めてろぐ

めてめてめておのブロブロブログです

戦友よ

――かつて星になりたいと願った。当然比喩としての星だが、今となっては初心とは違う意味で願ってしまっているのかも知れない。だが、分かりきっていた事ではあるが、星にはなれそうにない。 

なにも言わないがためにあり、そこで言われていることを、それを言う行為によって抹消してしまうべし。言われた内容を火に投じ、炎に包んで滅ぼすほかはなし。火なきところに灰はなし。(ジャック・デリダ『火ここになき灰』P33より引用)

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メンヘラのインターネット自分語りに興味のある人だけ読んでくれたらいいです。

碌でもない記事ではありますが、今回は私と同じように世界に疲れた貴殿らに送る、私の為だけではない記事だよ。この不快な記事は二章構成である。

一章目は私の自分語りだ。二章目はその自分語りを元に、私から照れ隠しを持って送る、野ばらに戦ぐ貴殿等へのエールであるぞや。

いつものように、拗ねた子供のような、八つ当たりのような、そんな内容ですけどちょっとだけ本質って感じがするかも知れません。長いです。

 

第一章 Stargazer

1.星をみるひと

初音ミクStargazeRという曲が好きだ。とは言っても、つい最近まで存在を忘れており、アスラン・ザラのMADからガンダムSEEDについて調べていたところたまたま思い出したのだが。

 

 

中学生の頃の私は、随分とひねた子供だった。端的に言えば天邪鬼。

ボーカロイド初音ミクが一世を風靡し始め、同年代のオタク達がニコニコ動画に投稿された楽曲に夢中になっている頃、根拠もなしに薄っぺら野郎が聞く音楽だと避けていたのを覚えている。当時の私はまだめておちゃんではなく、そこいらのありふれた私だった。私はありふれた嫌な奴だった。

 

ただ、当時私が尊敬していた人がふとボーカロイドの話題を出し、彼女が好きなものならと、勧められた楽曲の他にも色々と巡っている途中でこの曲に出会った。ダブルラリアット炉心融解などその時聞いて心動かされた曲も他にあるのだが、今回はこの曲に対する思いを元に本稿を展開していこうと思う。

見上げた 流れる
手を伸ばしてをなぞる
届かなくて見送るけど
惑星(ほし)は回ってく

夢見た行と連続に追われる日々
眺めてたれる幾千の旋を残さず重ねて

弧を描いた眼差しのその世界
は音乗せてを数える
流星を見送って処に在る意味を知ったスターゲイザー

、紡いだ音!
あの日かけた、言葉の意味?
繋ぐ唄は宙(そら)に溶けて
が届く時を待つ

抱きしめてるその想い離さずに
言葉、間に
巡る日を想って

眼差しのその先に世界
り回る日も"処"に居る気付いて!
流星に手を振って処に咲く事を決めたスターゲイザー

当時はメロディばかりを気に入り、ミクの聞き取りづらい電子音も相まって歌詞に気が向かなかったが、歳を重ねた今になって聞いてみると我が複雑たる心境に非常にマッチしておりエモい気分になる。そして私は当時とは何もかもが違っておりめておちゃんである。流星と星をみるひと、運命じみたセンチメンタリズムを感じずにはいられない。

 

捻くれてはいたものの、やることなすこと猿真似の域を出なくも、純粋無垢で未来への希望に溢れていた当時――とは違いたくさんの事が変わってしまった。変わってしまった事は数限りなく、今では本当にそうだったかすら定かではない。

少なくとも言えるのは、生きる為の理由が圧倒的に少なくなったのは確かである。

 

変わってしまったことの1つ、私は純真を噛み殺し鬼になった。

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比喩である。ただ鬼のように怒り狂った。狂人の真似をすらばその人は狂人である。鬼のように笑い酔った。ならばそれは鬼なのだろう。

平野耕太HELLSING」でアンデルセンアーカードに言う「鬼が泣くな。泣きたくないから鬼になったのだろう。」人は泣いて涙が枯れて果てるから、鬼になり、化け物に成り果て、成って果てるのだ。人であることはつらい事である。

憤懣やる方ないとはこの事だった。悲しいから泣きたくはなかった。

 

M・ゴーリキーによればレーニンは非常によく笑う人物だったという。「なにをなすべきか?」コミュニズムの為にそれを探求した彼には笑いが必要だったのか。私は何をなすべきかは知っていたつもりでいた。泣きたくなかった。だから笑った。

ウンベルト・エーコ「醜の歴史」によると笑いとは、農民達にとっての代表的な娯楽だったという。私はオールデイおおはしゃぎ馬鹿笑いをすることに決めていたが、泥臭い農民ではなく、やんごとない美しい人になりたかった。

人は琴線に触れる程に美しいものを見たとき、それを星に例えるのが常である。

私は星になりたかった。だが星にはなれなかった。だから見送った。

 

2.何でもない

このブログを読むような奇特な方はとっくの昔にご存知だろうが、私のHNは「めてお」という。稀に「川崎めて仟」や他の名義で活動したりもするが、基本的にはめておで通している。かわいいのでちゃんを付けてめておちゃんである。

 

言うまでもない事だと思うが、めておちゃんはあくまでもネット上で生きる為に生み出された人格であり、素の私とはやはり違う。誰しもネット世界ではペルソナを被る。その形は千差万別だろうが、大なり小なり現実と呼ばれている世界での振る舞いとは差異が生じる。

めておちゃんは才気煥発でかわいい女の子という設定だが、私はそうではない。身も蓋もない話だが、才気煥発でかわいい女の子――そうではない私がめておちゃんを演じている。演じるのに疲れたり、演じたり。自暴自棄に成ったり。

 

本稿はめておちゃんの歴史と中の人――私について書く。

 

私は地方の労働者階級に転落した元プチブル家庭に産まれた。

プチブルだけあって、母親は文化的な事を好んでいた。彼女はミュージカルに出演し、家ではオルガンを弾いていた。小学生に上がってから公文式に通わせ、ピアノや水泳、空手などの習い事をさせたが、どれも大して上手くはならなかった。彼女はかなりのお人好しではあるが思慮も配慮も今一欠けていて、そして時々凄まじいヒステリーを起こした。それには悲しくなるほどの暴力が伴った。ヒステリーの度に彼女が大切にしている筈のぬいぐるみに当たるのが悲しかった。

彼女は私に対して美しくある事を望んだが、私を美しくは産まなかった。少なくとも私が望んだようには。私は控えめに言えば丸顔で品がなかった。有り体に言えば輪郭が不細工だった。

 

父親はいかにもなパターナリズムの強い風土で育った男という感じではあり、人間的に卑俗な部分も多く言ってやりたい恨み言は1つや2つでは済まないが、本質的に悪い人間ではなかった。アメリカに住んでいたならドナルド・トランプを支持する田舎のおやじ、というようなヤツだろう。

彼なりに子供の為と考えた結果だろうか、県内ではあるがたくさんの場所に連れて行って貰った。ヒステリーを起こして虐待まがいの事をする母親から守ってくれたのはいつも彼だった。彼はゲームが好きだった。今で言うレトロゲームがたくさん家にあった。晩年はトルネコの大冒険2ルーチンワークのようにプレイしていた。死ぬ直前までゲームをしていた。操作する人がいなくなってただただ足踏みを続けるだけのトルネコが哀れで電源を切ってやる決心がつくまで結構な時間が掛かった。

 

私は地方に産まれた事が嫌だった。退屈だった。保守的な風土が身に馴染まなかった。田舎者の誹りを受けるのが耐え難いと思った。アニメも放送されない楽しいイベントもない。中卒でもいいから都心へ出たいとさえ思った。田舎には田舎なりの楽しみがあるとは言うが、私はそれを楽しむ事を到底望めはしなかった。

 

だからか小学生の頃から2chに触れ、サーチサイトでSSを読み、NHKにようこそ!でゲラゲラ笑い、ネットゲームに嵌り、オープンしたばかりのYoutubeニコニコ動画を見て目を輝かせていた。じきにスカイプで同年代の人たちと通話することも覚えた。インターネットは狭い鳥籠から解き放たれる唯一の手段だった。地方に縛り付けられている事は悔しくとも、Twitterで楽しそうに都会で生まれた生を堪能する陽キャ達を見るのは眩しくて遮りたくなるも、それでもネット世界に触れる事は楽しかった。

 

シェイクスピアにより繰り返し語られるテーゼ――この世は舞台。人はみな役者。

でも自分の役は?演じる役割、それはどうやって決まる? いわゆる決定論的な運命という奴だろうか。運命によって人生の役を押し付けられるのか?もし選べるならば、どうせ演じるなら、凡百よりも千両役者が良いに決まっている。

 

結局幾ら不平等へ対する怒りを表明していても、母親の彼氏に包丁を向けられるような子供、金銭的な事情で夢を諦めなければならない子供に対してわかったような憐憫の情を表明していても、結局それらは全部かつての私に対する慰みである。

 

私にとっての世界は、文化的に二級市民である事を強いられる地方ではなく、電子の海がほんとうだった。そこでほんとうの自分を演じようと、いや生み出そうと思った。

ここでなら星になれると思った。例え<現実界>の裁きに触れて墜つて燃え尽きようとも。

 

馬鹿な話である。だがこれが幻想に支えられたイデオロギーの恐ろしい効用――無視しがたいものを無視させるのがイデオロギーだ。

夢野久作の短編「何でもない」の主人公 姫草ユリは何でもない事に苦しみ、何でもない事で死んでいった。それを馬鹿だと笑うなら、等しく笑ってやるべき奴はごまんといる。私にも嘲笑!?ええ、いただきます!!

 

 3.ネト充のススメ

思い出す。初めて本格的にプレイしたオンラインゲームが、mabinogiである。

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中々に可愛らしいグラフィック、広大な世界、そして自分の周りを通り過ぎていく血肉の通った人間が操作するキャラクター達。プレイすればプレイするほどのめり込み、ネトゲって何て楽しいんだ。こんなに楽しい事が他にあるだろうかとさえ思った。

 

そうしたら、驚く事に本当になかったんだ。

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だいたいこんな漢字

 

mabinogi以外にもラテール、エルソードなど様々なネットゲームを遊んだ。

当時チャットで知り合った同年代の人達とスカイプで会議を作り通話していたが、それが面倒になるほどにネットゲームは楽しかった。喋ると素の私が出てしまう、当時はめておちゃんというHNではなかったが、出来る事なら星でいたかったと無意識下で思っていた。

 

もう殆どの人が今何をしているのか分からないけど、色々な人達と通話したり、ゲームの中で一緒に冒険したりもした。問題もたくさん抱えた。円満に解決できたり、時間がなぁなぁにしてくれたり、解決出来なかったり。恨み言をぶつけられたり、リアルでの友人になったり。オブッセッションを晴らす為に邁進し続けた日々だった。当時は意識していなかったが、生き急いでいた。

 

憧れの人も何人かいた。ギリシャの詩聖ホメロスやラテンの詩聖ウェルギリウスに比類するほどに機知に富んだ、咳唾珠を成すような上品だけど居丈高でない人。ひたすらに優しくかわいらしい人。こちらが想定した最低のラインを下回るくらいマジキチな人。徹底的なプロ根性でキャラクターを演じ続ける人。

 

そういった人になりたいと思った。陳腐な言い方をすれば何者かに。立ち振舞いを真似た。当初は猿真似でしかなかったが、それは着実に血肉となっていった。猿真似が抉り出せない血肉に変わっていく事を少しずつだが実感していた。

 

ネット世界にのめり込む余り、私の人格は2ch、VIPやふたばなどに毒されリアルでも奇天烈が高まっていったが、不思議とそれがいい方向に受け入れられて、友人はそれなりにいたし、オタクが原因でからかわれる事も少なくはなかったが、変わっていて面白いと好意的に受け止められる事も多かった。それでもネトゲはげんじつおんらいんよりも遥かに楽しかった。だからどんどんネットがリアルを侵食汚染していった。

 

スラヴォイ・ジジェクの考えを借りると、ヴァーチャル世界での立ち振舞いこそよりリアリティのあるものである。大方の人間はそれを唾棄すべき考えとして退けるだろう。ネット世界など全てが虚構――そう考えるのが一般的ではないか?だがそうではない。

人間は現実の物自体である<現実界>を直視出来るようには出来ていないのだ。それを覗いてしまったが最後、クトゥルー神話の邪神を見た旅人のように狂ってしまう。だから、そんな恐ろしいものを見てしまわないように覆いを掛ける。幻想のヴェールを。ヴェールを漉して見たものを便宜的に現実と称しているだけに過ぎない。

 

時としてリアルよりも、ネット世界が重く意味を持つ。

 

MMOやMOではないが、FPSペーパーマンやTPS鉄鬼などにものめり込んだ。そこでの戦いの日々は今もなお昨日の事のように思い出せる程あざやかだ。

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当初は若く、淫乱メテオというHNでした。ここからやがてめておちゃんへ。

 

ネットで生きる為に付けた仮面が、やがて顔面を覆い隠して癒着するのでありまする。

 

ゲーム内でカタルシスを得る度に、銃弾が敵の頭を撃ち抜く度に、脳髄に花を植えた。のめり込む程狂い咲いた、頭の中にお花畑ができた。もうそれは殆ど枯れてしまったけれど。その燃えカスくらいはたくさん残っている。

 

18を超えれば東京へ進学し、やっとリアルで生きられると思っていた。それまではネットの世界で生きる算段を立てた。だが諦めていた現実も、シャワートイレッツとの出会いと、彼らと共に過ごした鬱屈と暴動の日々は存外に刺激的なものだった。

 

4.ファンタジスタドール・イヴ

悲劇的な出来事が起こった。自分は20まで生まれた地方に縛り付けられてしまう事が確定してしまった。都会に生まれたエスタブリッシュメントには分からないとは思うが、これがどれだけ悲しいか。もういい、構造主義だの、負の再生産だの、詳しくは書くまい。ただ私はやりたい事も何一つできなくなったと思ったし、兎角疲れた。今現在20までの生活を振り返ってみると、凄く虚しく、虚しさゆえの愚行の数々に罪悪感がある。真っ直ぐな祈りを妬み心満たす罪を幾つも犯したのだ。私は罪人である。私は罪人である。私は罪人である。

 

罪とはなんぞや、と常日頃自問自答しているが、苦しみの中でも幸せになろうともがく人々を否定し誹り続けてきた。

具体的に言うならば、例えばあの頃の私はニコニコ動画の歌い手文化やボーカロイドを好む人を馬鹿にするような言動を繰り返し、ほんの一時では有るが中国や韓国の方への根拠のないヘイトスピーチを行った。何より自分を好いてくれた人の期待を裏切り、上手く言えないが修羅を引き受けるようなふざけた道へ進んでしまった。幸せな時間を、捨ててしまった。心から謝罪したい。もう幾ら謝ったところで謝罪は届く筈もなく、眼の前で贖罪の儀式を試みようとどこにいるか探したところで見つからないのだけれど。

 

いつの事だったか、ラブレターを貰った。

ラブレターをくれた人はかわいそうな人だった。こんな人間を好きになってしまうのだから、さぞ苦しみに満ちた人生を送ってきたのだろう。先ず抱いたのは哀れみ。顔も声も中々可愛かったし、趣味も合いそうなので、暇つぶしの為に付き合ってみた。

高校に行っていないという。腕には多数の切り傷の痕があった。母親は水商売をしていて、自分に愛想を尽かして昔の恋人の為に、家を出ていったという。自分は母親とそっくりで、同じようになってしまうかと泣いていた。

 

ラブレターをくれた人と3年弱付き合った。その人の、あまりの平々凡々さに、涙が出てきた。袂を分かつ、その最後に言った「自分の好きな事をしてね。」

この事を書くのはお互いにとって非常に不愉快な事なのでこの辺にしておくが、最後の最後まで心の底から哀れだと思った

 

ふとあるセンテンスが脳裏に浮かんだ――この負け犬が!!!

5.イデオロギーの崇高な対象

久々にエルソードに対するモチベーションがふつふつと湧き上がり、放置気味だった頃とはうってかわって毎日深夜までプレイしていた。それは何故か?

 

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私にとってのレギーネオルセン、ルーちゃんが実装されたからだ。

転職ルートによって姿や雰囲気が異なるルーちゃんだがどの職業も最高と言っていい。ゲームのキャラクターとしても強力で動かしがいのある素晴らしい完成度である。

 

ひと目見た瞬間、私は心奪われた。かわいさのイデーに脳が直結したと思った。この感情はまさしく憧憬。彼女を綺羅星のようだと思った。ダンテ・アリギエーリもルーちゃんを知っていれば神曲など書かなかったに違いない。

ルーちゃんの為に時間と金を湯水のように注ぎ込んだ。実装して以来、殆ど毎日のようにファンアートを収集し、最早ルーチンワークとなっている。

 

私の心の奥深くに眠っていた美しいものへの憧れが再度目を覚ました。

ルーちゃんに憧れルーちゃんのようになりたいと思ったが当然私はそうはなれなかった。肉体の清らかさ、それら既にもう無く。ああこれは生得的に与えられなかったものであるよ。もう二度と手に入らないものであるよ。強い光は深い影を生む。光輝たる美しき選ばれたものは、選ばれなかったものの羨望と絶望を掻き立て何か恐ろしいものを育てた。

 

ルーちゃんに魅せられていくに比例して、私の中の正気が崩れていった。

ゆえに枷は解かれた。あとは気の向くままに始めていこう。

私は、正義を得た。

 

第二章 すくいきれないもの

6.ご自分だけがヒーロー 世界の真ん中で終わるまで出突っ張り自分が見てる

絶望とは極めて弁証法的な病理である。

俗な言い方をするならば、希望あるゆえに絶望が可能なのだ。キルケゴールによると絶望とは自己の喪失である。私は正気を失った。いや、正気を取り戻したのか――目からうろこが落ちたのか、それともうろこが飛び込んだのか。いやもう、どうしていいか。私には分からない。性的その他様々な抑圧の息苦しさ。私は罪人であり、病む事にも取り返しのつかない罪を背負う事にも疲れてしまった。有り体に言えば絶望しているのである。

 

でも、もう希望が潰え駄目だと思ってから、何だかやれているのも事実である。

20を過ぎても死にきらないくらいには丈夫な事が少し恥ずかしい――BUMP OF CHICKENの熱烈なマニアという訳ではないが、彼らは素晴らしい詩人だよ。

 

君が見たから 光は生まれた

BUMP OF CHICKEN「Hello,world!」より

 

貴殿らは空虚を抱えているのだろう。

愚かしい過去に消耗し、良かれと思って悪を成し、余りにも多くを望んで、余りにも僅かしか得られず。空虚を抱えているのだろう。

しかしデカルト的コギトは本質的に空虚である。そんな空虚な貴殿らが見たからこそ、光は生まれたのだよ。

 

人間は生まれた後、あらゆる象徴化やイデオロギー、文化を押し付けられ植民地にされる。だがそれと完全に同一化する事は出来ない。ファルス羨望は根本的に不可能だ。

あらゆるものからの距離がある。その距離によって出来た僅かな空白が人間の主体である。

唯物論者は世界にはただ物質が有るという。ではヘーゲル――マルクス以降はどうだろうか?弁証法唯物論者は世界は物質であるが、物質以外も存在するという。では何があるのか?無が存在するのである。

その無があるがゆえに、対象aが生まれ、イデオロギーの崇高な対象を獲得し、仮想化しきれない剰余が発生するのである。

 

選んだ色で塗った 世界に囲まれて 

選べない傷の意味はどこだろう

ご自分だけがヒーロー 世界の真ん中で

終わるまで出突っ張り ステージの上

どうしよう 空っぽのふりも出来ない

 

ハロー どうも 僕はここ

選んだ――と自分では思っている色彩の中で、責苦を受け傷つく我ら。

結局のところ自分の味方を最後の最後までしてやれるのは家族でも恋人でもなくどこかにいる筈の眼の前に現れないヒーローではなく、自分だけなのである。闘争は続き、それは決して終わらない永遠の夜戦であり、虚無は続く。それにゆえにいつまでも虚無の元へ滞留することもできない。

 

失う事から全てが始まり、何も終わらない、戦いを続けろ。

 

7.「ねぇ今何処? 」「地球ん中」

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ひねくれた小学生のような回答である。それに対してはこう続く。

「宇宙飛行士じゃないから、オゾンより下なら問題ない。」

もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述は、ロベスピエールに対してこれほどまでに誇り高くはないであろう。

ところがその歴史は、繰り返されることのないものについて記述されているから、血に塗れた歳月は単なることば、理論、討論と化して、鳥の羽よりも軽くなり、恐怖をひきおこすことはなくなるのである。

すなわち、歴史上一度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロベスピエールとの間には、はかり知れないほどの違いがある。」

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(P.6~P.7)

永劫回帰――さて、どう捉えようか。

ごく一般的に考えるならば、人間の人生は一度きりである。だからこそ、差異を伴った反復以上の、処女体験というものは限りなく重くなってくる。

 

あの童貞野郎は何度も何度もフランス人の首を跳ねる為にやってくるのだろうか?

ではロマンチックな見解を提供しよう。フランス革命の意義については諸説あるが、私が最も注目したい点はここだ――ロベスピエールは象徴的秩序である王の首を刎ねたのだ。クンデラニーチェの概念である永劫回帰を持ち出して、そこにロベスピエールを引き合いに出した事には意味がある。彼は王の首を刎ね、そしてニーチェは神の首が切り落とされている事を叫んだのだ。神が死んだことは道徳の腐敗により帰結したものだが、ここでイワン・カラマーゾフの「神がなければ、すべては許される。」を思い出そう。

 

王の首は刎ねられた、神も死んだ。だからすべては許される。だが人はそれには耐えられず、支配的なイデオロギーに縋り付く。ラカンの言葉を借りるなら我々は彷徨える騙されない人なのだ。彷徨う苦痛に耐えかねて、再び隷属へ自らを置くのだ。これを捉える為にはヘーゲルの視点が欠かせない、逆説的に「神がいなければ、すべては許されない。」のである。

 

陳腐な表現を使うなら、我々は架空の神に祈りを捧げている。

 

人々が頼れる<大文字の他者>の不在、つまり信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約が根本的に消滅している状態である。その結果?キッチュ野郎の増大だ。プラハの春の激動を受けたクンデラは――ありもしない美的な俗悪なもの(キッチュ!)を憎んでいた。

 

だから首を刎ねに来る。何者かが、歴史の意思とでも言うべき強制力を持って、異なる形で。

フランスの時はロベスピエールがやってきた。100年程前はコミュニズムが<大文字の資本>の首を鎌で頭を槌で殺そうとやってきた。

私的な事だ。私が捉え損ねていた象徴を、刎ねられる時がやってきた。

全く予想していなかった形で。私の予想だにもしなかった秩序の首が切り落とされた事に関しては、また歴史の終焉を感じたら詳しく語りたい。

 

当たり前だが、自分で自分の顔を直接見る事はできない。だが、幸運な事にも、象徴的なものと完全なる同一化はできず、ゆえに首を刎ねられ失墜した象徴界の"もの"はまじまじと眺める事ができるのだ。

 

私は宇宙に居を構えている訳ではなく、地球ん中にいる。

人は地上から星を眺め思いを馳せるのだが、宇宙飛行士にとって星はどのように見えるのだろうか?想像もつかない。

少なくとも未だ私はオゾンより下に居て、オゾンより下で星を眺めているのだ。

 

8.私は運命って言葉が好き

偉大なるイタリアの詩人ダンテの神曲の地獄編から参照しよう。

暴食の罪により地獄へ堕ちた大食漢チャッコに、ダンテは良識ある人達の運命について尋ねる場面である。

そこで私はその者に、「さらに私に教えてほしい、

できれば私にもっと多くを話してもらえないだろうか。

ファナリータやあのテッギアイオ、生前あれほどに傑出していた二人のことだ、

ヤコポ・ルスティクッチ、アッシリーゴ、モスカ

その他の人々、善き政に尽力した有能な者達のことだ、

彼らが今どこにいるのか教えてほしい、どうなっているのか知らせてもらいたい。

というのも天空が彼らに喜びを与えているのか、それとも地獄が彼らを蝕んでいるのか、強い思いにかられて私はどうしても知りたいからだ。」

 

するとこの者は、「さらに黒々とした魂どもの中にいる。様々な罪がその者どもを奈落のそこで押しつぶしている。

それに見合うだけ深く降りていったところで、君はその者どもに会えるだろう。」

神曲「地獄編」第六歌より

飢える人々の苦しみには目も向けず、己の限りない欲望のままに美食を貪った悪人よりも、人道主義者達の罪は遥かに重く、様々な罰が彼らの背中の上を走るのだ。

 

罪とは、罰とは?陳腐な問いかけだが、それらは一体?得体の知れない化物のようなものである。確たる根拠すら疑わしいものの為に、我らは罪人の誹りを受けて、罪悪感に苛まれ輝かしい筈の未来を台無しにするのである。

 

悲しいかな、運命と呼ばれるものの強制力によって人は罪を犯さずるをえない事が多々ある。身近な例で言えば、貧困ネグレクト家庭に育った少年の万引きがそんなに悪いのだろうか?最近まで尊属殺が通常の殺人よりも重い罪とされていた事に関してどういった態度を取るべきか。

 

罪と罰の問題は、ようは決定論的な運命の問題だろうか?

運命ゆえに罪を犯し、罪を償い、罪を赦すのが我々か?

 

ここは幾原邦彦の傑作、輪るピングドラムから運命に関するポエムを幾つか引いて、この長ったらしい記事のフィナーレへと繋ぐのが相応しい。

僕は「運命」って言葉が嫌いだ。
生まれ、出会い、別れ。成功と失敗。人生の幸不幸。
それらが予め運命によって決められているのなら、僕たちは何のために生まれてくるんだろう。
裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争の真っただ中に生まれる人。
それらが全て運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。
あの時から僕たちには未来なんて無く、
ただきっと何者にもなれないって事だけがはっきりしてたんだから。

輪るピングドラム 1話より

人は何のために生まれるのか。
あくせく毎日を過ごすためだけに人が作られたのだとしたら、
それは何かの罰なのか。それとも皮肉なジョークなのか。
そんなんじゃ、遺伝子にプログラムされた生存戦略に忠実な動物の方が、よっぽどシンプルで美しい。
もしこの世界に神様と呼べるものがいるのなら、そいつに一つだけ聞きたい。
人の世界に「運命」は本当にあるのか。
もし、人が運命を無視して、本能も、遺伝子の命令も無視して、誰かを愛したとしたら
神様、そいつは本当に人なのか?
「…なんてね。」
俺は「運命」って言葉が嫌いだ。

輪るピングドラム 1話より

あたしは「運命」って言葉が好き。
だって、「運命の出会い」っていうでしょ?
たった一つの出会いが、その後の人生をすっかり変えてしまう。そんな特別な出会いは偶然じゃない。
それはきっと、「運命」。
もちろん、人生には幸せな出会いばかりじゃない。
嫌な事、悲しい事だってたくさんある。
自分ではどうしようもない、そういう不幸を運命だって受け入れるのは、とても辛い事。
でも、あたしはこう思う。
悲しい事、辛い事にもきっと意味があるんだって。
無駄な事なんて一つもない。だって、あたしは運命を信じているから。 

 輪るピングドラム 2話より

因果律、充足理由律、決定論。運命に関する議論はあらかた出尽くした。

キリスト教徒の一派にカルヴァン教徒というのがいる。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする予定説が真理である。――が、未来は決定されているにも関わらずカルヴァン教徒は、何か不安を払拭するように熱心に信仰活動に邁進するのである。それは、何故だろうか?

もしも――偶然に――ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生みだされる。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。

スラヴォイ・ジジェクポストモダン共産主義』(P247)

己の運命に苦しめられ、数えきれない程の愚行を犯し、余りにも僅かしか得られず、絶望の余りこれから何をしていいか呆然と途方に暮れている私はどうすればいいだろう。

何者にもなれず、誰にも愛されなかった貴殿らへと、そして私へ。

君はまだ歌えるか。

星の輝き見つめたら
向こうもここを見てた
だからって逸らせない
そう生きてく 例え誰に語られずとも

深淵が覗き返している。私も臆せず覗こう。

覗いて、それは終わらない。何も終わらない。何も。戦いを続けろ。

どれだけ苦しくとも。永続的な平静は、無いと知っている。戦いを続けろ。

コレは何だろうか。終わる事のない夜戦。永遠に続く戦い。それが運命か?解る事は唯一つ。戦いを続ける必要がある。戦いを。終わる事のない夜戦と永遠。

 

フィナーレ 皆に笑顔を

私は「運命」って言葉が好き。
信じてるよ。いつだって、一人なんかじゃない。

輪るピングドラム 24話より

あなたは、私である。他の可能性を秘めた私である。そんな貴方が、まだ、終わっていない事に。私は感動を覚える。あなたは虐げられていた。だからこそ。だからこそ世界を変えられる存在である。私達が、私達が望んだ存在である。満足した人間が何を望める?――現状維持だけである。我々は、かつての我々がすくってくれる事を待ち望んだ、弁証法的存在である。