【開演Vib.】めておぶろぐ 【銀河ファイナリー】

Overwatch、プラチナの実力者。【暴力・円環・正義】の哲学を探求。現在リニューアル中。起訴は、やめてください。

【悲報】夢月ロアさん、方言被りに激怒して大阪府民を虐殺してしまうwwwww【みれロアを返して】

前回までのあらすじ!

にじさんじ所属の人気Vtuber夢月ロアは、後輩の新人Vtuber金魚坂めいろに対して「喋り方が被っている」「訛りが似ている」と因縁をつけいじめを開始。ついには引退まで追い込んでしまう……。夢月ロアは全ての方言を撲滅する事に決定。先ずは日本の癌である維新のアホキモナルシバカが跋扈する大阪から破壊し始めた……。

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何故ネトウヨがガルパンを愛好するのか?――ミリタリおたくが暴力を軽々しく扱う事について

  

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 めておはこにゃばちにんこ!めておだよ!

 さて、賢明なるめてろぐの皆様は、ガールズ&パンツァーというアニメをご覧になった事がお有りだろうか?私は熱心なファンという訳ではないが、TVアニメ版は全て見たし、OVAや劇場版も視聴済みである。ミリタリーに余り興味はないのだが、スポ根アニメとしてなかなか楽しめた。

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イデオロギーのタマを切れ!~DA PUMPから学ぶ政治への撹乱~

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 1992年にジョー・イエローから発売された曲のカバーである『U.S.A.』で再ブレイクを果たした、ダンス&ボーカルグループ『DA PUMP』を知らない者は滅多にいないだろう。かつてm.c.A・Tがプロデュースし、活動の開始は90年代の後半からと息が長いが、活動休止やメンバーの脱退、加入などを繰り返し、初期からは大きく様相を変えた。メディアに露出しない時期も多くあったが、2019年の『第70回NHK紅白歌合戦』では16年ぶりに出場し、見事に返り咲いて再び精力的に活動を行っている状態である。

 かつてからはメンバーも一新され、今現在の『DA PUMP』はいわば新生『DA PUMP』と言ってよい。過去から読み替えられ、新たなスタートを切った、ヒップホップシーンを牽引する再び注目に値すべき存在だ。

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京アニを燃やした人々 非合法武装組織の潜在的シンパ、投票に行かない人たちPart3

終章:京アニを燃やした人たち――諦めの常態化に抗って

 本邦の投票率の低さを嘆き、若者に選挙に参加しよう!と呼びかける左派に対する反論として、よく次のようなものがみられる。「もし若者が投票に行ったところで、極右ポピュリズム政党である自民党や、性質の悪い冗談のようなN国を支持するぞ!そうしたらどうするんだ?」なるほど、左派にとってそれが現実になれば、手痛いトラウマ的な事件になるだろう。ジャン=クロード・ミルネールは、体制がいかにして一九六八年の脅威を払拭することに成功したか痛切に認識している。ミルネールの悲痛な結論はこれである。「許可だの支配だの平等だののことは、もう聞いてくれるな。わたしにわかるのは力だけだ。ここで問いたい。手打ちをした著名人や連帯した強者に相対して、どうしたら弱者は力をもてるというのか?」

 しかし、左派は右派ポピュリズムが蔓延る世の中を打開しようと、棄権票になっている若者票が動かそうとしている――という見方は皮相である。それは何故か。「投票に行こう」、という呼びかけは、主権を持った存在として自覚を持ち思考せよ!というメッセージだからである。なつかしいサルトルの言葉を用いれば「アンガジュマン」を通して、構造的な主体として陶冶されていく。山本太郎が「人は変われる」と言っていたが、それは投票=政治活動への参加(そしてハイデガー風にいえば、現存在が世界を認識しはじめる……)

 投票を棄権するということは、政治を変える手段を普通選挙以外に求めるということだ。つまりは普通選挙によらないテロル、あるいはその他の手段。投票に行かない層は非合法武装組織の潜在的シンパ――というのは、まったく正しい認識である。そしてパニックの度に現れる自警団気取りの連中は、不当な正義感と、平常心、そしてインテリジェンスの欠如により発生する。

 

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 個人である事は、苦難を伴う。ドゥルーズ哲学ふうに言えば「多いパンの代わりにもっと少ないパンを 解放の代わりに隷属を」。それが楽といえば楽であろう。

 しかし主体的に考えられなければ、我々は集団の狂気に染まってしまう事は、歴史が幾度となく教えてくれたことだが、うんざりするポスト・トゥルースやポスト・イデオロギーを装ったデマゴギーはその重要な教えを覆い隠してしまう。

 2014年衆院総選挙における自民・安倍内閣のキャンペーンが、景気回復のためには「この道しかない」と訴えてきたことは皆様も記憶しているだろう。労働・金融をめぐる大胆な緩和政策が唯一の「道」であるというこの主張は、実は80年代の英国でサッチャー政権が規制緩和を推し進めた際に用いたスローガン「there is alternative」と不気味なほど似ている。「この道しかない」と信じて進んできた結果が、現在のおどろくほどの経済の停滞、GDPの低下をもたらしたことは、最早認めざるをえない。

 この言葉の含意は、もう単なる政治的レトリックに留まるものではない。冷戦終結フクヤマの歴史の終わりを経て、2008年の金融危機を経てもなお、資本主義社会と異なる生き方の提示を事実上諦めてしまった政治文化の倦怠感を一言で纏めた表現に思われるからだ。

 この道しかない。選択肢があるとすれば、新自由主義経済の中でだ……。

 トルコでは軍対エルドガン、東欧ではバルト諸国、ポーランドウクライナの新たな原理主義者対プーチン、フランスではブルキニ対トップレス、シリアではアサド対ダーシュ、合衆国ではドナルド・トランプヒラリー・クリントン自民党安倍晋三石破茂... ひとは選択肢が提示されるとどちらかを選んでしまいがちだかが、ここで最終的にとるべき姿勢は偽りの道への無関心である。

 その格好の例となるのは、1920年の終わりに、党路線からの右翼的な逸脱と左翼的な逸脱とではどちらが悪いのかと尋ねられたときに、「どちらも悪い!」と言い返したスターリンである。こうした偽りの闘争の背後には、依然として、真の変革を生み出す何らかの可能性が潜んでいるのだろうか。潜んでいる。なぜなら、こうした偽りの闘争の役割は、まさしく真の闘争の勃発を抑えることだからである。

 我々がおそろしい現実を理解する為のアプローチは、勃発した事件の概念をひとつひとつ検討しながら、すべてに共通する行き詰まりを明らかにしてくことだろう。そうすれば我々の旅は、普遍性そのものの変容をたどる旅となり、ヘーゲルのいう「具体的普遍性」つまり、「特定の中身を入れた、たんなる空の容器ではなく、その内在的な対立、行き詰まり、矛盾の展開を通じてその内容を生み出すような」普遍性に近づけるのではないか。

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 私はアニメや小説などのおたく文化を論じる時にこういった批難をされたことがある「わざわざ哲学や現実の政治などを混じえる必要があるのか……?その作品内や、せめてクリエイターに関連することだけ話せばいいではないか!」

 サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』事件などを引き合いに出すことは今回は控えるが、そもそも創作物とは現実と相互浸透するものであるので、哲学や政治を語らずに作品を語るということはまったくもってナンセンスである。

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 最近邦訳が出版されたノーム・チョムスキーの『メディアとプロパガンダ』は「大企業によるプロパガンダ」と「主流の学問」が合同してうみだす合意の捏造によって支えられ作り出される嘘の教育を批判するという、こんにち必須の営みを代表するものだ。こういった本はますます人間の尊厳を貶めようとする現実の鎖を断ち切ろうと抗う人々に、自らを守る武器を与えてくれる。

 アニメやまんがに触れる時ですら、主体性を発揮せず、批判的思考が出来ない場合、そうしなければ飼いならすための教育やイデオロギーにただ従うだけの、思考停止のエピゴーネンと化してしまうだろう。

 2003年のタイム誌上でのブリトニー・スピアーズの次のような発言を、我々は断固として否定すべきである。「サンダンス・フィルム・フェスティヴァルはおかしいよ。映画を見るたびに何かそいれについて考えなくちゃいけないなんて」

 こういった発言が称賛されれば、権力者たちはアドルフ・ヒトラーの次の発言を思い出してほくそ笑むことだろう。「権力者にとって民衆がなにも考えないことほどありがたいことはない」。

 抗う為の些細な活動として、私の活動はある。

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 資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして、偽りの称賛を浴びてきた。にも関わらず、精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けてきたのだろうか?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を馬鹿正直に信じてきたのだろうか?

 今を遡ること1世紀、フロイトは自分がなしとげた無意識の発見を近代ヨーロッパ史に位置づけるために、人間は三度続けて屈辱を味わってきた、あるいはフロイト自身の言葉を借りれば「ナルシズムへの3つの打撃」を受けてきた、述べた。最初にコペルニクスが、地球が太陽の周りを回っていることを論証し、人間を宇宙の中心的位置から追い落とした。次にダーウィンが、人間は無目的な進化によって出現したことを証明し、人間を生物界における特権的地位から引きずり下ろした。最後にフロイトが、心的過程においては無意識の役割が優勢であることを暴露し、自我は自分の家の主人ですらないことを明らかにした(『精神分析入門』の第十八講などを参照されたい)。

 最新のテクノロジーの飛躍的進歩は、人間が抱いているナルシスティックな自己イメージにさらなる屈辱を次々に与えているようだ。ノア・ハラリが「無知」というテーマについて語った文章によれば、過去数世紀の間、自由主義の思想は、合理的な個人というものに絶大な信頼を置くようになった。この思想は、独立した合理的な行動主体として人間を描き出し、この神話上の生き物を(=知っていると想定される主体)現代社会の基盤に仕立て上げた。民主主義は有権者がいちばんよく知っているという考えの上に成り立っており、自由市場資本主義は顧客はつねに正しいと信じており、自由主義の教育は自分で考えるように生徒に教える。しかしこの後期資本主義における「合理的な個人」がどうやら幻想であるというは、ナルシズムへの4つめの痛恨打ではないか。

 「日本には奨学金があり、公教育の制度がある。階層は固定化されていない」ゆえに貧乏な環境でもなんにでもなれる... その物語を、信じてはいないが、言いたがる人たちがいる。我々は欺瞞に気付いてはいるが……なにをどうすればいいのか?

 

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 極端な例を1つあげよう。1945年、ブラジルで奇妙な事件が起きた。8月にメディアが日本の降伏を報じると、サンパウロに日本人の秘密結社「臣道連盟」が結成された。その会員たちは、日本降伏のニュースは日本人の自尊心を打ち砕くために西欧列強が流したデマであると信じていた。2600年におよぶ歴史を通じてただの一度も戦争に負けたことのない日本が負けるはずがあろうか、と。2、3ヶ月のうちにブラジルの日本人移民全体(およそ20万人)が、敗戦を信じない臣道連盟を中心とした勝ち組と、敗戦を受け入れた負け組とに分裂した。両者の間には本物の内戦が勃発し、臣道連盟の殺し屋集団である特攻隊は、「負け組」のリーダーたちを国賊として暗殺しはじめた。数千人の死者を出し、ついにはブラジル政府が直接に介入し「勝ち組」のリーダーたちを国外追放することで、ようやく内戦は収まった。

 この事件で特に不気味なのは、日本が勝ったという幻想を支える為に臣道連盟がとった手段である。彼らは、米国の太平洋艦隊が敗北し、マッカーサー元帥が日本の将校たちの前で頭を下げたことを報じる偽の記事と写真を載せた、偽のライフ誌を発行したのである。これは今現在の日本スゴイ論、中韓の失敗に対する異常な執着、安倍政権への叛乱者に対するバッシングを先取りした――あるいは、ガブリエルの表現を借りれば「日本史の針が巻き戻った」事件ではないか?

 

 

  青葉に代表される暴力者たちは、人間の尊厳を剥奪され「傷つけられた生」を生きている。我々がなすべきことは、凄惨でなまなましい暴力にたじろぎ、パニックになる事ではなく、不幸というものを生きた経験の中から見極めることである。

 だからといって、それを傷つけられた「個人」の物語として還元的に理解しないように留意しなければならない。資本主義における不幸や葛藤を自己完結的な「個人」、あるいは「家族」「学校」「会社」というような狭い社会の問題として捉える限り、いつまで経っても何も見れないだろう。個人の内面性や感情のレヴェルから、それを形成するマクロかつミクロレヴェルの社会政治的環境に対して目を開いたとき、私達は初めてコギトに出会えるのだろう。

 ルサンチマン冷笑主義、感傷性に身を屈してしまうことなく、私たち各自が現在するリアリティに立ち戻り、失われたと思われた未来の姿をいかに可能性の地平に取り戻せるのか。我々は「個人」を取り戻すべきなのだ。アクサンドル・コジェーヴ曰く、現代日本ヘーゲルが夢みた歴史の終焉に最も近い、しかし佐々木中が繰り返し言うようにまだ終わってはいないのだ。

 

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 京都アニメーションの犠牲者を手に掛けた忌まわしい殺戮者の正体が何なのか。映画V・フォー・ヴェンデッタの1シーンと共に見ていこう。大衆が恐怖からファシスト政権を選び取った近未来の英国、そこでアナキストでテロリストのVが国営放送局を乗っ取り、この状況を生み出した犯人が誰か知りたいか?と国民に呼びかける。Vはそれを知るのは簡単だと伝え、こう続ける。「鏡を見るだけでいい」。

 それは単純なマゾヒズムに陥るだけではないか――という懸念をはねのけ、我々はいつまでグローバルに行動し、ローカルに思考できるのか、そして自由になれるのか。このブログを見た才能ある若者が、突破口を探るべく政治に参加してくれることを願う。