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誇りの強要

「誇りを持て」という言葉を至るところで耳にする。

漠然としたイメージとしては、誇りを持つことはよいことのように思える。ポジティヴな自信があるという健全な印象を与える。それは個人を個人たらしめる重要なファクターだ。誇れるものがないよりはある方がよっぽど良い。私も誇らしい人間になりたい。

 

ただ、この言葉は私の知る限りでは大抵ナショナリズムの文脈で用いられる。

「誇りを持て」という言葉の含意は、自らの所属する団体への帰属意識を高める事へのプロパガンダであり、批判や検証を受け付けない宗教的な態度を要請する事であり、更に権威を高める為の罰則を根拠にした脅迫であり、傲慢であり、「コミュニティ」にとっての私利私欲への欲望である。

そこでは否定的な意見は権威とそれを持ち上げる「誇らしい」という感情によって抹殺される。

 

かつて私が所属していた学校では、全校集会の場で校長や教頭、教育指導の人間が前に立つ度に「伝統と実績ある我が校の一員である事に誇りを持ち、それに恥じないような生徒となる事」を啓蒙していた。

偏差値も大して高くない、校舎も古く、設備も上等なものとはお世辞にも言えなかった。褒められるのは図書館の蔵書量くらいだろうか。こんな学校を褒め称える人間が決して少なくないいらしいのは、地域の低俗世を表しているのだろう。

 

校則は前時代的で理不尽に厳しく、教員は人権意識や法の遵守という視野の欠けた野蛮な人間が多かった(授業も雑談もウィットに富んでいて面白く、生き方も好感の持てる先生もいたのだが、おかしな校風に対しては「まぁ、伝統だから」と消極的ながらそれに加担していた。)

ダブルスタンダードを振りかざし、差別意識を欠片も隠さない。そんな教員達のポリティカル・コレクトネスを著しく欠く発言――暴言も子供ながらに疑問に思った。私のようなアウトロー的態度の生徒に対して暴言を吐くのは、まぁ理解は出来る。権威に屈さない人間を権威は忌み嫌う。

ただ、学校の価値観に対して従順に従い、素朴ながらも勉学と部活に励む生徒が、なぜ容姿や生まれを教員から貶されなければならないのだろうか。

私も欠席が多い事を咎められ、暴力を振るわれた事がある。その教員は私が卒業した後の事ではあるが、教育委員会の糾弾を受け、退職させられたらしい。

非難すべき点は幾らでも思いつくが、この辺にしておく。

 

ただ一つだけ言うべき事は、この校風の目的とするところは、社会という抽象的な構造に対しての盲目的な忠誠心を受け付けて送り出す事だ。構造に対しての検証や批判的な視座は、マッチポンプ的に生き永らえている構造にとっては不都合なものである。

彼らの言う「誇りを持て」という言葉を翻訳すれば、権威に屈せよ、という事だった。

 

このエピソードだけなら、ただの時代に取り残され断絶された地方の悲しい出来事として、胸を痛めたとしても他人事として受け止められるかも知れない。

 

新右翼活動家に野村秋介という男がいた。朝日新聞へ押し入り様々な主張(ここでは割愛させて貰う)の為に立て篭り、「皇尊弥栄」を三唱後に拳銃自殺する。

彼の主張の中でこういうものがある「(GHQ・左翼的な自虐史観に対して)じゃあ子供達は一体何に誇りを持つのか。戦勝国側の論理ではなく自分たちの言葉で語らなくては。」

 

「子供達は一体何に誇りを持つのか」――彼は「誇りある国」を求めていた。これからの子供達の為にも。

 

昨今の世の中では「美しい国」など、輝かしい国体を目指すスローガンが多用されている。TV番組や雑誌などでは、日本人である事を誇らしく思うという内容の話が散見される。企業なども、我が社を誇りに思って、その一員である事を意識し、なおかつ経営者目線で働いて欲しいと主張するところは少なくない。その様相は、時折全体主義的なイメージが脳裏によぎる。

 

全体主義というのは、同質性・求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムが、合理的で効率的にコミュニティを維持する為に動いていると。専制や独裁制の変種でもなければ、野蛮への回帰でもない。近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだと、アーレントは説いている。

 

コミュニティは良いものだ。志を同じくした仲間と、楽しい時間を共有出来る。

楽しい時間を提供してくれたコミュニティには自然に帰属意識が芽生え、そこにいられる事を、誇らしく思う。

悪いのは、コミュニティへの参加を強要されることだ。

 

自由に参加、構成したコミュニティであれば、嫌になれば抜ける事も出来る。ただ、大きな枠組み、とりわけ国というものから抜け出す事は難しいし、国の動きは自分のあらゆる事に影響する。大きいがゆえに、自分では儘ならないそれに「誇りを持て」という。

 

抜け出す事が難しいと言えば、家族である。

家族という枠組みに対しても、一番に帰属意識を向けるべきものと信仰される。

親は子供に、自分達を誇らしく思って欲しいと冀う。同じく子供も、両親から愛され、誇りに思って貰える事を冀う。そのイデオロギーの前では多くの問題と悲鳴が見えないものとして、捻じ曲げられ、矮小化され、抹消される。

 

誇らしく思う事を強いるのは、誇る事だ。

誇るという事は、外面に向かって為される行為だ。

「ほら、こんなに凄いんだよ。こんなに幸せなんだよ。」と。

 

何が凄くて何が幸せなのかくらいは、自分で決めたい。