【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

心臓を洗い、喉を切り裂け。みやこと花 、愛の革命の闘争(上)

「……そう。君は、その道を選んでしまったんだったね」

「ここから、すべてが始まったんだね」

「……でも、当然、君にはこの後何が起こるかなんてわからなかった」

「たった1つの可能性。たった1人の君が何をしていくのか、わかるはずもなかったよね」

「……なにも知らない君は、ここから、すべてをたどるべきだと思う」

「次に君がたどる道こそ、君にとってのはじまり」

「君は当たり前のように声をかけて、そして幸せな人生がはじまる……はずだった、あるセカイのお話、だよ」

ケムコ・ウォーターフェニックス『最悪なる災厄人間に捧ぐ』より

 

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あなたは『私に天使が舞い降りた!』の最終話をご覧になっただろうか。もしも視聴していないのであれば、あなたはもう既に老いて死にゆくだけの存在である。冗談を言っているのではない。世界精神に触れるような偉大なる芸術作品に触れる事に対してすら、感受性は鈍く焔のように魂が燃え上がっていかず、無駄な知識だけを蓄えた頭は下を向いていて、腰も重く中々立ち上がろうとしない。人はこうやって老いて死んでいく。だがあなたの心にまだ微かにでも炎が宿っているのなら、今すぐにAmazonPrimeでもニコニコでも何でもいいから勤務先を爆破してでも親を質に入れてでも視聴するべきだ。これはまだ生を望む全人類が可及的速やかになすべき責務である。

 

本稿はTVアニメ『私に天使が舞い降りた!』の記事である。

このアニメの主人公みやこと花ちゃんの愛について書いた記事である。

それにも関わらず泣いている子供の幸せを願って書いた記事である。

生物学者の統計によると、生物種の平均寿命はおよそ400万年である。人類がやってきて未だ20万年程度しか経過していない。80歳の老人から見れば我々は4歳の子供である。4歳の子供は泣きながら言う「もはや歴史は終わった。我々は何をなすべきか分からない、何も出来ない、どこにも行けない。我々は破滅の危機の最中に在る」

そう言いながら泣き叫ぶ、子供は迫る魔物の影に怯えている。絶望している。

 

眼の前の子供は泣いているが、さてあなたは幸せだろうか?

わたてん最終話の余韻に浸っているのなら、「ええ、とても幸せな気分だ!」と言うだろう。だが、気分ではなく、あなたの人生は? 場末も場末の、こんなブログに辿り着くのだから、心の底から幸せと言い切れはしない人ではないだろうか。むしろかわいそうな人ではないだろうか。顔も知らないあなた、声も聞いたことのないあなた。無礼を承知で言うが、恐らくきっとこんな人だろう

  ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。

例えそれでも、ほんの少し何かが違えば、たった1つ選択を間違えなければ、満足いく幸せな人生を謳歌していたかもしれない。どれだけ悔やんでも時を巻いて戻す術はない。だからそこから全てを、ねじれたキューでゲームを再開しよう。泣いている子供にハンカチを差し出してやる為に。理不尽に泣く子供が二度と現れないように。あなたはこの記事を読み進める事で1つの使命を帯びる事になる。天使に託された使命を為す事になるのだ。

  

序章:天使は言う、喉を切り裂き心臓を洗え

さて、つい先日『私に天使が舞い降りた!』の最終話が放映された。

最終話に当たるこの12話は、11話から話が直接繋がっており、11話でお泊まり会をして準備をしてきた待望の劇「天使のまなざし」を上演する、というものだ。

見終わった、私は呆然としていた。筆舌に尽くし難いというのはまさにこの事だ。私は神を見た。そして気付いてしまった。以前の記事で私は、みやこと花ちゃんの関係性については多くを語らなかった。まだ本編も途中、判断するにはまだ早いと。だが愛の真髄を見せられ――そう真髄だ。他にそうとしか捉えようがない。分かってしまったのだ。覗き見てしまったのだ、深淵から向けられた眼差しと交差する。それで分かってしまった。みやことひなたの関係性が平穏で満ち足りた愛のイデーであるならば、みやこが花ちゃんに向ける愛は――愛されないことに怯えず、愛すことを断念しない、神への恋文を書き彷徨う革命の愛である。

 

『私に天使が舞い降りた!』のアニメとしての評価を端的に申し上げよう。

掛け値なしに素晴らしい作品だ、そしてどんな悲劇よりも悲しいコメディである。

 

metemetemeteor.hatenablog.com

 

もしもあなたがこの記事を読んでいないなら、是非こちらから先に読んで欲しい。

前に私はみやことひなたの関係性について書いた。エピクロスの園すら思わせる、姉妹の満ち足りた関係性――愛!それはヘーゲル哲学で言うところの具体的普遍性として機能する。崇高なる最後の歴史の終焉は、誰もがみやことひなたの間に流れる愛を獲得する事により齎せられると私は主張した。

 

だがそれは――どうやって?具体的な方法は分からない。分かるのは崇高なる愛のかたちと、我々には天使が舞い降りて味方してくれているという事だけ。荒唐無稽な道程であることは確かだ。

 

佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」から引いて、ある天使の話をしよう。

ある文献の記述によると、40歳のムハンマドは非常に不思議な夢を見るようになり、深い悩みと不安を抱くことになる、とある。そこでマッカ郊外のヒラー山の洞窟に籠もって瞑想に耽る。瞑想に耽るうち、ふと洞窟の中で視線を上げると、そこに天使がいる。天使がそこにいる、浮かんでおり――ムハンマドの下へ舞い降りた。姿は典拠によって描写の仕方が違うが、ともあれ黄金の肌を夜の闇に輝かせ、白い羽根をなびかせている。羽根の数も500枚ないし1600枚等々、諸説ある。 翼は緑で地平線まで届いていたという説もある。濃い黄色の髪の毛を垂らして、両眼のあいだに太陽が光っていた、という記述もある。

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――とにかく、途方もないものが目前に現れた。その名は大天使ジブリールキリスト教で言えば、白い百合の華を手に携えて、マリアに受胎告知をした天使ガブリエル。

 

さてそんな異形の存在がいきなり現れたら、普通はどう思うだろうか? ムハンマドは思った、俺は気が狂ってしまったんじゃないかと。瞑想に耽り修行したりはするものの、最後の愛妻アーイシャに亡くなった妻ハディージャの話をして嫉妬を買ってしまうような俗っぽいところもある平凡で愛すべき常識人だ。だから逃げる。そうして逃げる、走って逃げる、するとまた天使が前にいる。後ろを振り向くとそこにも天使がいる。

決死の思いでハディージャが待つ家に戻り、ガタガタ震えながら「俺は狂ってしまったのだろうか」と。だが妻に励まされて、勇気を取り戻してまた洞窟に行く。すると、やはりジブリールがいる。ジブリールは言う。

「読め!創造主なる汝の主の御名において、主は凝血から人間を造り給うた」

 ――読め?なんということを言うのだ。ムハンマドは拒否する。

「読め!汝の主はいとも心ひろき御方、筆執るすべを教えたまい、人間に未知のことを教え給う」

大天使の言葉は無情に響く。……読め?一体何を読めと言うのだろうか。やはりムハンマドは拒否する。だが何故頑なにもムハンマドは拒否を重ねるのだろうか?

そうだ――彼は文盲だったのだ。その彼こそが神に選び出され、「読め!」という絶対的命令が降下する。無茶な話だ。ブランシェールというフランスのイスラーム研究者が述べているが、厳密に言うと、ユダヤキリスト教的な「奇跡」という概念に一致するアラブ語は、実は当時存在しなかった。「神秘」にあたる語彙もなかった。もう、単に「読め!」と舞い降りた天使は言う。ムハンマドにとっては発狂しそうなことだった。

こうしてムハンマドは天使を介して神の言葉を「読む」ことになった。それだけでも狂いそうなのに、不意に天使が出現しなくなる。見捨てられてしまったのかとまた彼は不安になる。どちらに転んでも発狂寸前のことが起きている。

 

みやことひなたの関係性は、私達に希望を与えた。誰もがこの心地よい愛情を交わす事が出来るのなら、それは我々が待ち望んだ楽園に帰るにも等しい。

だがそれは――青写真というものではないだろうか?

我々に天使が舞い降りた。だが私の前に、そして恐らくあなたの前には天使はいない。あくまで我々に、世界に天使が舞い降りたというだけの話である。一体どうやって皆が幸せに愛を分かち合えるというのか?分からない。気が狂いそうな長い時間を重ねて、気が狂いそうな数々の理路を辿らなければ出来そうにもない。崇高なる最後の歴史の終焉はありえない事ではない、だがあまりにも解決不可能性が高く、ありそうにもない事のように思える。

 

後年の伝承に、こういった寓話がある。ムハンマドの至極困難な「読み」を比喩として伝える寓話が。――大天使ジブリールムハンマドの喉を裂き、心臓を取り出してそれを洗った。それをムハンマドの身体に戻したときに、彼の心は信仰と知恵で満たされた。心浄められたムハンマドは天馬にまたがり、一飛びで千里を駆け抜けたのである、と。喉を裂き、心臓を取り出して洗った、すると千里を駆けた――読む、ということは、これくらいのことなのだ。

 

「読む」ことのように、喉を裂いて心臓を取り出し洗うような――烏滸の沙汰とも思える狂気的な願望なのではないだろうか。誰もがみやことひなたのような幸せな関係性を手に入れる事など。本当にそんなことが可能なのか?G・K・チェスタトン曰く「ありえない事は想像できるが、ありそうにもない事は想像できない」

 

ならばそんなものを無理に目指して闘いを続けなくてもいいではないか。

そもそも、歴史の終焉などバカげた話なのだ。ヘーゲルよ、コジェーヴよ。キルケゴールが批判していたじゃないか。巨大で荘厳な美しい知の宮殿を建てて、自分はその近くのしょぼくれた犬小屋に住んでいるようなものと。ありそうにもない事の為に労力を使うのはやめたほうが懸命なのではないか、大人になろう。愛らしい天使がモニタの向こうにいるではないか、3ヶ月ごとに色々な天使がやってきて、私達を楽しませてくれる、それで十分じゃないか。我々には友達がいる、崇高ではなくとも、身近な愛すべき人がいる。恋人がいる。口吻を交わした時の、恋人の甘い涎の味に気恥ずかしくなったり、愛児が指を切って泣き始めた時、思わず傷口に口を押し当てて感じる血の味の享楽、そしてまなざしに曝されまなざしを向ける視線の一瞬の交差、出征し戦死した夫が残していった髪の毛に頬を押し当て泣く妻の享楽の姿を、妻の急な死を自宅で知らされた男が残された衣服に僅かなその体臭を嗅ごうとするその享楽の姿。

もういいだろう。対象aと剰余享楽が、享楽を吸引し調整しているかぎり、世界は「ほぼ」平和なのだ。それがどんなに紛争や汚職や搾取に塗れた世界であっても。ラカン理論に通暁した社会学者たちは言う、資本主義は、「性的関係はない」という「不可能」な穴を中心に、永久に欲動を回転させつづけるのだと。そう、彼らがそう口にすることは、この世界の享楽を肯定することになるのだ。権力を求めるのもいい。金を求めるのもいい。異性に、あるいは同性に狂うのもいい。品のよい衣服に身を包み、ギャンブルや株に打ち興じるのもいい。たまには麻薬を嗜むのみいし、ちょっとしたサディズムマゾヒズムに身を浸すのもいいだろう。それはとても楽しいことだ。

佐々木中『夜戦と永遠』上 P195より

幼児のおむつを取り替えて、侵略を目論み野望にときめくのもいいだろう、胸を動かされた出来事に捧ぐちょっとした詩を読もう、古い友人と洒落たバルで無駄に、あるいはエモく駆け抜けた青春を吟じるのもいいだろう、アンゲラ・メルケルお気に入りの本を読もう、悲しい出来事に心痛める人に寄り添おう、愛する人の亡骸に土を掛けよう、そしていつかは勇敢に死のう。それは今の世の中でも十分に出来る、私達は幸せだ……。

 

――本当に幸せか?それで、いいのか?

 

文句がある。あるに決まっている。資本主義の血塗られた平和に安住してよいのか?だがこう弱気にもなる。仮に血肉を貪る魔物の首を跳ね飛ばしたとして、ジェイムソンが言うようにまた違う炸裂した地獄の秩序がやってくるのではないか。なら原初の愛を夢見て凍りつくまでキスを愉しめばいいのではないか。いや、やはりそれは出来ないと言っている。譲歩してはいけない。なぜならば、我々に天使が舞い降りたからだ!天使が見ているからだ。天使がまなざしを向けているからだ。この世は舞台、みな役者。やらねばならない、幕が上がれば演り切る終わりまで。

 

天使は言う 「読め!汝の主はいとも心ひろき御方、筆執るすべを教えたまい、人間に未知のことを教え給う」

読め、筆を執れ。喉を裂いて心臓を取り出し洗え。困難な闘いを続けろ。

 

第1章:神の人形劇、天使のまなざし

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劇中劇『天使のまなざし』は最終話にふさわしい素晴らしいエクスペリエンスである。

単にわたてんというアニメのキャラクターの可愛らしさを最大限に発揮しているだけではなく、そのストーリーは愛の真髄を倒錯的なまでに描き切っている。

ジャック・ラカンは真実の愛を知る為の作品としてダンテ『神曲』を挙げ、そして恋愛について学ぶならプルードン『革命と教会における正義』を読むべきだと告げていた。今彼が生きていたら、こうセミネールで言っただろう。

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「崇高なる愛の形を知るのならば、柏木ななつの作品『私に天使が舞い降りた!』を読んで、アニメーションの最終話を見るといいでしょう。ええ、あれは接近しえない愛の崇高さを非常によく示しています。』 

 

天使のまなざしの素晴らしさについて語る前に、思い出しておこう。

『私に天使が舞い降りた!』はコミック百合姫に連載されているれっきとした百合作品である。私が百合をどのようなイデオロギーとして捉えているか、今は何も言うまい。だが女の子が女の子を好きになる、つまりは同性愛を描いたものというのは定義として共通の理解をされているものだろう。

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ゆえに、崇高な百合作品について語る前に、まず同性愛についておさらいしよう。

BLや百合の盛況や――そう、LGBTを巡る苛烈な擁護とヘイトを見れば分かるように、異性愛者にとって、同棲愛者は深淵なるイデオロギーの崇高な対象なのだ。

 しかしながら、同性愛者は原初のリビドー対象を手放す事を拒否する。この場合、男の子と女の子は、自分と同性であるリビドー対象への愛着を持ち続ける。これが理由の1つとなって、同性愛と異性愛との差異がメランコリーと喪の差異に対応することになる。異性愛者は、失われたリビドー対象に対する喪の作業をうまく成し遂げ、他方で同性愛者は対象に忠実であり続ける。つまり、異性愛の規定には根本的な裏切りがあることになる。

スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気』P346,347より

これを引く事で異性愛者を裏切り者として糾弾している訳ではない、何を言わんとするか、つまり同性愛者はラカンのテーゼの実践者、欲望を諦めなかった者なのだ。ゆえに崇高なのである。ラカン曰く「結局、罪のあることをしたとして、自分に罪があると実際に感じるのは、根本的にはつねに自身の欲望に関して譲歩した限りでのことです」

『革命』『欲望』、そして『愛』をテーマにした痺れる作品を幾つも捻り出してきた幾原邦彦が、何故同性愛をよくモチーフにするのか――。同性愛者にのみ、為せる革命があるかも知れないからである。社会を創出していく崇高なる愛の革命が。

 

天使と人の物語『天使のまなざし』のあらすじはこうだ。

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天界には天使が住んでおり、愛のキューピッドとなって人と人を愛で結び繋ぐ。天使アネモネは、天使の国に住む天使スイとレンに導かれ、花の咲き誇る天使の国を飛び回る。

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やがて人界に降りて人々の愛を結ぶスイとレン、そしてアネモネは恋に恋するケーキ屋さんの少女デイジーを見つけ、美しい羽根を落とし去っていく。その姿をデイジーは不思議そうに見上げる。

天界に帰ったアネモネ、一目見たデイジーの事を想い歌う「天使の胸にも愛は芽吹くの?」「愛を届けなくては」そう言って愛の弓矢を人界に放つ。デイジーも愛おしそうに羽根を見つめ歌う「あの人は今何をしているんだろう」二人の願いは同じだ「あの子に会いたい。芽生えた胸の気持ちを確かめたい」
ある夜デイジーに天使が舞い降りた。デイジーアネモネの事をずっと考えていた。そして天使の羽根をモチーフにしたケーキを作った事をアネモネに伝える。だがカルミアにはアネモネが見えておらず、デイジーにしか見えていない事に気付く。――人間と天使が結ばれても、先に死んでしまうことにも。デイジーは天使への愛を断念する。

天界でアネモネは大天使カルムに啓示を受ける「天使が人間と愛を結ぶ唯一の道は、人間となって時の峠を越えること」だがデイジーがそれを受け入れなければ存在ごと消えてしまう。スイとレンに背中を押され、アネモネは夜明けまでに峠を超える愛の試練に挑む。天使の国では感じる事のなかった厳しい寒さと痛みに苦しみながらも、希望を胸に抱いてアネモネはデイジーの元へ向かう。

時の峠を越えたアネモネ、ふらつきながらもデイジーと出会った場所へ辿り着く。だがそこにいたのはデイジーの孫娘マリーだった。そこでデイジーは既に亡くなっていることを伝えられる。マリーは祖母からずっと聞かされ憧れていた美しい天使が目の前に舞い降りたことに喜ぶ。

だがデイジーはもういない、だから愛を受け入れることもない。なのに自分が消えていない事に戸惑うアネモネ。だがマリーが看板商品として、デイジーアネモネの羽根をモチーフに作ったケーキを持ってきた。全てを察するアネモネ

2人はデイジーの残したケーキを、命尽きるまで受け継いぐことを決め微笑み合う。やがて時は経ち、ベッドの上に横たわりお腹を抑えるアネモネ、その手を取り穏やかな表情で涙を流すデイジー。3つの魂が昇天していき、天使の国で3人の天使が歌う美しい場面で幕を閉じる。

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小学生が演じるにはやや重い話ではあるが、時には重さも必要だ。劇中劇『天使のまなざし』これは愛というを実験台に縛り付け、刻み付けて解剖したグロテスクなまでに描き切った神話である。

 

順を追って解説していこう。

 

まず物語の主人公、アネモネとヒロインであるデイジーがお互いを認識する場面。

二人は直接顔を合わせた訳ではない、アネモネはデイジーを見つけ、すぐに去ってしまう。デイジーアネモネが落とした羽根を拾い、天界へと向かうアネモネの後ろ姿を眺めていただけだ。天使へとまなざしを向ける象徴的な場面だが……。

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演出はあっさりとしている。この後お互いがお互いのことに胸を高鳴らせるのを思えば、もっとドラマティックな邂逅でもよいのではないか?だがそうではない。愛の始まりにしては短いと思える邂逅、それは原初的な楽園体験の儚さを示している。

この羽根は最も重要な残滓を示している。

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天界へ帰る天使への一瞬の視線、残された美しい羽根、そこから生じる甘美な残滓。天使を想う至福の時間、愛の秘密を明かしてくれる穏やかな神秘。その時間は天使との愛を手放す事になっても続く、不滅の愛。ヘルカイザー亮の言葉を借りれば「瞬間は永遠となる」

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2人の最初で最後の邂逅、そして別れをより甘美にする為のギミックだ。天使が舞い降りて微笑む、2人の視線が交差する、そしてそこから闘いが始まる。不滅を巡る我らの闘いも始まる。

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デイジーは人間と天使の寿命の違いゆえに、愛する天使と側にいる事を断念せざるを得なかった。人間にはどうにも出来ない理不尽極まりない神からの禁止、寿命による断絶。つまりは天使と一緒にいることを諦めざるをなかったのだ。手紙は必ず宛先に届く。無秩序の如き法は必ず己を貫徹する。

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だが天使であるアネモネは諦めなかった、例え天使である事を止めてでも、デイジーの側にいようとしたのだ。アネモネはデイジーと共に生きるべく、人間になる為の試練を受ける。人間になったこと、それにより感じる寒さと痛み。それを堪えて引き摺り進む、初めて胸に抱いた愛を諦めなかった。凡百の人間共にとっては、あえかな思いとして諦め捨て置くようなそれを。

2人が出逢う前、夜に胸を高鳴らせてお互いに思いを歌うシーン。

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これはお互いが原初のリビドーを共有していた事を示している。そして2人は邂逅する、恋い焦がれた思いは本物である。だがカルミアアネモネを不在と看做す。<人界の象徴秩序>にとって天使は存在しないのだ。

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関係することは<現実>によって引き裂かれる。人間であるデイジーアネモネと共に居る欲望を諦めざるをえなかった。だがアネモネはデイジーの側に居るという欲望を諦めない、これは同性愛者のリビドーの隠喩とも読める。天使であることで諦念を強制されるのならば、いっそ人間であろうとする。アネモネは<天界の法>を否定し、痛みを伴いながらも人間の世界へ入っていく。様々な意義を孕んだ素晴らしいシーンだ。 

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人間になる為に時の峠を越えるべく試練に挑むアネモネ、天使の国では感じたことのない苦痛を受ける。苦痛を受けつつも愛が為に進む。これは享楽の作用を示している。天使が人間になること――人間の象徴的秩序の中へ入っていくこと。

 

試練を越えて人間になったアネモネに突き付けられる事実――恐らくデイジーは老衰でこの世にはいないということ。長かった筈の人生も、いつかは残り時間がゼロになる。 諦めなかった欲望の対象は、既にどこにもいないのだ。失意に暮れる。デイジーからの愛を獲得出来ないと理不尽なる法に裁かれる――筈だった、なのに、消滅しない。

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孫娘であるマリーはケーキ屋を継いでいた。そして看板商品はかつてデイジーアネモネの羽根を思って作ったケーキ。マリーが思い出話を語る「いつかおばあちゃんが天使みたいな人がきたら食べさせてあげたいって」デイジーは共にある事を諦めた。だが、心からアネモネを愛していた。欲望を諦めなかったのは彼女も同じである。例え肉体が生命が消滅しても、不滅のものが残る。

デイジーの愛は天界の法をも切り裂いた。

幾ら神が禁止しようと、そこにある。側にいる。デイジーはプレアデスの鎖を結び、オリオンの網を解いたのだ。

 

愛の定義の1つ「愛とは自分が持っていないものを与える事である――それを望んでいない人に」

 

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みゃー姉が言っていた。「私は一生!花ちゃんの為にお菓子を作ってあげるから!」このセリフと重なる。天使に人生を捧ぐ決意の言葉を孫娘が口にする。メタ的に重なるこの演出は、みやこと花の関係性が、劇中劇で紡がれた愛情と同一の運命を辿る事を示唆している。

 

こうして、かつて天使が愛した人間は、人間となった天使の、イデオロギーの崇高な対象となったのだ。それは決して直接は触れ合えぬがゆえに、永遠の享楽として残る。

 

デイジーカルミアの面影を残した孫娘マリーと、2人はデイジーが残したケーキを守り抜く事を誓う。このケーキはデイジーにとってのアネモネの羽根のように作用している。それだけではない、デイジーの死、死という絶対的な他者の断絶によって禁止されたまぐわいを経る事によって、アネモネとマリーは出逢い、崇高なイデオロギーを共有する。デイジーは消えゆく媒介者となって新たな朝を2人に授ける。

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だがこれで終わりではない、これから全てが始まるのだ。天使の法の虚しい平和のなかに安住するものではなく、かつての想い人と引き裂かれた先に待つ未来が。象徴的秩序に抗って、欲望を断念しなかった2人が産む、もうひとつの第三の道が。

 

長くなった、そろそろアネモネとマリー、2人の生活の最後に触れよう。

ベッドの上でアネモネは横たわり、マリーはその片手を両手で包み込む。アネモネの穏やだがどこか苦しさを漂わせる表情とは対照的に、マリーは瞳を潤ませ涙を浮かべている。これは一体何を示しているシーンなのだろうか。この後、アネモネとデイジーとマリーの魂が天界へ帰る描写があることから、アネモネがマリーを置いて先に逝くようにも取れる。

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だがアネモネの左腕の位置に注目して欲しい、ちょうどお腹に触れている。やや膨れているようにも見える。それならばアネモネとマリーの表情にも合点がいく。2人の子供が来たのだ、愛の寵児が!!革命の申し子が!!!

原初の欲望に譲歩すれば生まれることのなかったものが!!!!

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フリードリヒ・ニーチェ曰く「そして期待されるものが思想であれ、行為であれ――われわれはあらゆる本質的な完成に対して、妊娠という関係以外の関係をもたない」

 

女同士で子供……いや、そんな下らない反論は捨て置こう。乃愛ちゃんが演じてる設定だからしょうがないやろ、というメタ的な話もナンセンス極まりない。マリーの容姿はデイジーカルミアの面影を残している。つまりそういう世界なのだから。

子供が来た、彼女らの子供が。そしてこれは神話なのだから、ゆえに劇中劇という形を取っているのだから。ゆえに最早実際に妊娠しているかすらどうでもいい。いやあえて彼女らの子は成されたと断言しよう。自らの手を離れ生まれゆくものがある事は確かだから。そう<特異的な幸福>が。

この<特異的な幸福>について詳しく述べるは、また後にしよう。

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3とは神聖なる数字である。三位一体、死後の彼岸、ボロメオの環。

3つの魂が天界で邂逅する最後のシーンは単に死後皆が救済されるなどといった生温いことを示唆しているのではない。死への恐怖を越えた欲望への充実さ、不滅への確信、生の刹那の束の間の蒼穹から広がるものを産み出していくことへの恍惚。

麗しき白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません。

 

愛し人が残したケーキを受け継いで、2人で踊り日々を過ごす、今日は他のどの日々とも変わらない一日であり、どの日々も今日と変わらない一日であり、他の日々とはひとつも似たところのないこの一日。法を破り、子を孕み、それに賭けて勝ち負ける。

ツァラトゥストラはかく語りき「私の子供たちが来る、私の子供たちが」

 

 

第2章:誰かが願った幻想

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 00年台後半、おたく文化で一世を風靡した美水かがみ原作のコメディ漫画『らき☆すた』に登場するキャラクターは殆どが美少女であり、そして何故だか美少女たちは揃いも揃って左利きである。それを誰かがこう揶揄していた覚えがあるらき☆すたを見ているのは右利きの気持ち悪いおたくばかりなのに、左利きの美少女ばかり出てくるんだから現実とはまるで正反対」と。身も蓋もない話だが、確かにそうである。だがそもそも、そういうものなのである。私が何を言いたいか、つまり「フィクションとは、誰かが願った幻想」なのだ。

 

それは辛く不条理な現実とは違って、とても幸せな幻想だ。

とても幸せな時に、とても幸せな幻想を見る必要なんてない。だから幸せな幻想に浸る時は辛く悲しい時。だから幸せな幻想を見る事は、悲しい。悲劇は物語の中でとことん悲しいことが起こる。そして喜劇はハッピーエンドで終わる、現実とは違って。そしてゆめゆめ忘れてはならない、ハッピーエンドの後も物語は続くのだ。

 

ギリシャの詩聖ホメロスの書いた英雄叙事詩オデュッセイア』をご存知だろうか。イタカの王オデュッセウストロイア戦争に行く為にイタカを離れる。


戦争は10年にも渡り続き、海の神ポセイドンのたたりで船を地中海の各地に押し流され、数々の苦難と冒険ののちに、パイアケス人の王アルキノオスの援助で10年の放浪の旅を終え、合わせて20年ぶりに故郷のイタカに帰る。オデュッセウスがようやくの思いでイタカに帰り着くと、故郷はかつての面影もなく、滅茶苦茶になっていた。オデュッセウスは息子テレマコスに会って留守の間の事を詳しく聞いた。王の不在にかこつけた貴族たちが、我が物顔で王宮を蹂躙しており、オデュッセウスの財産で飲み食いのドッタンバッタン大騒ぎをしていた。王妃のペネロペは王亡き時敬われるどころか、王宮に居座る無頼漢たちに言い寄られていた。ペネロペは操を守る為、ひたすら時間を稼ぎオデュッセウスの帰りを待っていた。オデュッセウスは自分がいない間の惨状を知ると、浮浪者に変装して王宮に乗り込み、様子を探ったあと、王宮に巣食う貴族共を不意打ちで皆殺しにし、ペネロペと再開したオデュッセウス。その後父親とも再開し幸せを噛みしめる。だが殺された貴族の仲間たちがオデュッセウスに復讐する為に王宮へ向かう。僅かな手勢と共に迎え撃つオデュッセウス。その戦いを女神アテナがやめさせたところで大団円、話は終わる。

 

この話を聞いてこうは思わないだろうか――わざわざデウス・エクス・マキナで終わらせずに、夫婦の再開で綺麗に締めればいいのにと。わざわざ女神に戦いを止めさせて終わりだなんて、冗談じみてるし蛇足であると。

ミケーネ文明は戦争で滅び、ギリシャの黄金期はすっかり終わってしまった。ホメロスの頃にはもうすっかりギリシャは貧しく野蛮になって久しかった。ホメロスが描く昔の世界にはノスタルジーと幻想が込められている。昔のギリシャは今よりずっと素晴らしかったと。

だから『オデュッセイア』のラストには、「昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほしかった」という嘆きがこめられている。ペネロペは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元通りになる――かなわなかった願いが込められている。

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本当ならペネロペはさっさと再婚しているはず。だから物語の中では頑張ってオデュッセウスを待ち続けた。

本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語の中では苦難を乗り越えてイタカに戻ってきた。

本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳り続けたはず。だから物語の中では残酷に皆殺しにされた。

ラストが夫婦の再開で終わらないのには意味があるように思える。

オデュッセイア』という物語が嘘だから、有り得ない事だから、機械仕掛けの神に終わらせたのだと。これは嘘、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよと念を押す為に。きっと色々な人が、豊かだった頃に戻りたい、ここではないどこかに戻りたいと思っていた。だから『オデュッセイア』のラストはこうなった。

オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語の中だけど、オデュッセウスは物語の外が悲しい。

 

私に天使が舞い降りた!も、悲劇よりも悲しいコメディ作品である。

私の下に天使は舞い降りない。胸の跳ね馬を踊り昂ぶらせる、君との奇跡のような出会いもやってこない。だから、物語の中では、それがかなっていいんだよって。君を見つけるし君に見つけられてもいいんだって。天使のように愛らしい人を愛しても、愛されてもいいんだよって。天使のような人がいるのだから、天国のような場所にいるということ。そしてその願い、それはきっと成就するんだよって。

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誰かが願った幻想というのは、TVアニメ『コンクリート・レボルティオ ~超人幻想~』のテーマでもある。この作品は昭和をベースとした架空の時代『神化』を舞台に、大きな力を持った超人達が生きる激動の物語だ。

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コンクリート・レボルティオの最終話、正義に自分の中の怪獣に迷ってきた主人公爾朗が覚悟を決め、超人など所詮は子供の夢であると笑う里見と対峙するシーンから引用しよう。

「たかが歌……たかが映画……たかが漫画……たかが超人……か」
「その通りだ。現実には何の力もない」
「……やっとわかった。あんたのような奴に会うのはこれが初めてじゃない。たぶん最後でもない!」

「ほぅ……こんなに強い……者にか!」

「違う。笑う奴だ」
「……笑う?」
「正義なんて幾らでもあると笑う、超人なんて子供の夢だと笑う、現実を変える事なんて出来ないと笑う。今わかった。俺がどうしてもあんたと戦わなければならなかった理由が」

 「超人には必ず、対になる悪が居る。俺はあんたという悪を倒す――超人だ!!」

コンクリート・レボルティオ 24話『君はまだ歌えるか』より

ネクラ族のビョーキのOTACKYのあなた方、あなた方はいわゆるオタク趣味を笑われたことがないだろうか。大人になったら卒業すべきという旨の主張をさも当然というように叫ぶ人に会ったことがないだろうか。オタク趣味だけではない、例えばコミュニズムの夢は現実に則さない青写真に過ぎないと、文学や哲学など役に立たないと、金になることだけをしろと、誠実さを欠いても空気を読むことが大人だと、<社会>で活躍することだけが大人であると、そういった事を言う人間に出会った事が、きっとおありだろう。

 「話の分からない馬鹿共だ」と裏で軽蔑しつつも、そのイデオロギーとの同一化に抗わず、自嘲的に笑う自分の姿にも、きっと心当たりがおありだろう。それでも願わずにはいられないのが幻想である。

 

コンクリート・レボルティオの主人公人吉爾朗は正義の超人に憧れつつも、自らの内に巣食う怪獣の力に怯えている。かつて恩人を暴走した怪獣の力で死なしてしまったからだ。

怪獣の力を制御出来るようになっても自分は正義の超人にはなれないと逃げ、助けを求める人の声が聞こえる超人アースちゃんや、絶対に間違わない正義の合体超人メガッシン、そして人々の応援で力を増す魔女っ子の超人、星野輝子に理想を仮託する。それでも誰かが願った幻想を守る為に、迷いながらも自分に出来る事をする。

そして終盤、1期のボス怪剣クロードが、本当は自分に憧れていた事を悟る爾朗。

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彼もまた誰かが願った幻想だった。  

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カール・マルクスが賢明だったのは、共産主義社会の具体的な青写真を描く事を拒んだことだ。スラヴォイ・ジジェクは言う「マルクス主義の夢は幻想です!」

コミュニストとは何だろうか、空想から科学へ。幻想の実践者である。誰かが願った幻想を守り抜く者である。進歩主義の実践者である、進歩の果ての楽園を求める。

マルクス主義の、いやあらゆる革命者達の幻想が何を齎したか、知らぬあなたではないだろう。そうだ、誰かが願った幻想が、成就した。現実になった。幻想の中でしか、物語の中でしか有り得なかった幸せを、現実で噛み締めた一時があった。それがほんの一時の幸せに過ぎないにしても。

 

エビデンスが認められない精神分析のレゾンデートルとは何だろう。

精神病に対して投薬治療や認知療法で素早く対処してみせる時代での、精神分析の価値とは?その根源的な問いに立ち戻ろう。

それはこうである「得体知れない痛みを、ありふれた苦しみに変えること」「妄想や狂気から人の本質を見出すこと」

そもそも、一切のものは虚妄である。虚妄を虚妄として、だがシニカルから脱して本気で欲する魂の焔がお宅らにはおありだろう。

 

お宅らは何だ?ビョーキでネクラのOTACKYだ。妄想に浸っており、ホモやレズを享楽する、一般人と言われる人間からすれば狂気的な存在だ。理解の埒外にある存在だ。ゆえに苦しむ存在だ。つまり革命の主体となりえる弁証法的存在である。

そして――誰かが願った幻想を守る超人になり得る者。

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我々が苦しむのは、我々はどうしようもなく他者>の世界に生きているからである。

おぞましく得体の知れない異質な他者に生殺与奪の権を握られているのである。

あなたは願っているだろう、ならばその願いがどうなって欲しいか知っているはず。

ならば守ろう、誰かが願った――いや、私達が願った幻想を。それが現実になるように。

 

 グローバル資本主義原理主義ポピュリズム、これらに陥る人間、その誰もが何もかもを本気で信じていない、信じていないが効果があると思っている。だから節操のない騒乱がある、怪物と混沌が闊歩する時代。

 「キリスト教の信仰がなければ、君たち自身が自然や歴史と同じように、怪物および混沌となる」(パスカル

 

何度でも繰り返そう。

 「人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する」(ドイツ・イデオロギー

 

アニメを見てヘラヘラ笑っているオタク共も、最終話を見て目が覚めただろう。

ジル・ドゥルーズが今際の際までマルクスの本を執筆中だったという事実は、歴史の大きな潮流を示唆している。かつてのキリスト教世界では、自堕落で放縦を極めた人間達が年老いてから安全な避難所である教会へ戻り、神と和解して天に召されるのは普通のことだった。

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自身をビョーキのOTACKYと自虐に耽り、同類のネクラ族の陰キャを同病相哀れむのはもうやめようではないか。誰かが願った幻想を、陥った妄想や狂気を貫くイデオロギーを、馬鹿正直に受け止める時が来たのである。信じてすらいない架空の魔物へのむなしい服従に人生を費やしてきたが、心の奥底では天使の顕現を望んでいたのだ。

 

ビョーキのOTACKY達の鬱屈、願い、欲望を断念したことによる苦しみと罰のいたちごっこ。欲すれば欲する程の堕落、堕落した情報があるのではなく情報それ自体が堕落――穢れていく我ら。諦めと悲嘆と享楽の坩堝の血塗られた平和の中にいる我ら。訳の分からぬオブセッションに突き動かされ、何処にもいけない何も生み出せない我ら。もうよい、もうよい。共産主義は高度に高まった資本主義国のエネルギーによって成されるとマルクスは予言していた。グローバル資本による格差にもルッキズムにも知性主義やリベラリズムの矛盾もうんざりだ。矛盾によって抑圧されていたものは、何度でも吹き出してくる。

 

多くは言うまい、毛沢東を引用するなら、百花斉放百家争鳴の時である。しかもそれは幾度となく繰り返される。

 

私のブログにしては長くなった。さぁ、そろそろ本題に入ろう。さて、革命を為し得る者と天使の愛の物語へ。革命の聖壇の霊火の煌々とした穏やかな不滅。

第3章『みやこと花、愛の革命』へ。

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つづくよ!