めてろぐ a.k.a. ミーティア・ゲブラーズ★テトラグラマトン

普段は真面目でやさしい少女めてお。しかし... 一旦歴史に触れると「Cut the Balls!」と下品な言葉で共産主義の勝利をおねだりする世界一カワユイ(^◇^)過激派ラカン派マルクス主義者に大変身! 森羅万象の管理者「YA PUMP」の円環チーム責任者、ルシェナー・K・メッサとしてレイピアで資本家の首を刎ね暴君の血まみれのローブを振り翳す!

何故ネトウヨがガルパンを愛好するのか?――ミリタリおたくが暴力を軽々しく扱う事について

  

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 めておはこにゃばちにんこ!めておだよ!

 さて、賢明なるめてろぐの皆様は、ガールズ&パンツァーというアニメをご覧になった事がお有りだろうか?私は熱心なファンという訳ではないが、TVアニメ版は全て見たし、OVAや劇場版も視聴済みである。ミリタリーに余り興味はないのだが、スポ根アニメとしてなかなか楽しめた。

 見た事のない人でも、女の子が戦車でドンパチする、大洗に聖地巡礼がいっぱいいるアニメ……くらいは存じ上げているのではないだろうか。Wikipediaのアニメ概要紹介がコンパクトに纏まっていて分かりやすかったので、おさらいとして引用する。

戦車同士の模擬戦が伝統的な女性向けの武道として競技化され、戦車道と呼ばれて華道や茶道と並ぶ大和撫子の嗜みとして認知されている世界を舞台に、戦車戦の全国大会で優勝を目指す女子高生たちの奮闘を描くオリジナルアニメ兵器である戦車を女子高生たちが運用するという、男性のアニメファンにアピールするようなミリタリー萌え要素を併せ持ちつつも、死者の出ない戦闘とスポーツものの約束事を踏襲した物語が描かれ、戦争と死といった背景から切り離された戦車戦を描いている 

 さて、そんなガルパンだが、最近おもしろい事件があった。監督の水島努が、自民党が恣意的な人事を行うべくに発案した検察庁法制改正案への、Twitter上で開催された抗議のハッシュタグ祭りに乗っかったのだ。

 

  これに対して、多数のネトウヨがショックを受けたようだ。酷いものでは、水島努監督を半日左翼と貶す発言や、ガルパン好きだったのにもう見ないという微笑ましい発言まで、ネトウヨ怒りのアニメ鑑賞のクリシェが百花繚乱と感心したくなる程の反応が引き出されている。適当にまとめを貼っておくので、興味があればご覧頂ければ。

 

erogame.blog.jp

togetter.com

togetter.com

sakanazukan.net

 ガルパンというのは明るくカジュアルに、戦車での戦闘をまるでサバイバルゲームの如く楽しむアニメである。 ここでゆめゆめ忘れてはならないのが、幾ら劇中では安全なゲームとして描かれる戦車道は、途方もない暴力――人を殺す為の兵器をモチーフにしているということだ。

 扱う題材の為、ファン層にはミリタリーのおたくが多い。私の友人にも、ガルパンに嵌って戦車について詳しくなったという者がいる。武器や兵器を愛好する気持ちは、私にもよく分かる。しかしそれらは人を傷つけ殺す為に作られ、人権や平和といった近代を形作る重要なファクターを脅かす道具である。

 言うまでもないが現在の自民党は国民のことなど露ほども考えていない売国政権であり、あのおぞましい憲法草案では思想信条の自由を蔑視し、憲法9条を書き換え戦争を可能にしようとしている有様である。(ちなみに私は憲法9条は欺瞞的だとする井上達夫の見方を支持している)。

 

 そんな政権を、ミリタリーアニメであるガルパンのファンが礼賛しているとは、一体どういう事だろうか。戦争や兵器、ミリタリを扱ったコンテンツのおたくが、暴力を軽々しく扱うことについて――私は非常にこれじゃないという違和感と、グロテスクな感覚をいつも覚える。

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 辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』において、ガルパン自衛隊とコラボした際の事に関して、取り扱った文章があるのでそれを一部引用しよう。

朝雲』の記事には、「アニメやドラマなどを通じて、今の自衛隊は何をしているのか、さらには防衛について思いをはせてもらえば幸い」という陸幕広報室の担当者のコメントが惹かれているが、狙いどおりの成果をあげたといえるだろう。

 こうして見ると『ガルパン』にもやはり現実と虚構の混同が見られることがわかる。『ガルパン』作中の戦車は「スポーツの道具」であって、現実の兵器である戦車とは形状こそ似ていても直接的な関係はない。少なくとも、そういう「設定」であったはずである。にもかかわらず、作品のために現実の兵器にほかならない自衛隊の戦車を活用し、自衛隊の広報にも強力している。虚構のアニメがいつの間にか生々しい現実と結びついてしまっているのだ。

 ちなみに、大洗町の別のイベントには、自民党石破茂衆院議員がビデオメッセージを寄せている。軍事マニアとして知られる石破は、そこで戦車や『ガルパン』について言及するのだが、ここまで来ると生臭さは拭えない。

辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ

 さて、ロリータ・コンプレックスの二次元ファンの間でよく交わされている標語がある。「YESロリータ!NOタッチ!」ロリコン向け成人誌であるコミックLOのキャッチコピーでもある本フレーズは、至極当然尊重しなければならないものである。

 ではミリタリーにも同じような標語があるのだろうか?例えば電動ガンを愛するミリタリおたくも多いが、それをゲーム外で人に向け、あまつさえ弾丸を発射し傷つけるなどあってはならない事だ。では当然、もし本物の銃や兵器が手元にあったとして、それを人を傷つける暴力として扱う事など――「普通に考えれば」あってはならない。暴力をモチーフにしたものを愛好するからこそ、積極的に反戦平和を望み節度ある政治的運動をすべきではないのだろうか?フィクションと現実を混同して、天が与えし法に背く事があってはならない。反9条論者のネトウヨのミリタリおたくや、冷笑の共産趣味現状維持おたくなど、「子供とのセックスを合法にすべきだ!」と主張する小児性愛者とどれほど変わろうか?

 

 前置きが長くなったが、本稿は5章構成でお届けしよう。

1章:物語が読めないミリタリおたく

2章:GUNSLINGER GIRL仮面ライダー
3章:左翼と共産趣味者を何で分ける?―ギロチンで!
4章:少女とファルス
5章:おたく、うっうっうっ(泣)

 

1章:物語が読めないミリタリおたく

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  大人気カードゲームまんが『遊戯王』の高橋和希が、インスタグラムに主人公である武藤遊戯と人気モンスターのブラック・マジシャン、ブラックマジシャンガールの政治的なイラストが、現政権批判のメッセージと共に投稿された。 

 これに対して、それなりな数の「ファン」を称する人々が、「ショックを受けた」「よく分かっていないで発言している」「高橋和希は誰かに洗脳されている」「好きだったけど遊戯王嫌いになった」などという意思を表明しているのを見かけた。

 さて、さして思い入れのない作品に対してこのような意思は抱かないであろう。まさかあの素晴らしい漫画を描いた高橋和希先生が、ぼくの大好きな自民党や安倍さんを批判するなんて……!とさぞや暗澹たる気持ちになった事は想像に難くない。

  ちなみに私は遊戯王の大ファンであり、高校生までは小遣いをはたいてカードを収集して友人と対戦し、アニメもGX、5D's、ZEXAL、ARC-V、そしてVRAINSをずっと見ていた程だ。そんな私から言わせて貰えば、高橋和希のイラストにショックを受ける人々は、遊戯王のまんがすらロクに読めない連中である。

 

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 遊戯王はカードゲームや、作者の趣味であるボードゲームなど、様々な遊戯をプレイするのが主軸ではあるが、天下の少年ジャンプの永遠のテーマである「友情・努力・勝利」が常にバックボーンから感じられる。続編のアニメでも「勇気を持って、一歩踏み出す」こと、多様な人々とゲームを通して分かり合うこと――それらが根底に流れて物語は紡がれていく。

 確かに遊戯王ケレン味のある描写、アクの強いキャラクター、迫力あるモンスターが飛び交うカードバトルに目を奪われてしまう作品ではある。伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』の中で、やおい系同人誌(今はやおいという表現はあまり見ない気がする)を制作している少女達に「キャラが立ってる漫画って何だろう?」と問うたところ、少し考えてから『遊戯王』という答えが帰ってきたというエピソードがある。だが、流し読みする程度ではない、楽しんで読んだ人がそういった現象のみを読むなど、作品を読む態度として浅薄としか言いようがない。

 そのような作品を書き監修する人が、当然自民党の現政権を支持する筈がない事は誰の目にも明らかだと思っていたが、「ショックを受け」わざわざ批難の声明を出すという事はそれなりに思い入れがあるのだろう。

 思い入れがある筈なのに、作品の根底にあるテーマが読めない。遊戯王はさして複雑なストーリーのまんがではない。にも関わらず彼らにはそれが理解出来ないのだ。

 

 我々日本人には馴染み深いであろう、あの国語の問題「作者の気持ちを考えなさい」。物語は織られ世に出た時点で、当然作者の思惑とは別の読み方をされる事がある。精神分析的に言えば、作品として書かれた段階で既に無意識が滲み出ているのだ、ゆえにそれは当然である。煙に巻いたような文体では、執筆時の作者の感情が捉え難い場合もあるし、そもそもの話、誤読の可能性は常にあり得る。あえて作者の思惑とは違う読み方をするのも読書の醍醐味の一つである。

 が、幾ら何でも、先程の遊戯王に関する読みは、皮相浅薄が過ぎないかと私は思う。『デトロイト・メタル・シティ』を読んで「この作者はデスメタルをどう思っているのか」と疑問に思う事はあっても、遊戯王の作者が「安倍政権を売国政権と見なしている」事にショックを受ける――そんな読みはまんがの読解力の圧倒的な不足か、途方もないイデオロギーのバイアスがなければ不可能ではないだろうか?

 

 

 斎藤環の大著『文脈病 ラカンベイトソンマトゥラーナ』から興味深い文章を見つけたので引用する。

とりわけ漫画は、その高速・高密度の伝達力という点において、詳しい検討に値する。漫画の伝達力は、たとえば一コマの絵が、瞬時に作家の名前を連想させるときに、もっともよく発揮される。その速度と確実性は、たしかに僕たちの「診断」に似ている。いかに特異な文体の小説であっても、断片にこれほどの固有性が込められることはない。おそらく一部の絵画のみが比類しうるであろう、この「断片による伝達」を可能にするものが、漫画における高いコンテクスト性である。ここでいう「コンテクスト」とは、狭義の「文脈」の意味に限られない。それは、ある刺激の意味を決定するような、連続性を意味している。たとえばカテゴリーがその細部を規定し、細部がカテゴリーの推定を容易にするとき、両者を結び合わせるような連続性。それが「コンテクスト」だ。

斎藤環『文脈病 ラカンベイトソンマトゥラーナ

  実写の映画と比べて、まんがはハイコンテクストなジャンルである。情報がそこには圧縮されている。私の見立ててでは、まんが>アニメ>実写の順にハイコンテクストであり、実写はまんがやアニメと比較すればローコンテクストなコンテンツと言える。要はまんがを読むという事はそれなりの経験や訓練が必要なのだ……。実際斎藤環自身がどこかで「まんがを読むのが苦手という人がいる。外国人は日本のまんがを読めない人が日本人に比べて多い」と言っていた。この事は一考に値する。

 が、今はそんな事はどうでもよろしい!

 

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 艦これの同人誌を数多く出版している作家の有村悠Twitterで、「有村さんみたいに艦これファンなのに左翼なのは珍しい」と言及されていた記憶がある。

 

 

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2ch.vet

 このTWEETは現在削除されているようだが、鵜呑みにしてガルパンや艦これ等のミリタリー系萌え作品のファン層をネトウヨが多く占めているとしたら?なんとなく私もそうじゃないかなと思っていたが、ただ決して少なくはない事だけは事実であろう。

 私が何を言いたいか?幾らライトな芸風で描かれようが、戦闘に参加する少女という図式のアニメを、「無邪気」に「後ろめたさも感じず」楽しみ。そうして安倍政権を礼賛するグロテスクな人々が存在する。それに対して憤りを覚える。めてろぐの賢明なる読者の皆様にはわざわざ言わずとも理解されている事だろうが、「素朴な」「無邪気な」意見にこそイデオロギーが色濃く滲み出るものだ。

 

2章:GUNSLINGER GIRL仮面ライダー

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 00年代、『GUNSLINGER GIRL』に対するウェブなどの感想を見ると、本作が実に激しい賛否両論に迎えられていることが分かる。作中世界では、身体改造は少女たちの意思にもとづくものでは登園なく、彼女らは主に成人男性の担当官とペアで行動するが、担当官に対して強い感情を持つように薬物を用いて操作されている。その環状は「恋愛」に近いものだが、もっと動物的な感じのするものだ。彼女らは担当官に危険が及ぶと、まるで条件反射のように彼らを守る行動に出る。

 その環状は薬物などによって身体的に規定され、その操作は「条件づけ」と呼ばれている。これは行動主義心理学から借りてこられた用語だが、その意味でも「動物的」といえるだろう。アーサー・ケストラーの用語に従えば、擬鼠主義的(ラトモーフィック)な単語である。つまり、「人間」をあたかも実験動物のラットのように見なす機械論的な人間観を批判するために用いられた言葉だ。

 

 「こんなマンガは倫理的に許せない」「悪趣味である」「気持ち悪い」という声がある反面、この不幸な少女たちに感情移入するだけではなく、作品として高い評価を与える声も数多くある。つまり、大変挑発的な作品なのである。また、ジャンルへの強い批評性を持った作品ということもできる。「銃器を振り回す、健気で薄幸な少女」という魅力的な存在として描いておきながら、同時に、それが悪趣味な倫理的に問題のあるとされてるものであると、作中で言及をしているからだ。読者に対して「おまえらは、こんな酷いものに萌えるのか」と言いたげな身振りに満ちている。勿論、その葛藤は作者自身が持つキャラへの欲望にこそ、鋭く向けられている。我々はGUNSLINGER GIRLを読むときに、政治的な態度を取らざるを得ないのだ。だがこの態度を、他のミリタリー作品を読む時にも忘れてはならないではないだろうか?これは単なるエンタメだという、イデオロギーに塗れた見方をする誤謬に陥った時、逆説的にスポーツの道具としての戦車と現実の戦車を混同する錯誤がやってくるのではないか?

 

kaoriha.org

*

 

 またしてもネトウヨの話題に戻ろう(泣)

 仮面ライダーのファンのネトウヨが、「お前は仮面ライダーから一体何を学んだんだ!」と叱咤される事がよくある。なるほど、自民党の支持者が、正義の味方である仮面ライダーのファンとは奇妙な話だ。そこでのネトウヨの決り文句は「別にライダーから何かを学ぶ必要はないだろ!」というようなものだ。

 

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 仮面ライダーは常に悪と同根の力でもって戦う存在である。それは初代から令和初の仮面ライダーゼロワンまで常にブレないテーマとして描かれている。ウィザードの特別編で、ディケイドが言った「俺たちは正義のたえに戦うんじゃない。俺たちは人間の自由のために戦うんだ」という事もシリーズを重ねてもブレずに描き通している。その理念は、国民の権利を奪い去り弱者を更に締め付けようとする自民党の考えとはまるで異なるものだ。では、ネトウヨのライダーファンは、こういったライダーが後生大事にかかえてきたテーマを蔑ろにしながら視聴し、楽しんでいるのだろうか?

 ネトウヨ的な価値観はどちらかといえば敵の組織ショッカーに近い。ショッカーがナチスドイツを源とする組織である事はこう考えると滑稽な話だ。では敵を応援しているかというと、どうやらそうでもないらしい。アクションや殺陣、デザインだけを楽しんでストーリーには全く感心がないのだろうか?……それとも。

 

 ディケイドである門矢士が「人間の自由のために戦うんだ」と言った時、「馬鹿げた事を!日本人に自由など不要だ!」と嗤い、1号が弱い子供を身を挺して守ろうとした時「弱者など強者の養分にすればよいではないか!じっさい上級国民はそうしている!全く本郷猛はバカだ!」と嘲るのだろうか?

 別に作品から何を学ぶかどうかは個人の勝手にすればよい。だが、作品に触れれば何かしらの感情を刺激される筈だ。自由を守る事を馬鹿にしながら仮面ライダーを楽しむ……。正直言って、私には彼らの物語の読み方がよく分からない。読解力が恐ろしく低いのか、それとも安倍政権の行いが彼らには人間の自由を守る「英雄的」行いに映っているのだろうか?


3章:左翼と共産趣味者を何で分ける?―ギロチンで!

 教育において最悪の危険は、物事のかわりに言葉を教えてしまうことである。

 共産趣味者というけしからん連中がいる。

dic.pixiv.net

 彼らが愛好するのは、まさしくマルクス主義抜きの共産文化だ。ニコチン抜きのタバコ、カフェイン抜きのコーヒー、相手なしのセックス……。そこに崇高なイデオロギーはない。ウィリアム・バトラー・イェイツの詩『再臨』は、われわれの目下の苦境を完璧に表現しているようにみえる。「最良の者たちは、なんの信念もなく、最悪の者たちは、強烈な情熱に満ちている」。これは、こんにちにおける無気力なリベラル派と情熱的な原理主義者との分裂をみごとに描写している。例えば「最良の者たち」は、もはや全身で政治に関与する力をもたないが、「最悪の者たち」は、人種主義的、宗教的、性差別的な狂信的行為に関与する。しかしながら、テロリスト原理主義者は、キリスト教徒にせよイスラム教徒にせよ、本当の意味で原理主義者なのだろうか。彼らは本当に信じているのか。彼らに欠けているのは、チベット仏教徒からアメリカのアーミッシュにいたる、あらゆる真の原理主義者に簡単にみてとれる特徴、すなわち、怨嗟(ルサンチマン)とねたみがないこと、無信仰の人の生活に対してまったく無関心であることである。ここにはヒトラーファシズムコミュニズムの決定的な違いが被って映る。すなわちファシズムレイシズムは外部の敵(ナチにとってのユダヤ人、ネトウヨにとってのアジア人)を必要とし、それらと和解する事がない。彼らは邪悪で内部に入り込んで、享楽を剽窃されると感じるからである。コミュニストの存在はそもそもが弁証法的であり、転向者は誰でもウェルカムできるだけの度量を備えているのだ。

 ジル・ドゥルーズが今際の際にマルクスの本を書いていた事は歴史の大きな潮流を表している。かつてのキリスト教世界では、自堕落に放縦の極みを尽くしていた人が、晩年、神と和解する為に教会へ入るのは普通のことだった。むなしい反抗に全力を尽くしていたが、何が正しいかはずっと前から知っていたのである。リベラル・コミュニストは糞食らえ!共産趣味者もギロチンは嫌がる事は知っている、暴君の血まみれのローブを振り回す様を見て、ただしくコミュニズムに参加する事を期待する。

 

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 PUBGやAPEX、CoD等、シューターゲームの主流はバトルロワイヤルとなったと言っても過言ではない。先に挙げたメジャータイトルだけではなく、多種多様なバトルロワイヤルゲームが雨後の筍の如くリリースされ人気を博している。その中でも最高峰のゲーム性と幅広い層からの支持を得ているのがFortniteだろう。

 そのFortniteをはじめとするシュータージャンルはe-sportsとしてすっかり市民権を得ている事は言うまでもないだろう。大会の賞金は奥単位、Ninja等の人気ストリーマーは凄まじい広告収入を稼いでいる。オリンピックにe-sportsを採用しようという議論の際に、おもしろい意見があった。平和の祭典としての意味合いを持つオリンピックで、戦争の為の道具であるアサルトライフルを撃ち合い敵を倒すゲームをプレイするのはいかがなものか――確かに一理あると感じる。

 戦火が降り注ぐ危険のない安全な場所で、私達は自らの身体を痛めることなく、マウスとキーボードを操作してモニタの中の敵を撃ち殺し、順位を競い合う……。私はFPS愛好者でそれなりにはやり込んできたプレイヤーである為、勿論シュータージャンルの競技性の高さを確信してはいる。スポーツの役割の一つに、それを通しての人格の陶冶を目指すというものがあり、向上心を持ってプレイ出来るなら、e-sportsはそれも十分に満たせるジャンルだと思っている。しかしそれは「最良の者たち」の知的な遊戯、戯れに過ぎないとしたらどうだろう。オリンピックそのものが、欺瞞に溢れたものであるとするならば?

 

 私がバトルボーンというあまり成功しなかったが戦略性に富んで面白いFPSをプレイしていた時の話である。私はTwitter上でプレイしている人をフォローし、武者修行がてらPTを組んで一緒にプレイする事が多かった。しかし何故かバトルボーン界隈みたいなところは、ネトウヨが跋扈していたのである!嫌気が差した私は孤高のバトルボーンとなる事を決心したが、あれは一体どういう事なのだろうか。

 FPSプレイヤーには残念ながらマナーの悪い人が多い事も肌で知っている。敵を圧倒すれば暴言を吐き、圧倒されれば暴言を吐くような人も多い。私もファンメール(暴言メールのこと)がよく飛んでくる。これはLoLなどのMOBAでも同じ事に思える。キッズからスナイパーライフルでタイマンしようぜと言われた事も一度や二度ではない。野球やサッカーのようなスポーツをプレイしている人も、暴言を吐くかどうかは兎も角、人格の陶冶という点では十分でない事も多い。

 

 繰り返すが教育において最悪の危険は、物事のかわりに言葉を教えてしまうことである。シュータージャンルは多くのゲームで自らゴア表現があると認めている。その中でも実際に戦車や航空機を操作したり、衛生兵や工兵として戦争に参加出来るBattlefiledはミリタリーファンからの支持が厚い。若い頃からBFに嵌って兵器や歴史のマニアになったという人も多く見てきた。が、戦闘や歴史を語る上で何か大切な哲学が抜け落ちてはいないだろうかと感じる事が多い。

 

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 最も有名なアニメ監督の一人、富野由悠季は政治的なメッセージを込めて、戦争の酷さや平和の尊さを機動戦士ガンダムなどのSF作品で描いてきた。水島努と名字が同じで混同されがちの水島精二が監督したガンダムOOは、武力による戦争の根絶を目指すソレスタルビーイングが、やがては対話の力で平和を勝ち取るべく闘う物語である。ストーリーはさることながら、L'Arc~en~Cielが歌う主題歌を始め、至るところで反戦や平和への思いが散りばめられている。そのガンダムの愛好家にもネトウヨ冷笑系共産趣味者のような存在がウヨウヨしているのには反吐が出る。皮相なものの見方しかできないのかとブチ切れ金剛しそうになるが、なんとか抑えていよう。彼らにおいてはシニフィエがイデオロギッシュな言語の牢獄において、常に横滑りしているのだ。これは教育の敗北として、われわれは深刻に受け止め改善に務めるべきだろう。

 

 

4章:少女とファルス

 戦車はファルスである、と俗流精神分析理解に囚われた人がよく勘違いをする。

 ファルス――ここではラカン派の意味で扱う。賢明なるめてろぐの皆様にはわざわざ説明するまでもないとは思うが、一応きちんと確かめておこう。ペニスというのが単に生物学的器官という現実的なものであるのに対して、ファルスとは主体の構造の中で固有の意味や機能を持つものだから、想像的、象徴的な分野に属するものだ。

 当然、想像的なファルスと象徴的なファルスを分ける必要があるが、単にファルスと言った場合は象徴的ファルスを指す事が多い。ハイデッガーの否定性やラカン精神分析に慣れない人ややこしい論理ではあるが、象徴的ファルスはファルスのシニフィアンで、それが指すのは想像的ファルスの欠如というネガティヴな事をポジティヴに表すものだ。つまり「ファルスがない」のではなく、「『ファルスがない』がない』というわけである。

 よつばと!のなかで風香が、「何もないんじゃなくて『何もない』があるのよ」と言っていたが、それと同じ論理だ。萌え~~~なアニメにおいては、想像的でもあり、そして象徴的にもファルスは機能する。

 

 少女とミリタリーの親和性が当然として語られるようになったのは、00年代の後半からだったかのように思える。では何がネトウヨおじさん達をミリタリ萌えアニメが惹きつけるのか?

 この話題について、何らかの明証性にこだわる必要があるのなら、あの影像を取り上げよう。言うなれば、欲望を魅惑するものの絶頂を成すように建てられた影像、プラトン的主題からボッティチェリの筆に至るまで同じ形相を以って更新されている影像、すなわち、ヴィーナスの誕生アフロディーテであるヴィーナス、波間から表れ出てきたヴィーナス――彼女の身体は苦い愛の波の上に立っている(精神分析家的な悪癖を発揮するなら、勃起していると表現すべきだろう!)ヴィーナス、あるいはロリータでもいい!

 その影像は何を教えているか?我々はその影像を、フェニヘルの用語を用いるなら、「少女=ファルス」の象徴等式において、同定することが可能だ。ファルスはここにおいて、他の仕方で連接されたはおらず、本来的に言って、同じ仕方で連接されている。我々がファルスを微示的に見るところは、まさに、ファルスが存在しないところである。我々がファルスをヴェールの下に仮定するところは、ファルスが欲望の勃起において顕現するところ――それは鏡の此方側である。

 ファルスがヴィーナスのまばゆい身体において、我々の前に存在するとき、それは、まさに、その下にはファルスは存在しない限りにおいてである、あの形相がリビドー装飾されているのである。

 われわれが先ほど言った意味において、豊かな魅力によって装飾され、それを外から取り囲む多大な本能のうごめきによって装飾されているのに対して、ファルスは、そのリビドー充填と共に、鏡のこちら側に、ナルシスティックな囲いの内部に存在する。それがゆえに、ファルスが存在するところは、ファルスが存在しないところでもあるのだ。リビドーは少女が操作する兵器へ向かっても供給される。

 

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 ゲンロンの『SFの書き方』の本で(内容は濃くはなかった)、最近のSFはポストアポカリプスが多くを占めていると紹介があった。私はSFには明るくないのだが、終末世界的な物語が人気を博しているのは理解しているところだ。なるほど、似非ニーチェ的な多視点主義を経た後の時代のキッズやオッサン達は、すっかりメランコリーに堕ち切っていて、資本主義と闘うこともなく簡単だからという理由で世界の終わりを想像して楽しんでいるのか。佐々木中ふうに言えば、もうすっかり不感症なんじゃないのかなぁ。

 確認です。文学が終わった近代文学が終わった藝術が終わった、と言うばかりか、言うにこと欠いて世界は終わっただの歴史は終わっただの言って、何か言った気になっている可哀想な人たちは後を絶ちませんね。そしてまた、自分の生きている時代が特権的な始まりか終わりであり、自分の生きているあいだに歴史上決定的なことが起こってくれないと困る、という思考の病んだ形態がある。こういう思想は恐ろしく幼稚なものであり、実はもっとも質が悪い終末論なのだということも指摘しました。このような思考のやみきった形態というものが無闇と蔓延している。そんなこと言う人なんて見たこともない、そんな話なんて聞いたこともない、という人の生に平安と歓びあれ。残念ながら批評や思想や文学を称する人々はこういう思考に溺れきっているのですよ。それがどんな驚くべき惨禍をもたらす思考と同型なのかということについても長く語ってきましたね。

 しかし、こういう終わりの思考「現在」において「自分」の生において「すべて」の終わりが「ひとつ」になってほしい、という病んだ思考は、実は彼らが思うようには新しくない。どころか、本当にげんなりするくらい繰り返されているのですよ。有史以来延々とね。もう調べれば調べるほどぞろぞろ芋づる式に出て来て枚挙に暇がないくらいです。

佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』

 な、な、な、な、な。前に冗談で言いましたね。ハリウッド映画でも何でも、世界の存亡を賭けて戦わないと盛り上がれないなんておかしい、不感症だってね。それにロリコン文化が悪魔合体したもので大フィーバーするなんて、醜くないか?(泣)それにもう、(普通に考えて)戦争とは程遠い存在であるべき少女を戦わせて、後ろで見ながらアベの犬になって大喜びって、うっうっうっ。ファルス享楽をな、あかんとは言わん。でも、でもな、限度ってものがあるんや。おたく……恥を知れ……おたく…………。

 

5章:おたく、うっうっうっ(泣)

 最後に、笙野頼子の素晴らしい小説『だいにっほん、おんたこめいわく史』から引用して本稿を終わりとしよう。おんたことは、おたくを訛らせたものだ。

 そうです。こいつらって実は左翼の皮かぶったネオリベなんですわ。

 つまりおんたこがロリかペドかとかそういう話ではないのですわ。要するに独特な意識のあり方こそおんたこだという……。

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』P165

 しかし普段のおんたこは火星人少女に触りながら、例えばブログの知的美少女ガ原キレ子のようなIQが高く哲学書を読んでいる令嬢とチャットしたりするのである。無論ネット内美少女なので非現実的に男好みでどんなマニアックな話題でも付いてきてくれる。そして適当に議論では負けてくれる。権謀術数も機嫌取りも万全である。

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』P192

 おんたこさんはな、お若い頃まだ、選挙に出はる前から、ずっと少女マンガ家や、少女作家に愛のムチを与え続け、不要な少女さんを潰し続けてきた、心のまっすぐな反権力編集者やった。それも左翼で就職がなく、猥褻で牢屋に入れられるような一般のエロ編集者とは違ってな、特別な方やった。「本当の意味の反権力」やったんや。活動歴もなければ拷問の痕もない。政治運動で官憲に引っ張られた事はないお方や。しかし左翼の女性差別をいつもあの方は糾弾してきたのや、さぞかし一般左翼に劣等感があったのやろうな、おっと(失言)

 ぶるぶるぶるぶる。

 つまりな、真の左翼なんや、全部の派閥からええとこだけ集めたような、しかも全部の派閥をののしり倒せるような一匹狼で捨て身の、それはそれは筋の通ったお方やという事や。

 だからこそ女性差別をやめたかったんや。な、女性というのは差別と権力の象徴や、だってな、嫁とかおかんよりあこぎなものはないやろ。女性はな、バブルの頃見てみ、「ニュー○ータニの夜景とシャンパン」やぞ、しかしな反権力の方はな「トリプルアイスと道玄坂、そして」、え、「そんなことはない」て、女子高生高いン万円」やて、ああマスコミにだまされてー、そんなの、払わなかったらいいんや。もし払わされたらな、ビデオ撮って売ってしまえば元が取れる。どうや、少女は反権力やろ、まさに男女平等の共闘に値するな。

 な、な、な、な、な。

 だからその女性になる前の少女の、やね、(さすがに上司赤面)。少女の側の経済的危機の問題を「まるでわが身の事のように心配して」考えて、少女やぼくらやにっほんの、全員の全部の、身が立つようにしてくださったのが、アメノタコグルメ先生だす。

 結構な事やないか、な、な、な、な、な。おんたこさんはそうして少女さんに厳しくしてな、その結果潰れず生き残ったものにしか出来ん、外貨獲得の出来る「清楚」な少女さんマンガ、「近代文学」な少女さんノベルを拵える事が出来たのやから。

 

 ええか、少女さんマンガやぞ、決してロリコンマンガとはもう言うてはならん。

 女の読むくだらん少女マンガをきちんと指導してな、立派な少女さんマンガだけにしたのがおんたこさんたちと名誉少女先生方の功績じゃ。

 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』P150,151

 ようするにな、な、な、な、な。

 ロリコンアニメ好きのな、ミリタリおたくっていうのはな、大抵がな、左翼やら右翼の皮被ったネオリベなんですわ(爆)高邁な思想なんて持ち合わせてないんや。百合の男おたくとかもそうかもな(核爆)ちょっとエッチなワードと一緒に(流石にめてお赤面)ガルパンのイラストとか同人誌を探してみ。もう腐るほど出てくるから。少女をズリネタにしながらな、戦車の描写がどうとか言って、女性蔑視の安倍政権を礼賛したり、マルクス主義抜きの共産趣味やったりしてんねん。童貞ちんぽこ先生がな、歴史を学びながらイデオロギーの檻に囚われてんねん。ここまで厚顔無恥なこともないわな。まぁあんまめておはミリタリ興味ないがな、FPSやってるとそういう蛆虫がどこもかしこも溢れてやがってな、ムカつくねんな(#^ω^)

 

 例えばお尻マニアの雑誌は一万部売れるという、しかしそれはただの欲望である。自己都合で売れる一万部が、そのまま思想支援の一万人にはならないだろう。無論、お尻の思想というものがあってそのために死ぬ人はいるかもしれない。だがそのような人が切実にお尻を擁護する理論構築をしたとしても、そこに普遍性は宿るであろうか。無論、もし普遍性が宿るとしたならばそれは公共的文化ということになるのであるが。 しかしその場合は他者の想像力に訴え、緊張感のあるグローバルな視点を持たなくてはいけないのだし。つまりは、お尻の公共性である。

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』P62

 市場原理は個人より大きい、しかしでは個人の命や私有や精神よりも大事なのか、ここを曖昧にしてくるのがおんたこである。「公共の福祉」という言葉は権力しょった上で、叩かれまくりながら使う言葉ですよ。それなのに大きいという事を公共と言ってくる。既に個人の利益追求の範疇を越えた、消費のいきおいや怪物的経済を大衆の総意と称してくる。対抗思想としての左翼がどれも見えにくい世である故、それは一党独裁で、雰囲気だけでで、しかも誰も支持していなくても、世にはびこる。

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』P212

 もう私の言いたいことも大体伝わっただろう。

 

 ロリコンロリコン子供をだーしに

 ロリコンロリコン商売はんじょう

 らりるれらりるれろーりこーん、みたこのて、き、だー。

(『だいにっほん、おんたこめいわく史』75ページ、「ロリコンアワー」歌詞)