない。おそらく、今できることは、五〇センチの差異は存在しない、われわれは谷を跳びうる力能があると言い続けうる、その力能を養うこと(だけ)だろう。その五〇センチとは、ウーマンリブ運動のなかで田中美津らが言った、あの「わかってもら」えない本質のことでもあるかもしれない。

 ここでは、花園と絓がそのそれぞれの経験から各々解こうと試みた大きな問題が提起されている、あるいはむしろ解き得ないままに反復(そして放置)されているようにみえる。またそれがゆえに両者は、解釈を与えて腑に落ちとそうと試みているにもかかわらず、厄介な問題を蒸し返してしまっている。

 絓のいわゆる「『わかってもら』えない」が「本質」だとすれば、ジジェクが『迫り来る革命』で語った、一九一七年のレーニンに、この「本質」すなわち享楽あるいはスピノザの衝動に衝かれ、いかなる「シニシズム」もなく毅然とした、したがって選択たらざる、存在論的「選択」(必然)を読み込もうとしているように思える。それは、カフカ『審判』に暫定的な終わりを与える絶望、すなわち「『犬のようだ!』と彼は言い、恥辱だけが生き残っていくようだ」に代えて、花田清輝のあまりにも有名な啖呵、すなわち「すでに魂は関係それ自身になり、肉体はものそれ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである。)」を与えることでもある。

 とはいえ、そのように絓を誤読するには、しかし、絓が「本質」として「『わかってもら』えない」(という客観的状況)が田中が絓が「えない」という否定辞を添えて引用した「わかってもら」の省略された理由に対して喝破した「わかってもらおうと思うは乞食の心」(という主体における断念-狂気と跳躍-喜ばしい賭)と同義であることが厳密に要請されるだろう。

 

 とすれば、しかしいま、レーニンを論ずるとは、この「無であるところの差異であるわれわれという存在」が選択する、飛び越える、あるいは潜り抜ける為の「条件」を論ずることに意味があるのだろうか?むしろまったく無-条件に、「'無であるところの差異」に他ならない「われわれ」という「存在」を、それ自体として決断する起源的な「選択」肢そのものとして与件であるとする必要があるのではないか?すなわち「選択」は、ランシエールの表現を逆用すれば、その「選択」をいわば起源的に支える否定的に排除された員数外を、まさに無条件に肯定的全体として「控除する」ことでなければならないのではないか?またその意味で、「間近の革命」とは主体における切迫性がつねに既に織り込まれている客観的状況の切迫性(必然)の肯定ではないのか?

 

 ここでデリダキルケゴールに比して取り上げたカフカの「狂気」を思い出されたい。ラカンマルクス主義男が自家薬籠中のように執拗に引く「門」の「審判」の寓話を。大きな〈他者〉のように語るカフカ教誨師は、だからこそ、「すべてを真実だと思う必要はないのです。ただそれを必然だと思えばよいのです」と騙ることで、「門番の……隙間」を暗示したのではないか?すなわち自由とは、必然性を理解することではなく、行為することで必然性を完成させることなのだ。

 

 門は常に開いているという意味で、既に熟し切っている客観的な切迫性であるにも関わらず、門前で待機することに喜びを覚える「おまえ」は「おまえ」自身が「見つけ出したと称している掟など、そもそも存在しないかもしれない」ことを理解しようとはしない。このように「おまえ」は、迫りくる革命の「門前」で選ばれてしまい、自らの存在に、この存在は、まだ本来の存在ではないのではないかと、恐怖を覚え後退する。こうしてカフカは書く。

われわれが憎悪しているのは、このわれわれ自身であって、われわれがまだ掟に価しない身であるからだ。掟の存続を信じない小党派が、ある意味ですこぶる魅惑的な主張を掲げているにもかかわらず、あいかわらず小さな党派に留まっているのも、この理由からである。

 みずからを「憎悪」するものは、ありもしない本来的自己なるものを探し求めては、待ち続けるだろう。そしてその場所が、彼ら自身が作りあげた墓場としての「門」である。

 だが、掟に価しない身であるからこそ「門」を潜るべきではないのか?つねにそして永遠に「掟に価しない身」である我々にとって、それがまさに自由というものではないのか?それが、例え真実ではなくとも、少なくとも必然というものではないのか?必然は不確定で無意味にしか見えない行為の過程にこそある。必然はその過剰において自由であり、偶発である。ジジェクは次のように力強く断言し我らを鼓舞する。

いかに四囲の状況が困難であろうとも、私たちは自由を目指して闘いながらすでに自由であり、幸運を目指して闘いながらすでに幸運なのだ。

スラヴォイ・ジジェク「迫り来る革命 レーニンを繰り返す」

  この「自由」こそが「必然」である。この「自由」には、だが、「でも彼を壁に連れて行ったのは彼の同類だった/それを理解した彼はまたそれを理解しなかった」というブレヒト的事態が纏い憑いて不可避だろう。そしてこのブレヒト的事態を凌ぐために哲学が必要だと言うならば、スピノザを愛せばいい!

 

 そしてカフカの――創作活動においてキルケゴールを絶えず念頭に置いていた男の描く、本当に神に選ばれたか全く自信がない「いとわしい老人」アブラハムと「汚らわしい少年」イサクを!モリヤ山に出かけようものなら世間の物笑いの種にされるのではないかとびくびくしている者を!彼は、神に呼び掛けられたと信じる自惚によってますます神に呼び掛けられるに値しなくなるのではないかと恐れ慄き、不安に沈む「召されずにやって来るアブラハム」だ。

召されずにやって来るアブラハムとは!あたかもそれは一番よくできる生徒が学年末に厳かに褒美を与えられることになっている、その期待に満ちた静けさのなかに、一番できの悪い生徒が聞き間違えたために、汚らしい彼の最後列の席から現れて、クラス全員の爆笑を買うようなものです。しかもそれは、ひょっとすると聞き違えでは全然ないかもしれない。彼の名前は本当に呼ばれたのであって、一番の子の表彰は、先生の意図によれば、同時にビリの子の処罰ということなのです。

おそるべきことです――十分に。

フランツ・カフカカフカ全集』9

  秘密の不可能な歴史、もうひとりの、ひとりならずのアブラハム、これらアブラハムの物語―重ね書きされた―複数の歴史は、私にとって一回的なこの他者への関係そのものが、複数の他者、不在の他者への応答でもあるような、もうひとつ別の歴史を呼び起こしてみること。他者への信のそのような情熱を、デリダは「文学」と呼んでいた!

 

 

禁断の果実

 しかし自らを憎悪する日々を超えて、他者に自由と救済を齎そうとする強者は、たいてい他者への信を履き違えてしまうアポリアへ行き詰る。例えるなら〈線〉の世界を知った者にとって〈点〉の世界には何の興味も引かれないような――ここで登場するのがニーチェの哲学だ。正義や相互性ちによる〈他者〉問題の解決の手法、しがたって第三者の視覚を約束や契約に取り込み、それと並んで同じく、このような双方性を具現している公的機関を発展させるという一見現実的に見える展望が成立するのは、それ事態それらは暴力から生じたものであり、常に正義というものを偏って解釈し、それによって損傷を与えまた暴力的になりうるという条件の下にあるときである。そのため、第三者の視覚は争いの二元的なからみあいから決して解放されることはない。第三の視角それ自体が争いの渦中に引き込まれる。

 

 ニーチェ哲学はたしかに、不安、罪悪感、憤怒、憎悪といった情念的諸次元を認識してはいるが、しかし償い、和解への態勢や愛といった次元をまともには捉えていない。他者は、諸表彰、要求、そして統御といった自我が行おうとする行為の領域に留まっている。たとえそれが直接暴力に拠るものであろうと、間接的に契約に則っているものであろうとも。

〈権力への意志〉のニーチェの原理的信念とともに、攻撃はニーチェにとっては一環して解明不可能な重大課題となっている。攻撃は、平和へと転換されることはなく、最大に見積もって、血なまぐさい暴力の展開を伴った腕尽くの戦闘状態から昇華された心的な争い状態へ移し替えることができるというものである。そのために理解することにも狭い枠が設定されることになる。理解が成り立つのは、自分の体験のあり方を一歩ずつ探り、他者の他者性に身を曝すことにあるとするならば、この強者弱者の関係のなかで理解は克服不可能な障害に突き当たってしまう。強者の位置は、不可解という情念によって大多数の弱者を凌駕している。

 そもそも弱者は強者の自己主張を理解できず、強者は弱者の自己否定が理解できない。そのため、ニーチェは彼の立場の特徴を、『華やぐ知恵』の中で〈われわれ、誤解され、誤認され、取り違えられ、中小され、聞き誤られ、理解できない者〉という激しい調子で語っている。強者は自らの体験範囲に境界を設定し弱者を締め出してしまい、その際強者は弱者とどのような連帯も拒否し、弱者を蔑む気持ちでみている。ここに他者の他者性を除け者にするという、硬直した潜在的に敵意のある動きを秘めた行動が生まれる。自由と救済をたからかに叫ぶ尊大な思想に狂った者がもたらすのは、とてもおぞましいカタストロフである。

 

 

 

終章:この我々の身体を通して出る力 円環と闘うデュピュイとカミーユ

投企の時間

 自己言及をめぐるパラドクスの大家であるボルヘスは、あるところで次のように書いている。「地図が地図に収まること、千一夜物語が『千一夜物語』という書物に収まることに、われあれはなぜこれおほどの胸騒ぎを覚えるのか。あるいはまた、ドン・キホーテが『ドン・キホーテ』の読者であること、ハムレットが『ハムレット』の観客であることに、なぜ?わたしはその原因を見つけたように思う。こうした逆転が提起するのは、フィクションに登場する人物が読者や観客でもありうるということだからだ。一八三三年、カーライルは次のように記した。世界史というのは一冊の聖なる、そして無限の書物、万人が書き、読み、理解しようと努め、そしてまた、彼らがそこで読まれる書物なのだ、と」。

 

 ジャン=ピエール・デュピュイは、時間の「歴史的」概念を打破して、新しい概念を導入する必要があると主張している。デュピュイはこれを「投企の時間」と呼ぶ。過去と未来の閉じた回路である時間だ。未来はわれわれの過去の行為から偶然に生みだされるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

 大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。[…]たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ。

ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学

 もしも――偶然に――ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生みだされる。必然と偶然の弁証法的綜合は、全体の必然性が持つ従属的で部分的な刑期としての偶然性を保存-止揚することに還元はできない。必然と偶然の弁証法の絶頂は、必然性そのものの偶然的な性格は認めるところにある。その初歩的なマトリックスは、物語化、つまり過去のできごとの偶然性が、均質な象徴構造の中に移し替えられる方法によってもたらされる。マルクス主義であれば、過去の全体は、変わらないテーマとして階級闘争をもち、筋書きとして社会的対立を解消する無階級社会を目指して努力するということをもつ。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。

 

 

俺の命に代えても、身体に代えても、こいつだけは!!

 

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 お馴染みの機動戦士Zガンダムにおける、シロッコとの最終決戦にて、カミーユは「俺の身体をみんなに貸すぞ!」と叫んだ直後、エマやカツをはじめ、闘いの中で散っていった死者達の魂がカミーユの元に集ってくる。

「俺にみんなの力を貸してくれ!」ではなく、「俺の身体をみんなに貸すぞ!」という富野作品らしい言い回しが内包する必然性を、我々は深く受け止める必要がある。死者の想念を自らの力へと還元するのではなく、死者に自らの身体を委ね亡霊に力を振るわせることによって、あらゆるものを自己の為への足蹴と利用するシロッコを葬るのだ。

 

 自己言及、自己超越、円環的な時間。システムの内部がそれ自身への外部へ投影される自己外化という奇妙な図式、先立つ出来事の意味を明らかにする破局。これらすべての主題、また我々のオブセッションとなっている他の多くの事柄。死者が生者を読み、生者が死者を読む、そんな円環の中に我々はある。

 

痛みで眠れないまま 彷徨い歩く僕らは
死にながら生きるような姿をしていた
思うように愛せない この世界で生きる為
血まみれのまま 泥沼の中
僕らは願い また歩いて行こうとする

米津玄師『リビングデッド・ユース』

 

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最後の誤謬-考える自分

恐怖に直面し、未来を作る

お前の鏡と会ってきたか?

自分たちの明日は止まってしまったから、お前にもここで止まれと説得してしがみついたんだろうな。

だけどお前は、あいつらと同じ昨日に残らなかった。

そしてついに今日、お前と会えた。

迷いなくここまで来たなら、お前ももう分かってるんだろうな。

俺は…ずっと前から分かってた。この世界が心を失っていたこと。

だが、知っていただけでそれに向き合わなかった。それは俺以外の人間でもだいたいそうだ。

……それが、「私たち」とカルメンの違いだ。

彼女はそれに向き合って、彼らを救い、失った魂を取り戻したかった。

人類を救うという崇高な決心をしたのは彼女だが、そんな正義感なんか持ち合わせていなかった俺がその理想を継いだ。

なんとも皮肉な話だ。

多分、俺は適任者では無かったかもしれない。

見ての通り、俺でさえ翼の一部となって翼と同じことをしている。

数千、数万の職員の死を繰り返し…。

仲間の人生を奪い、苦しみを繰り返させてた。

自分の目標を達成するという理由で全てを傍観していた。

この罪は絶対に許されないだろうな。

それでも…俺たちはやるしかない。

この数多の悪を通して、たった一回でもこの円環の鎖を断ち切れるなら。

俺はいくらでも、なんでも背負っていくつもりだ。

アイン『Lobotomy Coporation』より