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揺らせ激しくクンクン 君の...

 大学一年で恋をした京都の美少年も、本当をいうなら、男の子に限るなら初恋であったけれども、しかし、私は、自分の初恋は高校二年のとき、同級生の少女にしたのだと思っている

 すごくほっそりして、色の浅黒い、ちょっと目がガンチの美少女だった。いや、厳密にいって万人共に認める美少女だったかどうかはわからない。私はその人を、私がそのころ好きだった俳優(男!)に似ていると思いこんでから、好きになったのだから。じっさいは、たいして似てもいなかったはずである。

 その人と私は一年に二回とは口をきいたこともなかった。どういう性格で、どういう家の子なのかもいまだに知らない。静かだが知的で、成績もよかった。

(中略)

 しかし彼女については、とにかく、友達になろうと働きかけることさえしなかった。二年間、一方的に見つめ、あれこれとかって悩んだり悶々としたり、歌を読んだり詩をつくったり彼女のことを小説に書いたりし、あげく、いつのまにか熱がさめて、彼女をみてもまっ赤になることはなくなっているのにふと気がついたのである。とても、レズというようなものではなかった。あれは、そもそも、何だったのだろう。

 あこがれ、というには美化していなかった。彼女の肩のフケまでちゃんと気がついていた。幻想に恋している、というには、夢見る事が少なかった。それでいて、何の新しい発展もなく、その思いは二年間もの間、つづいた。中島梓 美少年学入門 173・174項)

 人間の、特にこどもの頃は、無条件なもの――とりわけ反省し得ないものに胸をつんざかれる事が誰しもあるのではないか。

 

数年前、私はどこでだったか、あるモノクロの実写映像作品を見て途方もない奇妙な感覚に陥った。仔細はよく覚えてはいないのだが、瓜二つの容貌をした双子のおばさんが、二人の共通する幼少期の過去について同時に語る、というものである。

奇妙な事に、その内容はどんどん食い違っていく。細部が異なっているというレベルではない。話の大筋そのもの、行為の主体や対象すら大きく異なり、別のものへと取り違えられている。まるで全く違う出来事を体験しているかのように。二人がズレたタイミングで語り終えた後の間、静寂は不気味で居心地の悪いものだった。

 

中年を過ぎた人間にとって、自分の若い頃の思い出というのは、多かれ少なかれ事実から乖離している。敗北を重ね、やがて狂気とテロルへ陥った全共闘の時代を生きた老人達が、それを場当たり的な若さの暴走と辛酸を舐めた屈辱の記憶ではなく、正義へと拳を掲げた青春の日々として懐古するように。

 

 あこがれ、というには美化していなかった。彼女の肩のフケまでちゃんと気がついていた。幻想に恋している、というには、夢見る事が少なかった。それでいて、何の新しい発展もなく、その思いは二年間もの間、つづいた。

 この思いは一体何なのだろうか。美少年学入門の中で中島梓――栗本薫は、美少年に熱狂しその魅力を分析し、あまつさえ少年派宣言などしてしまうロマンティックな夢見る少女から、地に足の着いた大人へなっていく。初恋を回想している時の彼女は立派な大人となり、悲しいシニカルさすら漂わせている。

そんな大人になった彼女が、夢見る少女であった昔の中島梓の、子供らしい理想化もなく、ただあるがままのものを見つめて、訳も分からず胸を苦しめた初恋のようなものを、あれはなんだったのだろうかと思い返している。

 

よく分からない、無条件なものに惹かれた過去を、尤もらしい理由付けもせず(彼女なら幾らでもそれが出来るだろうに)、肯定も否定もせずに、ただただ不思議がっている。

 

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 偽の記憶を信じる人はそこに感情移入をする事で更に偽の記憶をあたかも真実であるかのように思い込んでい可能性があるという。

 多くの人が”過去の記憶を保持しておきたい”と願うあまり、この事実に目を背け、自身の記憶が絶対的な物だと信じてしまう。

 

記憶とは不安定なものだ。人はこうあって欲しかった、と、慰めるように記憶を少しずつ変えていくような気がする。私にも幾らでも心当たりがある。手当たり次第に膏薬をつけて、これで仕方がなかったと冷笑してみせる。

 

中島梓にとって恐らく何か意味のある記憶が、歪められなかった事に対して、少しうれしく思う。