【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

京アニを燃やした人々 非合法武装組織の潜在的シンパ、投票に行かない人たちPart1

 めておはこにゃばちにんこ!めておちゃんねるのめておだよ!

 暫くまともに文章を書いていないので、たまにはゆるい記事でリハビリを。

 今回はピケティだのサンデルだのノア・ハラリのような最新の誰もが読んでるヤツを下敷きに、難解なラカン理論は控えめに書いている為、誰もが楽しく読める筈だ。本稿は5章構成になっているメテよ!

 

序章:選挙に行かない終わりの人たち

1章:終わりなき闘争

2章:構造の中で迫りくる絶望

3章:暴力の背後にあるもの

終章:京アニを燃やした人たち――諦めの常態化に抗って

 

 さて、投票権をお持ちの大人の皆様は、選挙には行っているだろうか?確かエンゲルスがどこかで言っていたと思うが、普通選挙は最も革新的な革命の手段である。その重要性は、賢明なるめておぶろぐの読者の皆様方はよく承知されていることだろう。

 しかし普段は投票に行こうと口酸っぱく言っている私だが、二十歳を過ぎた頃は政治がよく分からず、親に言われてしぶしぶと投票場へ行き、旧2chで得た薄っぺらな知識で何となく票を入れたものだ。学生時代は投票を棄権した事も何回かある。今思えば非常に勿体ない、己の未熟さを恥ずべき過去として烙印となっている。

 

 さて、正直な話、私は投票に行かない層をやや軽蔑している。彼らはどういった性質の人間か?と問われれば――「非合法武装組織の潜在的シンパ」と答えるだろう。学生時代の、投票大事だとは思うけどよく分からんし面倒くさ~と思っていた頃の自分がそう言われれば、ハハハと笑って少し考えてから、「そうだね」と同意するに違いない。

 ちなみに「投票に行かない層は非合法武装組織の潜在的シンパ」というフレーズはNKZT先生がTwitterで呟いていた(うろ覚え)ものだが、何年も前のツイートであるゆえ探し出す事が出来なかった。ごめりんご。

 本稿は投票という政治的行為を通して、実存というものに接近する記事である。

 そしてあの素晴らしい京都アニメーションのアニメーターを燃やし殺害したのは、青葉真司なのか?という事を考えていきたい。いいや、京アニの事件だけではない、世に蔓延る暴力が、一体誰によって行われているのか?という事についてさっくりと語ろうと思う。

 

序章:選挙に行かない終わりの人たち

 選挙に行かない人間について、端的に解説された記事がある。先ずはこれを読んで貰いたい。数分でサクっと読めるだろう。

blogos.com

 この記事は彼氏がいる女性向けに書かれてはいるが、彼女がいる彼氏と、または同性愛者へと転換させても成り立つ。というよりも、選挙に行かない人間に時間を割いて一緒にいる、という事がどういう事態を招くかを分かりやすく伝えてくれる。

 記事の結論部分を引用しよう。

 さて、若いうちから選挙に行かないとか言っている男とは別れたほうが良い、ということは分かってもらえたかな。
最後に言いたい。選挙を放棄するということは、君にも君たちの子どもの将来にも、本気では関心ないよ、ということと一緒なんだ。

  選挙を放棄する人間は、要はニヒリストなのだろうか?選挙権というものが数多の屍や犠牲の上に成り立っている人権だという事を理解しているのだろうか?

 

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総務省のWEBページより

 年々投票率は低下の一途だ。特に若年層の投票率はひどいものである。

 先程紹介したブログの言葉を私なりに要約すれば、選挙に行かない人間は、怠惰で家族サービスもせず、小学5年生レヴェルの読解力もなく、分からない事を調べもせず、インターネットのリテラシーにも欠けていて、成人している癖に斜に構えているのがカッコイイと思っている、近視眼的で人をほんとうには愛する事ができない人間だ。

 いささか極端になったが、私は大きく間違ってはいないと感じる。

 つまり、若い世代に顕著だが……日本人全体が劣化しているというのだ。

 更に引用。

社会の将来について考えられないやつは、君との将来も本当の意味では考えられない。

だって日本がズタボロになっていって誰よりも損するのは、君と君の彼氏の間に生まれる、愛する子ども達なんだもの。

 社会がどうなってもいい。将来産まれてくる子供たちへの教育や医療など、どうでもいい。自分の目先の事が優先。そう考えているという事は確かだ。

 

 そういえば、そんな劣化した人間が跳梁跋扈する社会を、口沫を飛ばしながら激しく批難している左翼ジジイがいたような...?

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 UTDTTR先生!?

 

blog.tatsuru.com

 思想家・武術家である内田樹はこの社会を『サル化する社会』と称し、それをタイトルにした単行本を最近出版してAmazonのベストセラー1位を掻っ攫った。

 内田のWEBページから、彼の主張するサル化について引用し紹介しよう。

 私見によれば、ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである
 個人的な定義だから「それは違う」と口を尖らす人がいるかも知れないけれど、別にみなさんにこの意味で使ってくれと言っているわけではない。
「今さえよければいい」というのは時間意識の縮減のことである。平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。
 春秋時代の宋に狙公という人がいて、サルを飼っていた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌していたが、手元不如意になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、夕に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
 このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けていると、いつか大変なことになる」と分かっていながら、「大変なこと」が起きた後の未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。

 サル化する世界 2019-05-27 lundi

 どう読んでも現政権に関する批判と読めるてしまう言説ではあるが、彼のポピュリズムに関する理解に関しては概ね同意だ。投票率やその他諸々のデータからいっても、ポピュリズムの旋風が巻き起こるこの社会は、若者から老人まで彼の言う「サル化」している幼稚な社会というのは認めざるを得ないだろう。かつての社会が成熟していたかどうか、に関しては何も言うまいが。

 

 まず一つ私の見解を述べておくと、内田の言う「サル化」という表現はふさわしくないと考える。パスカル風にいえば、人間はサルにはなれないほどに狂っており、狂っていないとすればまた別の仕方で狂っている動物だ。東浩紀のお陰でスティグマと化した感のあるヘーゲルの「動物化」という言葉もふさわしくない。

 確かに、問題に対して本気で関心を寄せずに、シニカルに冷笑を浴びせる人間やノンポリネット右翼や似非リベラルに対して「このサルが!」と罵声を浴びせたくなる気持ちは、分からなくもない。

 私も対戦型FPSをプレイしている時、全くルールを理解せずにゲームに参加するプレイヤーに対して、内心「このアホ!サル!」と穏やかでなくなる事もある。リベラルだって、左翼だって、差別心とか活人の誉はあるさ。人間だもの。

 

www.nicovideo.jp

 

 さて、何度も繰り返し話題に上げるが、フランシス・フクヤマが冷戦終結時に出した『歴史の終わり』で、彼はリベラル民主主義の勝利という歴史の終焉に現れる「最後の人」、悲観的な人々の末路をニーチェの「末人」の概念を借りながら、「リベラル民主主義は、胸郭のない人間、すなわち欲望と理性だけでつくられていて気概に欠けた人間、長期的な私利私欲の打算を通じてくだらない要求を次々に満たす事にかけては目端の利く人間を産み落としたのだ」と述べている。

 911フクヤマのヴィジョンは粉々に粉砕された。今や資本主義と民主主義の幸せな結婚がまだ続いていると思い込んでいる者はもういないだろう。しかし、それでも、終わりの人間は現れた。

 ヘーゲルによれば、歴史とは、異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史である。したがって、そのような闘争が終われば、歴史は終わる。しかしいまだに歴史は終わっていない。闘争は終わっていない、何も終わらない。

 コジェーヴヘーゲル論の小さな註で語られた「日本的スノビズム」については多くの説明は不要かと思うが、最低限コンテクストを確認しておこう。ちなみに余談だがフクヤマヘーゲル理解はコジェーヴヘーゲルであり、歴史は自由主義の勝利をもって終わったという何度も葬られたフクヤマのかつての主張は、実のところ、コジェーヴが既に展開していたものである。フクヤマコジェーヴに学んだ師のアラン・ブルームを経由してそれを継承したのだとも言えるだろう。

 人間が投企によって世界を変形していく作業が終わったとき、つまり歴史の完了の後の人間はどんな存在となるか?コジェーヴはそれを一旦は完全に機能化、合理化された「アメリカ的=資本主義的な生活様式」に見いだす。ところが50年代終わりに日本を旅行して彼は考えを変えた。生にいかなる意味も付与せず、全く意味を欠いた死(自殺、切腹、特攻)を受け入れ、かつ内容を欠いた純粋な「形式」(茶道、華道、能……)と戯れつづけることのできる人間以後の人間を彼は「日本」に見いだしたのである。

 ブラック労働を是とし、批判や検討を欠いたドグマ的な伝統への執着、弱者への思いやりの欠落、うわっぺらの礼儀作法... 終わりの人間の始まりは、ずっと昔から芽吹いてたのかもしれない。

  2009年6月のヨーロッパの選挙では有権者がこぞって、ネオコン新保守主義)リベラルの政治を支持した。いまなお続く危機をもたらした、まさにその政治をだ。日本でも今だに安倍政権は支持されている。官製相場と消費税増で日本を貧しくし、国土を売り渡すどころか平気で手放し、基本的人権を亡き者にしようとしているにも関わらず、だ。日本が嫌いな反日勢力にとって、最高の時代の到来に笑いが止まらないことだろう。まったく、人民が自分の首を絞めると分かっている時に直接の弾圧など無用ではないか。

 

 ここではあえて世界を覆うポピュリズムの波と、それに翻弄される人々の動きは扱わない。言及すると大変長くなるからだ。しかし、ポピュリズムに関して私なりの定義を付ける必要はある。

 ニーチェ哲学の用語を借りていうと、真にラディカルな解放をめざす政治とポピュリズムの政治との決定的な違いは、前者が「能動的」で、そのヴィジョンを押しつけるのに対し、ポピュリズムは基本が「反動的」で、不穏な侵入者への反応に由来する。すなわちポピュリズムは、邪悪な外的要因への恐れをかき立てることで民衆を動かす、恐怖政治の一バージョンに過ぎない。

 

 いわば、ポピュリズムとは何かに対する恐怖を駆動源とするものなのだ。「何がなんだか分からないけど、耐えられない!もう、なんとかして!」というヒステリックな叫びを喰らい繁殖する得体の知れないモンスターである。

 では一体人々は何を恐れているのだろうか?人間を終わりの人にする力とは何か?

 ここではジジェクの、黒澤明羅生門』に対する明晰な分析を引いて説明し、序章を終わりにすることにしよう。

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 先ず『羅生門』のあらすじであるが、恥知らずにもWikipediaから引用する。

  芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある変死事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。

  ではジジェクお得意のラカン精神分析を駆使した映画の分析に移ろう。

 四つの目撃談は、同じ神話(レヴィ=ストロース的な意味での)四つのヴァージョンと、つまりさまざまなヴァージョンを含む完全な母型と、見なすべきである。最初のヴァージョン(盗賊の話)では、盗賊は武士の妻をレイプし、然る後に正当な決闘で彼女の夫を殺す。第二のヴァージョン(生き残った妻の話)では、レイプの最中に、武士の妻は盗賊の強引なセックスの情熱の虜になり、結局、二人の男に自分の恥辱を知られてしまった以上、どちらかに死んでもらわねば恥ずかしくて生きていくことはできない、と盗賊に告げ、そのために決闘がおこなわれる。第三のヴァージョン(死んだ夫の亡霊が語る話)では、盗賊に縄をほどいてもらった武士は、恥辱から自殺する。最後のヴァージョン、すなわち近くの茂みで出来事を目撃していた木こりの話では、レイプの後、盗賊が夫を縛っていた縄をほどくと、夫は怒り、妻を恥知らずの売女と罵る。妻は怒りと恍惚から、両方の男に対して怒りを爆発させ、二人とも弱虫だと言い、私のために決闘しろと言う。この四つの目撃談が語られる順番には意味がある。それらは同じレベルで進行するわけではない。順番に目撃談が語られるに従って、男の権威が少しずつ弱まっていき、それと併行して女の欲望が全面に出てくる。著者が日本に行ったときに聞いたのだが、バックシャンとは「後ろから見たときには、美しいのではないかという期待を抱かせるが、、前から見るとそうではない女性」のことだそうだ。『羅生門』では、この言葉と同じようなことがおきているのではなかろうか。最後の(木こりの)目撃談が特権的な位置を占めるのは、それが「本当に起きたこと」を語っているからではなく、四つの目撃談すべてをつないでいる内在的構造において、この木こりの目撃談が外傷的な点として昨日しているからである。他の三つはそれに対する防衛、防衛形成として捉えるべきである。

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』

  本題はここからである。長くなるが読むに値する分析だ。

 この映画の「公的」メッセージは明快だ。映画の冒頭、それに続くフラッシュバックの外枠となる会話の中で、僧が、ここで語られる出来事は今の時代に蔓延している飢え、戦、混沌よりも恐ろしいと指摘する。一体どこがそんなに恐ろしいのだろうか。それは社会的絆の崩壊である。人びとが頼れる〈大文字の他者〉の不在、つまり信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約がなくなってしまうことだ。したがってこの映画は、無数の物語の背後に究極の明確な現実があるわけではないということについての存在論的ゲームに興じているわけではない。むしろこの映画は、社会阻止指揮を維持している基本的な象徴的契約の崩壊がもたらす、社会的・倫理的帰結について語っているのである。しかも、異なる視点から語られるこの物語は、それ以上のことを語っている。それは〈大文字の他者〉に対する最大の脅威はどこにあるのか、すなわち、男性的な契約を不安定にし、男の視界の明晰性を曇らせて、女に、つまり女の欲望に変えてしまう。究極の原因はどこにあるのかについて語っている。すでにニーチェが語ったように、真理は、首尾一貫していないという点で、また無数のヴェールの下に究極の基準がないという点で、女性的である。男性的な戦士の暴力の下には、それよりもはるかに暴力的で不気味な女性の欲望が潜んでいるのである。

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』

 ここで用いられている男性と女性を、生物学的なものとして捉えてはならない。ラカン派に明るくない人は面食らうだろうが、彼らは言葉の使い方がちょっとヘンなのだ。いわば、男性的なものとは、ソポクレスの悲劇に出てくるクレオンに象徴され、女性的なものとは既存の権力を撹乱するアンティゴネの如き革命的なものだ。

 人びとが選挙に行かない理由の一つとして、現在社会に対する無力感がある。将来を保証してくれる社会的靭帯、象徴的な契約はすっかり崩壊してしまった。現在日本では暴力やテロルは驚異的なまでに少なく、『羅生門』で語られるような飢え、戦、混沌など無縁であるにも関わらず、人々は病に侵されている。

 

1章:終わりなき闘争

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 アルフォンソ・キュアロンの映画『トゥモロー・ワールド』のとある重要なシーンで、セオが今や政府省庁でありながら私的な蒐集室ともなったバターシー発電所に友人を訪れる。改修され建物自体も文化遺産ともなった発電所には、ミケランジェロダビデ像ピカソゲルニカピンク・フロイドのブタの風船といった様々な文化遺産が保管されている。ここは、集団的不妊をもたらした災禍の結果から立てこもるように暮らすエリートたちの姿を垣間見ることが可能な唯一の場面だ。この一世代、子供がまったく産まれていないのだ。

 「誰も見に来る人々がいなくなったら、これらすべてに何の意味がある?」とセオは尋ねる。次世代に伝える為だというアリバイは、ここではもう通用しない。次世代はもう来ないのだから。「それについては考えないようにしているよ」。ニヒリズム的な快楽主義がその答えであった。ここで描かれるディストピア特異点は、それが後期資本主義の特性を捉えているということだ。

 

 暫くは分かりきった退屈な話になるだろうが、改めて説明させて頂く。

 あらゆるものが否が応でも時代の手による刻印と制約を受けるものだ。鉄腕アトムの原動力は原子力という設定だが、もしも今鉄腕アトムがこの世に産声を上げていたとすれば、その原動力は全く違ったものになるだろう。 反物質かもしれないし、もっとクリーンな最新鋭のエネルギーかも知れない。人間の狂気、精神、内的宇宙を扱う精神分析家にとって大切な事は時代精神を理解する事だとラカンは述べた。人間の精神の運動は、弁証法唯物論など引き合いにだすべくもなく歴史に規定されるのだ。

 

 再びニーチェに登場して貰おう。哲学に全く明るくない者でもこの言葉は必ず耳にした事があるだろう――「神は死んだ」。

 非常に大雑把な話をすれば、キリスト教的な価値観は崩れ、大文字の神の首にギロチンがかけられた。それまでの象徴的な秩序、ラカンの用語でいえば「大文字の他者」が崩壊したという訳である。ラカン理論では宗教の失墜を、更に一般化して射程に入れる事が可能だが、今回は精神分析的な言説は必要最低限に留める。

 岩内章太郎の視点を借り、ここでは近代以前を「信仰の時代」、近代を「自由の時代」、そしてポストモダンを「ニヒリズムの時代」として規定してみよう。有名な一節だが、ポモを「大きな物語」が失われた時代と特徴づけたリオタールの言葉を引用する。

極度の単純化を畏れずに言えば、《ポスト・モダン》とは、まずなによりも、こうしたメタ物語に対する不信感だと言えるだろう。[…]物語昨日は、真なる物語を構成する関係の諸要素――すなわち偉大な主人公、重大な危機、華々しい巡歴、崇高な目標――を失いつつある。

 ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件――知・社会・言語ゲーム

 意味の無意味化の経験が、ニヒリズムの問題事象である。つまり、意味があってやがてそれが失われること。事実と真実を区別するとすれば、前者は単なる現実にあった出来事そのままであるもの対して、後者はある象徴的な力の作用の検閲を受けて出てくるのだ。もはや絶対的な真実など何処にもない。真実はカフェテリアで販売されているパンやコーヒーのように自由自在に選べて、誰も彼もがそうしているという訳だ。

 例えば、天皇制と大東亜共栄圏があって敗戦があり、マルクス主義があってやがて学生運動の熱が冷めソ連も崩壊したこと、大きな物語がやがて失墜したこと。

 しかし岩内はニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する、と指摘している。何らかの強い意味があってそれが無化される(あるいは、それを積極的に無化)のではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態――ここでは彼に倣い「メランコリー」と称する。ニヒリズムは常に無化すべき意味を必要とするが、その意味すら見つからないのだとすれば、それは「欲望の挫折」(=ニヒリズム)ではなく、「欲望の不活性」(=メランコリー)を体験していることになる。

 ポストモダンの世代は、大きな物語が崩壊していくのをリアルタイムに生きた世代であるが、めてお達――「大きな物語」が崩壊してしまった後の世界に産まれた者たちは「メランコリーの時代」を生きているのではないだろうか。トランプが大統領となりポスト・トゥルーズの時代が到来した。インターネットすら非民主主義的な場所となった。至るところでフェイク・ニュースの流言飛語の嵐が吹いている。

 サンダース旋風なども盛り上がってはいるが、左派と言われる人物達もポピュリズムに堕し(例えば立憲民主党やれいわ新選組、その支持者を見よ)、ますます我々はグローバル資本主義が嘯くポスト・イデオロギーの世界に安住してしまっているように思える。

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 フーコーデリダドゥルーズといったポストモダン思想の論客は、近代哲学を暗黙の内に貫いていたドグマを告発した。すなわち、理性、主体、意識、真理、普遍性、本質、同一性といった近代的概念の背後にある自己中心性、暴力性、制度姓、硬直性を暴露したわけである。

 デカルトの「コギト」は存在せず、そんなものは人間にとって有害であるとすらポストモダン思想は告発した。フーコーの「エピステーメー」、ドゥルーズの「反復」、デリダの「差延」といった概念は総じて「認識と知の相対化の原理」として提出された。一言で言えば、彼らの関心は「絶対的なドグマ」を拒否することに注がれていた。

 悲劇的なことに、世の人々は皮相浅薄な読みに耽溺し、彼らの思想を捉えそこねてしまった。例えば、本邦におけるドゥルーズ=ガタリのブームが、どのように”消費”されたか。D=Gのスキゾ的な哲学が、資本主義の肯定――ラカンのテーゼの非常に杜撰な理解のクリシェ「汝の欲望を諦めるな」の誤読、バブル的な大量消費への享楽に回収されてしまった事を、知らぬ読者の皆様ではないだろう。

 ポストモダン思想の同期と仕事は、「暴力に対抗する哲学」という像を提示したが、彼らの方法が相対主義だったことは大きな課題として残されてしまった。

 というのも、相対主義は結局のところ、力の論理を帰結することになりかねないからだ。例えば日本での若者たちは、非常にお行儀がいい。規定のルールから逸脱しない。逸脱してもそれは「安全」な仕方での逸脱――ラカンの用語で言えば対象aと剰余享楽に搾取された手垢の欲望機械に支配されている。「お上」に逆らうという事など想像もしない、いやできない。資本主義の血塗られた平和に安住している。それは新しい形態の象徴的「力」の前に屈服しているからだろう。

 

 昔の記事でも引用したが(わたてん!)、佐々木中の名文を再び引用する。

もういいだろう。対象aと剰余享楽が、享楽を吸引し調整しているかぎり、世界は「ほぼ」平和なのだ。それがどんなに紛争や汚職や搾取に塗れた世界であっても。ラカン理論に通暁した社会学者たちは言う、資本主義は、「性的関係はない」という「不可能」な穴を中心に、永久に欲動を回転させつづけるのだと。そう、彼らがそう口にすることは、この世界の享楽を肯定することになるのだ。権力を求めるのもいい。金を求めるのもいい。異性に、あるいは同性に狂うのもいい。品のよい衣服に身を包み、ギャンブルや株に打ち興じるのもいい。たまには麻薬を嗜むのみいし、ちょっとしたサディズムマゾヒズムに身を浸すのもいいだろう。それはとても楽しいことだ。

佐々木中『夜戦と永遠』

 

 自殺したマーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』のなかで、フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」という警句を引いている。

 ブリューノ・ラトゥールの「アクターネットワーク理論」が好んで描き出すように、あらゆるものが他のすべてのものをつながりあい、程度に違いはあれど相互に影響を及ぼしあっていて、良い出来事も悪い出来事も事実上予測不可能な仕方でどこか別のところへ波及していく可能性をもっている。人間と世界との対照的関係の基礎は掘り崩され、非対称的な、ひとつの視点からは全体をけっして見渡すことの出来ないネットワークが代わりに浮上してくる。

wired.jp

 例えばスマートフォンの世界的普及はレアメタルの使用や膨大な電力消費、低賃金で搾取される労働者その他によって、環境や人類に深刻なダメージを与えているように思われる。だが実際にはラジオや新聞などの既存メディアの維持に必要とされていた諸々の物質資源の消費軽減にも貢献していて、全体としてはそれほどの脅威ではないというのだ!

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 最近ではグレタ・トゥンベリという若きスターの登場によって、エコロジーについての議論が活発になっている。日本の話に立ち返ろう。例えば東京、首都圏は途方もない程に人間が密集し、汚い街というイメージがあるし、都市ガスなどによる環境汚染を批難する言説はよく耳にする。実際に新宿などのちょっとした路地に入ってみれば、ごみだらけでネズミなどもウヨウヨしている。

 だがその実、東京は日本の環境全体を美化する為には重要な役割を担ったエコの為の街であるという、一見受け入れがたい事実をラディカルなエコロジストは言う。それは一体どういう理由でか?人間が住む場所が散らばれば、インフラの整備などによって環境は広範囲に破壊される。が、狭い地域に人々が密集し、奴隷輸送船のような満員電車で職場へ通勤し、高い地価代と家賃を払ってウサギ小屋のような狭い家に住む……。ある意味ミニマリズムとでも称せるような、環境へ配慮された生活スタイルを日本の都会人たちは実践している訳だ。

 東側諸国で共産主義の理念が悲惨な結果を巻き起こしたように、良かれと思って為した事が悪を為し、悪しき行為が善を為す……と言えば陳腐だが、状況が余りにも複雑化しているのだ。再び環境問題で論じるとすれば、再生可能エネルギーの代表格である風力発電は、低周波数の騒音を生じたり野鳥など周囲の生態系に悪影響を及ぼす関係で、近年その施設を海洋上に移す動きを魅せており、しかしそれが別種の環境破壊を誘発する可能性や維持コスト増大の点で懸念を持たれているといった話もある。

 もっと庶民的で身近な話をすれば、コンビニエンスストアが至る所に出来た今では、我々はいつでも必要なものを購入する事が出来るし、公共料金や通販の支払いも簡単に可能だ。しかしセブンイレブン等のフランチャイズオーナーの労働問題に代表されるように、低賃金のブラック労働者を多く生み出している。コンビニの時給は大抵は最低賃金に近く、地方のコンビニでは800円程度で奴隷労働をしている労働者もいるのだ。労働力の安売りが当然のように行われており、誰も彼もが疑問にすら思っていない。労働ダンピング、雇用の多様化の果てに、人間の労働が商品以上に買い叩かれる。

 無職や生活保護を叩く労働者は、今では日常茶飯事として観察する事が出来る。低賃金で働く方が日本経済にとって余程大きな脅威であり癌であるというのに?しかも社会人などという、訳のわからない言葉が平気で使われている。幼稚園児であろうがホームレスであろうが社会に生きている。社会人でない人間がいるだろうか?ジョルジュ・アガンベンの用語「ホモ・サケル」の事を言っているのだろうか?日本はほぼ難民を受けれいてすらいないのに?イロニーを表現してみたが、「社会人」という普遍的に思考すれば価値のない言葉が濫用されているのは、資本の増殖を目的とするイデオロギーに人々が洗脳されている証左だ。彼ら彼女らは素朴にこの言葉を使うが、素朴な思考や言葉遣いこどイデオロギーが最も色濃く発揮されるのである。

 

 資本主義が唯一の存続可能な政治、経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延している。これをマーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」と称した。

 そんな世界の中であればそうであっても自然ではないのか――「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」のは。WW3でも想像してみれば済む事だ。いかなる兵器が使われるか、想像の上を行くだろうが、人類が壊滅的な被害を受け、我々お馴染みの世界が終わることだけは確かだろう。

 

 現在のSF小説では、ポスト・アポカリプスものが多く出版されて人気を博している。おたく向けのまんがでもチトとユーリ二人の少女が崩壊した世界を旅する『少女終末旅行』のような作品は凄まじい支持を受けている。

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 今この時代でユートピアのヴィジョンを描く事が難しいからこそ、人類の崩壊、あるいは社会の崩壊後を描いた作品――Falloutのような舞台が支持されるのではないか。かつてのディストピア映画や小説は、想像力を駆使するための修練の場だった。そこで描かれる災難は、異なる生き方を発見するための物語の口実だったが――冒頭で紹介した『トゥモロー・ワールド』のような作品が映し出す世界は、私達の世界に対置される代替物ではなく、むしろ、それが発展したもの、あるいは悪化したもののように思われる。

 

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 ここでは劉慈欣の傑作SF小説『三体』を読んでいこう。あらすじは各自Wikipediaでも見て欲しい。この小説の最も興味深い特徴は、地球と三体星との対立が、儒教において伝統的に考えられてきた宇宙秩序の原理としての天と、毛沢東の賛美する無秩序状態の天との対立に重なっていることである。三体星における無秩序な生活――そこでは季節のリズムが乱れいる。それは文化大革命という混沌を自然界において表現したものではないか。「物理学は存在しない」(=一定の自然法則は存在しない!)という恐ろしい、小説において多くの科学者を自殺に追い込む洞察は、ラカンの言葉で言えば、大きな〈他者〉は存在しないという認識ではないか。今日の中国に蔓延するイデオロギー的混迷の大本にあるのは、天という秩序と天における無秩序とのあいだのこうした緊張関係である。

 中国震撼でなどで知られるジュネーブ外交国際関係大学院の張維為は、社会の有機体的な調和という儒教概念をこう説明している。

 中国文化においては、ひとは生まれながらにして息子、娘、父、母、同僚といった社会的役割を有する。そして権利と義務はつねに連関している。中国の人道的文化によって、個人を基盤にした西洋人の人権概念は充実したものになる――わたしは心底そう思っている。

張維為『China Wave, The: Rise Of A Civilizational State』

  この二項対立はごまかしである。あらゆる人が自分の役割を果たす「調和した」ヒエラルキー社会と対立するのは、制限なき個人主義だけではなく、平等主義的社会でもある。儒教の英知と西洋の個人主義的民主主義(それは既に日本に輸入された)との対立の下では、それとは別の争いが進行している。それは儒教と法家の説との対立である。儒教者にとって、国は伝統が守られなかったために混沌に陥る。旧来の慣習を捨て集権的に統制された軍隊組織をもつ泰のような国家は、道をあやまるものの具体例をみなされた。泰のような国を平和への脅威へと見做したこうした考え方とは対象的に、法家の大成者、韓非子は「考えられない説を提示した。すなわち、泰による統治はおそらく、対処すべき異常事態ではなく、見習うべき実践である、と」。

 解決は、問題のように見えたもののなかにあった。すなわち、トラブルの真の原因は古い伝統を捨てたことにではなく、そうした伝統そのものにあった。この伝統が社会生活の指針となる原理にはなれないことは、日頃から分かっていたのである。ヘーゲルが『精神現象学』の序文で述べたように、我々が状況を評価しそれを問題とみなす際に用いる基準こそ問題の一部であり、捨てるべきものなのだ。

 忘れてはならないのが、フクヤマがあの主張をしたとき、歴史がその「終焉」に至ったという考えは必ずしも勝利者の立場から発せられるものではなかった、ということだ。彼が思い描いた「輝く都市」はいずれ亡霊に取り憑かれることになるだろう、とフクヤマは警告したのだが、彼の想定した亡霊はマルクス的なものではなく、ニーチェ的なものだった。

 ニーチェは、彼のもっとも予見的な文章の中で、「歴史の過剰によって飽和する時代」を描いている。「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に落ち良いR、そこからしてより一層危険な冷笑主義的気分にはまり込む」と彼は『反時代的考察』で述べたのだが、そこでは従事や関与は国際はかぶれの物好き、そして超然とした傍観主義によって置き換えられる。すべてを知っていながらも、まさに己の意識の過剰によって堕落し弱体化される、ニーチェのいう「最後の人間」――終わりの人とはこういう状態のことだ。

 

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  我々は皆時代に規定されている。構造に規定され主体は構造を学習し適合し自らを再生産する。M・ガブリエル曰く「世界史の針が巻き戻る時代」である。フーコー的に言えば「規律権力」、ブルデュー的に言えば「ハビトゥス」に、マルクス以来、おそらく最も印象深い資本主義論を展開したドゥルーズ=ガタリの言説では、資本主義は、従来の社会制度すべてに付き纏ってきた闇の潜在力として描かれている。彼らによれば、資本は「名付けようのない物体」、原始社会や封建社会などが「予め悪魔祓いしてきた」醜態であり、それに支配されている。倫理などここに残されているだろうか。我々人間に自由意志、主体があるのだろうか?コギトなどただの幻想に過ぎないのだろうか?

 息苦しい偽りの相対主義グローバル資本主義に支配されている。全体を包摂する統一法則などない。だとしても――我らが後生大事に抱えてきたドイツ観念論に新しい息吹を吹き込み蘇らせた若き英雄、ガブリエルは極端な思弁には走らない。多くの若者のように「世の中そうなっているから、それに従うよ」「どうせ何も変わらない」と一切のものは無意味だと、似非ニーチェ的な多視点主義に落ち込み「絶望」することもない。何らかの絶対者に対する安易な「希望」を頂く事もない。

 その意味で、ガブリエルの提唱する"New Realism"は、伝統的形而上学構築主義ポストモダン思想)を調停する「新しい実在論」である。 

 現代哲学で最も重要な三人――ウィトゲンシュタインハイデッガードゥルーズ、それにバディウを加えて四騎士としてもいいが、その後の思想を担う新たな地平を切り開く事を、私はガブリエルに期待している、とだけ言っておこう。

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 道が逸れた。私はガブリエルほど悠長ではないし、彼は反共産主義者である。ここでお口直しに、マルクスとエンゲルの言葉を引用しよいう。

(資本は)敬虔な法悦、騎士の情熱、町人の哀愁といった清らかな慄きを、利己的打算という氷のように冷たい水のなかに沈めた。個人の尊厳を交換価値に貶め、お墨付きを得て既得権となっていた無数の自由を、ただ一つの、非常な商業の自由に置き換えた。一言でいえば、[…]宗教的、政治的な幻影で覆われていた搾取を、あからさまな、恥知らずな、直接的な、ぶしつけな搾取に置き換えたのである。

 K・マルクス F・エンゲルス共産党宣言

 資本主義とは、様々な信仰が儀礼的、象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもう、その廃墟と残骸の間を彷徨う消費者(=鑑賞者)しかいない。

 しかし、信仰から美学へ、そして参与から鑑賞へのこの転換は、資本主義リアリズムの美徳のひとつとされている。アラン・バディウの言葉で述べるなら、「過去のイデオロギー」によって引き起こされる「宿命的な抽象観念」から私たちを解放したと主張する資本主義リアリズムは、「信じる」ということ自体の危険性から私たちを守る「盾」のように振る舞おうとする。ポストモダン資本主義に固有のアイロニカルな距離感は、私たちに原理主義の誘惑に対する免疫力をつけてくれるものだとすら言う!

 「私たちは矛盾のなかに生きている」と、バディウは次のように考察していく。

  あらゆる存在が金銭的観点のみによって評価されるという、極めて不平等で残酷な事態が、私たちに理想状態として提示されている。自らの保守主義を正当化しようとする既成秩序の擁護者たちは、この秩序を素晴らしいとか、理想的だとはなかなか言えないが、代わりに、その他すべてのものが最悪だと言うことにした。彼らは言う。確かに、われわれは完璧に善い状況を生きているわけではない。しかし、悪のうちに生きていないだけ幸運だ。われわれの民主主義は完璧ではない。けれど、めちゃくちゃな独裁国家よりはマシだ。資本主義は不公平だ。けれど、スターリン主義のように犯罪的でもない。アフリカで何千万人をエイズで死なせてはいるものの、ミロシェヴィッチのように人種差別的で国家主義的な宣言をすることはない。われわれの戦闘機はイラク人を殺害してはいるが、ルワンダ人がやっているように、彼らの首を鉈で切り落とすことはなどはしない、云々。

 ドゥルーズ=ガタリの言葉を再度借りれば、資本とは「これまで信じられてきたものの一切を寄せ集めた雑色の絵」。いわば、超近代と古代の奇妙なハイブリッドである。

 グレアム・ハーマンが述べるとおり、ラトゥールの存在論的立場は「あらゆるものが他のあらゆるものと関係する」という意味での純粋な全体論(holism)とは区別されるべきだろう。だが私たちとしてはむしろラトゥールの(自然と人間との近代的分割を失った)「ハイブリッド」概念がもつ手に負えない絡まり具合のほうに注目したい。

 

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 ピューリタンたちがコンスタンツ公会議で腐敗した教皇共の不品行極まれり生活を糾弾した時、枢機卿ピエール・ダイイは彼らに向かって怒鳴った「カトリック教会を救えるのは、もう悪魔その人しかいないのに、お前らは天使を要求する!!」(ルイ・ボナパルトブリュメール18日)

 さて、悪魔に憑かれた我々は、それがメシアであると思い込まされている。しかし偽りの救世主に差し出された果実を跳ね除ける時がきたのだ。しかし悪魔は我々を踊らせ嘲笑う。救ってくれる天使は何処へ?神は何処へ?審判の時は未だ来ずにして、終わりの人々は現れた。

 しかし悪魔――巨大なる異形のリヴァイアサンの王の側で、徘徊する槌と鎌を携えた妖怪が見えないだろうか?神が死んだ?天使のラッパはいつになっても聞こえない?よろしい!ならば取るべき手段は唯一つ!

バケモンにはバケモンをぶつけんだよ。

 最後に佐々木中の挑戦的な名文を引いて、この章のフィナーレを彩ろう。

文学が終わった近代文学が終わった藝術が終わった、と言うばかりか、言うにこと欠いて世界は終わっただの歴史は終わっただの言って、何か言った気になっている可哀想な人たちは後を絶ちませんね。そしてまた、自分の生きている時代が 特権的な始まりか終わりであり、自分の生きているあいだに歴史上決定的なことが怒ってくれないと困る、という思考の病んだ形態がある。こういう思考は恐ろしく幼稚なものであり、実はもっとも質が悪い終末論などだということも指摘しました。このような思考の病みきった形態というものがむやみと蔓延している。そんなこと言う人なんて見たこともない、そんな話なんて聞いたこともない、という人の生に平安と歓びあれ。[…]しかし、こういう終わりの思考、「現在」において、「自分」の生において「すべて」の終わりが「ひとつ」になってほしい、という病んだ思考は、実は彼らが思うようには新しくない。どころか、、本当にげんなりするくらい繰り返されているのですよ。有史以来延々とね。もう調べれば調べるほどぞろぞろ芋づる式に出て来て枚挙に暇がないくらいです。

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

  終わりの人々はもう終わりだ、自分たちの世代で終わりにしよう。それでよい、もうよい……などと思っているのかも知れないが、何も終わっていないのだ。何も、何もだ。今日は他のどの日々とも変わらない一日であり、どの日々も今日と変わらない一日であり、他の日々とはひとつも似たところのないこの一日。法を破り、子を孕み、それに賭けて勝ち負ける。

 ジル・ドゥルーズが今際の際までマルクスの本を執筆中だったという事実は、歴史の大きな潮流を示唆している。かつてのキリスト教世界では、自堕落で放縦を極めた人間達が年老いてから安全な避難所である教会へ戻り、神と和解して天に召されるのは普通のことだった。同様のことが現代の多くの反コミュニスト左派にも起こっている。晩年を迎えて、下劣な裏切りの人生ののちに、コミュニズムの〈大文字の概念〉と和解して天に召されたい。と望むのだ。後年になっての転向は、昔のキリスト教徒と同じメッセージを送っている。むなしい反抗に人生を費やしてきたが、心の奥底ではずっとそれが真実だと知っていたということだ。

 

 1968年以降、権力体制は反権力の運動を利用してみずからを修繕するという特殊な能力を発揮してきた。だが、状況がかくも侘しいものであるなら、我々は反抗などおしまいにして、いさぎよく穏健な改良主義に道を譲ったらいいのではないか?という疑問も沸き起こる。しかしそれには問題が在る。ごくかんたんに言えば、グローバル資本主義がわれわれに突きつける一連の敵対関係は、グローバル資本主義下の民主主義という枠組みの内部では管理できない、あるいはその枠組に包括することさえできないのである。

「われわれの仕事はいずれロボットに奪われる、それゆえ、われわれの賃金は政府が払わざるを得なくなる」という公式を提示したのは、驚くなかれ、シリコン・ヴァレーを象徴する人物にしてソーラー・シティ・アンド・テスラの企業者、あのイーロン・マスクであった。

 この見通しが資本主義の終わりでないとしたら、何をもって資本主義の終わりと言えばよいのか。ここで銘記すべきは、マスクの公式に含意されているのは強力な政府の存在であって、たんなる地域協同組合のつくるネットワークではない、ということである。したがって、今日問うべき唯一の真の問題は次のようになる――我々は、資本主義を自然(人間性)のいち要素として受け入れるという支配的な態度を支持するのか。それとも、今日のグローバル資本主義は、その無限の再生産を妨げるにたる強力な敵対関係を内包しているのか。

 

 今日の「急進的な」理論に対する体制側の反応は、ヘーゲルが『法の哲学』の序文で「ヨハンネス・フォン・ミュラーの手紙」に言及しながら説明している、哲学研究に対する当時の体制の反応と同じである。「その手紙のなかでミュラーはフランスの統治下にあった1803年のローマの状況について述べながら、こう書いている。「ある教授は、公の教育機関はどういう状態かと問われて、「売春婦のように多目にみられている」と答えた」と」。「急進的な」学会で今日行われていることも、大部分は同じように多目にみられているのではないか――「学会はあまり役に立たないが、大した外にもならない。だから、それを推奨してもなんの益にもならないが害はないと考えてよい」というふうに。理論が解放をもたらす力を取り戻すためには、コミュニズムを再発明するしかない。それが私の主張である。

 

Part2に続く。