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支配されるという特権をだッ!

 スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気 グローバル資本主義原理主義ポピュリズム』90・91項より

ジェイムソンはこの神話を払いのけつつ、こう力説する。コミュニズムにおいては、まさにそれが公正な社会であるかぎりにおいて、ねたみと怨嗟が爆発的に増大するのだ、と。なぜだろうか。

ジャン=ピエール・デュプイは、ジョン・ロールズの正義論に対して次のような説得力ある批判をしている。ロールズの理想とする公正な社会では、社会的不平等が、社会階層の底辺の人々にとって助けにもなっているかぎりにおいて、また、ヒエラルキーの伝承ではなく自然の不平等――これは偶発的に生じたとみなされる不平等であって能力差ではない――にもとづくかぎりにおいて、許容されてしまう、と。だが、ロールズにみえていないのは、そうした社会がいかに抑えのきかない怨嗟(ルサンチマン)の暴発の温床となるかということである。要するに、この社会では、わたしがほかのひとよりも劣った地位に置かれるのは完全に「正当化」されるのであり、そのためわたしは、自分の失敗を社会の不正のせいにする機会を奪われるのである。

ロールズは、もって生まれた性質においてヒエラルキーがあからさまに正当化されるという恐ろしい社会モデルを提示する。これによって彼はフリードリッヒ・ハイエクの重要な教えを見逃してしまう――すなわち、不平等は非個人的で盲目的な力によってもたらされると主張できたほうが、不平等を受け入れるのはずっとたやすくなる、という教えを。

市場の「不合理性」そして資本主義における成功と失敗の「不合理性」のよいところは、これによってひとは自分の失敗や成功を「不当」で偶発的なものとみなせる、ということである。市場とは、計り知れない<運命の女神>の現代版であるというおなじみの見方を思い出そう。要するに、資本主義は「公正」ではないという事実は、資本主義を受け入れることを可能にする重要な特質なのである。

 強調はめてちゃん。

 

例えばインセルが置かれている恋愛的ヒエラルキーに苦しめられる世界。これは資本主義が覆い隠す幻想のヴェールが取り払われた世界――市場における人の失敗や成功を「不当」で「偶発的」なものとする作用が取り払われ、ゆえにまた別の不満が過激に噴出した世界を感じ取れるのは私だけだろうか。

www.huffingtonpost.jp

 >こういった男性はよく、自分たちのことを"遺伝子のくじ引きの敗者"と表現する。

仮にコミュニズム革命が起こって――コモンズをブルジョワ資本による私有から奪回し、連帯した労働者階級が取り戻したとして、また違う形態(例えば生得的な形質)で不平等と差別が勃発するかもしれない。(例えば高い知能や運動能力、美しい容姿の重要性が今よりもより強く現れ、熾烈なヒエラルキーを形成)

 

杉田水脈LGBT差別言説(同性愛者は子供が産めないゆえに生産性がない)が党派的なイデオロギーを超えて様々な方面に刺さっていた事を思い出そう。

 

それでも今の世界よりはよっぽどマシだろうが、なんというか、人生って厳しいわ。

揺らせ激しくクンクン 君の...

 大学一年で恋をした京都の美少年も、本当をいうなら、男の子に限るなら初恋であったけれども、しかし、私は、自分の初恋は高校二年のとき、同級生の少女にしたのだと思っている

 すごくほっそりして、色の浅黒い、ちょっと目がガンチの美少女だった。いや、厳密にいって万人共に認める美少女だったかどうかはわからない。私はその人を、私がそのころ好きだった俳優(男!)に似ていると思いこんでから、好きになったのだから。じっさいは、たいして似てもいなかったはずである。

 その人と私は一年に二回とは口をきいたこともなかった。どういう性格で、どういう家の子なのかもいまだに知らない。静かだが知的で、成績もよかった。

(中略)

 しかし彼女については、とにかく、友達になろうと働きかけることさえしなかった。二年間、一方的に見つめ、あれこれとかって悩んだり悶々としたり、歌を読んだり詩をつくったり彼女のことを小説に書いたりし、あげく、いつのまにか熱がさめて、彼女をみてもまっ赤になることはなくなっているのにふと気がついたのである。とても、レズというようなものではなかった。あれは、そもそも、何だったのだろう。

 あこがれ、というには美化していなかった。彼女の肩のフケまでちゃんと気がついていた。幻想に恋している、というには、夢見る事が少なかった。それでいて、何の新しい発展もなく、その思いは二年間もの間、つづいた。中島梓 美少年学入門 173・174項)

 人間の、特にこどもの頃は、無条件なもの――とりわけ反省し得ないものに胸をつんざかれる事が誰しもあるのではないか。

 

数年前、私はどこでだったか、あるモノクロの実写映像作品を見て途方もない奇妙な感覚に陥った。仔細はよく覚えてはいないのだが、瓜二つの容貌をした双子のおばさんが、二人の共通する幼少期の過去について同時に語る、というものである。

奇妙な事に、その内容はどんどん食い違っていく。細部が異なっているというレベルではない。話の大筋そのもの、行為の主体や対象すら大きく異なり、別のものへと取り違えられている。まるで全く違う出来事を体験しているかのように。二人がズレたタイミングで語り終えた後の間、静寂は不気味で居心地の悪いものだった。

 

中年を過ぎた人間にとって、自分の若い頃の思い出というのは、多かれ少なかれ事実から乖離している。敗北を重ね、やがて狂気とテロルへ陥った全共闘の時代を生きた老人達が、それを場当たり的な若さの暴走と辛酸を舐めた屈辱の記憶ではなく、正義へと拳を掲げた青春の日々として懐古するように。

 

 あこがれ、というには美化していなかった。彼女の肩のフケまでちゃんと気がついていた。幻想に恋している、というには、夢見る事が少なかった。それでいて、何の新しい発展もなく、その思いは二年間もの間、つづいた。

 この思いは一体何なのだろうか。美少年学入門の中で中島梓――栗本薫は、美少年に熱狂しその魅力を分析し、あまつさえ少年派宣言などしてしまうロマンティックな夢見る少女から、地に足の着いた大人へなっていく。初恋を回想している時の彼女は立派な大人となり、悲しいシニカルさすら漂わせている。

そんな大人になった彼女が、夢見る少女であった昔の中島梓の、子供らしい理想化もなく、ただあるがままのものを見つめて、訳も分からず胸を苦しめた初恋のようなものを、あれはなんだったのだろうかと思い返している。

 

よく分からない、無条件なものに惹かれた過去を、尤もらしい理由付けもせず(彼女なら幾らでもそれが出来るだろうに)、肯定も否定もせずに、ただただ不思議がっている。

 

karapaia.com

 偽の記憶を信じる人はそこに感情移入をする事で更に偽の記憶をあたかも真実であるかのように思い込んでい可能性があるという。

 多くの人が”過去の記憶を保持しておきたい”と願うあまり、この事実に目を背け、自身の記憶が絶対的な物だと信じてしまう。

 

記憶とは不安定なものだ。人はこうあって欲しかった、と、慰めるように記憶を少しずつ変えていくような気がする。私にも幾らでも心当たりがある。手当たり次第に膏薬をつけて、これで仕方がなかったと冷笑してみせる。

 

中島梓にとって恐らく何か意味のある記憶が、歪められなかった事に対して、少しうれしく思う。

 

誇りの強要

「誇りを持て」という言葉を至るところで耳にする。

漠然としたイメージとしては、誇りを持つことはよいことのように思える。ポジティヴな自信があるという健全な印象を与える。それは個人を個人たらしめる重要なファクターだ。誇れるものがないよりはある方がよっぽど良い。私も誇らしい人間になりたい。

 

ただ、この言葉は私の知る限りでは大抵ナショナリズムの文脈で用いられる。

「誇りを持て」という言葉の含意は、自らの所属する団体への帰属意識を高める事へのプロパガンダであり、批判や検証を受け付けない宗教的な態度を要請する事であり、更に権威を高める為の罰則を根拠にした脅迫であり、傲慢であり、「コミュニティ」にとっての私利私欲への欲望である。

そこでは否定的な意見は権威とそれを持ち上げる「誇らしい」という感情によって抹殺される。

 

かつて私が所属していた学校では、全校集会の場で校長や教頭、教育指導の人間が前に立つ度に「伝統と実績ある我が校の一員である事に誇りを持ち、それに恥じないような生徒となる事」を啓蒙していた。

偏差値も大して高くない、校舎も古く、設備も上等なものとはお世辞にも言えなかった。褒められるのは図書館の蔵書量くらいだろうか。こんな学校を褒め称える人間が決して少なくないいらしいのは、地域の低俗世を表しているのだろう。

 

校則は前時代的で理不尽に厳しく、教員は人権意識や法の遵守という視野の欠けた野蛮な人間が多かった(授業も雑談もウィットに富んでいて面白く、生き方も好感の持てる先生もいたのだが、おかしな校風に対しては「まぁ、伝統だから」と消極的ながらそれに加担していた。)

ダブルスタンダードを振りかざし、差別意識を欠片も隠さない。そんな教員達のポリティカル・コレクトネスを著しく欠く発言――暴言も子供ながらに疑問に思った。私のようなアウトロー的態度の生徒に対して暴言を吐くのは、まぁ理解は出来る。権威に屈さない人間を権威は忌み嫌う。

ただ、学校の価値観に対して従順に従い、素朴ながらも勉学と部活に励む生徒が、なぜ容姿や生まれを教員から貶されなければならないのだろうか。

私も欠席が多い事を咎められ、暴力を振るわれた事がある。その教員は私が卒業した後の事ではあるが、教育委員会の糾弾を受け、退職させられたらしい。

非難すべき点は幾らでも思いつくが、この辺にしておく。

 

ただ一つだけ言うべき事は、この校風の目的とするところは、社会という抽象的な構造に対しての盲目的な忠誠心を受け付けて送り出す事だ。構造に対しての検証や批判的な視座は、マッチポンプ的に生き永らえている構造にとっては不都合なものである。

彼らの言う「誇りを持て」という言葉を翻訳すれば、権威に屈せよ、という事だった。

 

このエピソードだけなら、ただの時代に取り残され断絶された地方の悲しい出来事として、胸を痛めたとしても他人事として受け止められるかも知れない。

 

新右翼活動家に野村秋介という男がいた。朝日新聞へ押し入り様々な主張(ここでは割愛させて貰う)の為に立て篭り、「皇尊弥栄」を三唱後に拳銃自殺する。

彼の主張の中でこういうものがある「(GHQ・左翼的な自虐史観に対して)じゃあ子供達は一体何に誇りを持つのか。戦勝国側の論理ではなく自分たちの言葉で語らなくては。」

 

「子供達は一体何に誇りを持つのか」――彼は「誇りある国」を求めていた。これからの子供達の為にも。

 

昨今の世の中では「美しい国」など、輝かしい国体を目指すスローガンが多用されている。TV番組や雑誌などでは、日本人である事を誇らしく思うという内容の話が散見される。企業なども、我が社を誇りに思って、その一員である事を意識し、なおかつ経営者目線で働いて欲しいと主張するところは少なくない。その様相は、時折全体主義的なイメージが脳裏によぎる。

 

全体主義というのは、同質性・求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムが、合理的で効率的にコミュニティを維持する為に動いていると。専制や独裁制の変種でもなければ、野蛮への回帰でもない。近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだと、アーレントは説いている。

 

コミュニティは良いものだ。志を同じくした仲間と、楽しい時間を共有出来る。

楽しい時間を提供してくれたコミュニティには自然に帰属意識が芽生え、そこにいられる事を、誇らしく思う。

悪いのは、コミュニティへの参加を強要されることだ。

 

自由に参加、構成したコミュニティであれば、嫌になれば抜ける事も出来る。ただ、大きな枠組み、とりわけ国というものから抜け出す事は難しいし、国の動きは自分のあらゆる事に影響する。大きいがゆえに、自分では儘ならないそれに「誇りを持て」という。

 

抜け出す事が難しいと言えば、家族である。

家族という枠組みに対しても、一番に帰属意識を向けるべきものと信仰される。

親は子供に、自分達を誇らしく思って欲しいと冀う。同じく子供も、両親から愛され、誇りに思って貰える事を冀う。そのイデオロギーの前では多くの問題と悲鳴が見えないものとして、捻じ曲げられ、矮小化され、抹消される。

 

誇らしく思う事を強いるのは、誇る事だ。

誇るという事は、外面に向かって為される行為だ。

「ほら、こんなに凄いんだよ。こんなに幸せなんだよ。」と。

 

何が凄くて何が幸せなのかくらいは、自分で決めたい。

諸刃の希望、バーチャルYoutuber(2)

めておちゃんねるの..... めておだよ!!!

 

前回の記事ではバーチャルYoutuber(以下Vtuberとする)を人間の本質を切り落とした俗悪なものとこき下ろした。

皆様方には是非"本物"の人生を生き、その美しい時間を動画として切り取った輝かしいYoutuber達を見て、そして胸の奥に滾る何かを何卒感じ取って頂きたい。

今回は私が厳選した、至高の領域に達したYoutuberの中でも一際特徴的な存在感を放つ4人を簡単にではあるが紹介する。

 

オフ会0人 大物Youtuber syamu_game

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アドラー心理学の生んだサイコパス カツドン 

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人類史上初めて集団ストーカーに襲われた男 aiueo700

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 ZEUS!! たれぞう

 

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動画内での彼らの生き生きとした姿は、100年後の人々にも啓蒙と滋味を振り撒く古典として残り、私達の胸の跳ね馬を踊り高ぶらせたのと同じように感動を与えているだろう。

 

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諸刃の希望、バーチャルYoutuber(1)

「アイドルはうんこしない」――かつて私はこの言葉を耳にして腹を抱えて笑った。

何故笑ったか、コノテーションを理解出来なかったからである。それくらい――昔の私は純真で物を知らなかった。

俗悪な願いだと理解してはいるが、私はいつもアイドルのようになりたいと思う。

芍薬のような凛とした背筋、すらっと長い白い手足、明晰な頭脳、気高く咲き誇る白百合のような天真爛漫――ルーちゃん!!!!!

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有限のうちに落ち込む絶望は、自己を世間に「騙り取らせる」。その結果、ひとは自己自身であろうとするのではなく、他の人びと同じにしているほうが気楽で安全だと思い込んでしまう。

世間は知的、「美的」な偏狭さに無限の価値を与え、唯一の必要なもの、すなわち神への理解をもたず、自己自身を失っている。しかし、こうした絶望に対して世間は気づいていないし、それゆえにこそ世間の人びとは器用に立ち振る舞うことができるのだ。

キルケゴール 死に至る病より引用

私はルーちゃんになりたいと常々願い、公言している。馬鹿馬鹿しいとお思いだろうか。

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貴重な学生時代を原宿で過ごせないなんて地方の子はかわいそう

皆様方に座右の銘はあるだろうか。常に自分の心に留めておいて戒めや励ましとする言葉からは、その人間の人となりやアイデンティティが噴出する。だからユニークなものがいい。

私の座右の銘は「一度きりの学生時代を原宿で過ごせないとか田舎の子って可哀想」というセンテンスだ。ここまで心の奥底から頷ける強烈で含蓄那由多な言葉は、中々あるものではない。正確な情報は調べてみても分からなかったが、とあるJK読モが言った言葉らしい。

私はこの言葉をとても気に入っており、少し表現を変えて「貴重な学生時代を原宿で過ごせないなんて地方の子はかわいそう」と定期的にツイートしている。私の悲劇的なイデオロギーの根源を忘れない為に。

 

「一度きりの学生時代を原宿で過ごせないとか田舎の子って可哀想」――子供らしい素直さと高邁さと傲慢さが率直に出ている。私はこのセンテンスから大別して3つのイデオロギーを感じ、読み取った。

1つ目は「かわいさ至上主義」2つ目は「東京至上主義」3つ目は「青春至上主義」適切な表現とは少しズレているように思えるし、納得もいかないが他の表現を思いつかない……きゅう。そこは一旦置いておいて、どのイデオロギーも私の根底に流れるものだ。これらを簡単にではあるが説明しよう。

 

・1 かわいさ至上主義

頭いい人や(バカ特有の表現)女性解放主義者やポリコレマンが暴れているお陰で、まだまだ不十分ではあるが世界は公平に近付いている。(Desexualizationを是と盲信する主義やPC校長的な過剰さなど異を唱えたい事も多いが)

 

絶対的なものなどこの世にないかのように思えてくる時もある。

だが覆し難い価値観が存在するかわいいは正義

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この言葉はかわいい少女を描くロリコンまんが、苺ましまろのコピーであり、業界を超えて多くの人に伝わり世に広く啓蒙をもたらした。

古来より人はかわいいのお陰で一喜一憂し、人生を振り回されてきた。媚薬であり麻薬のような抗い難い魔力を放つもの、それがかわいい。男も女も関係なく求める力。

苺ましまろの作者ばらスィーは、繊細で精緻なタッチで絶対的な正義である少女を描く。ばらスィーだけではない、絵を描くものは、少女を理想的なものとして、時としてファナティックな崇拝を感じさせる程の情熱で描く。

 

少女は美やかわいさの典型であり極致というイデオロギーは、多くの支持を得ている。それはルッキズムを強力に補い支える。そして――どこの国でもそうだが、特に日本はルッキズムに支配されている。

 

原宿は個性的でかわいいが集まる街だ。

かわいい女の子、かわいい男の子も、変わったかわいいファッションやアイテムがたくさん。かわいいものに身を包み、SNOWなどで更にかわいさを増し、アイデンティティをかわいさで発露する少女たちが、かわいいものに囲まれて乙女時代を楽しむ光景は、さながらキッチュ野郎が脳内に描く天国の様相を魅せる。

 

さて、ならばかわいくないものは悪だろうか、対偶としてはそうはならないが……

だが皆様方もご存知の筈だ。かわいくないものがどう扱われるか。かわいさの素晴らしさによって、かわいさによるマチズモが世を覆っている現実を。

正義の為なら、人はどこまでも残酷になれる。

 

 

・2 東京至上主義

これを説明するには「原宿で過ごせないとか」は別に「池袋で過ごせないとか」「田園調布で過ごせないとか」でもいい。大阪などの大都市は兎も角(大阪民国は法や秩序を理解しない下劣な野蛮人の集合体だと思っているので個人的に好きではないが)、地方や田舎で暮らす意義が薄いのは説明するまでもないだろう。

文化・流行・豊かさ…… どれを取っても地方や田舎より東京の方が遥かに優れている。自然だってちょっと東京を出れば容易にアクセス出来る。ゆえに東京或いはその近辺に住めない二級市民である事を期待されて産み落とされた子供達は、哀しく、かわいそうな存在だ。

 

ソシュールの言語論からは、言語とは差異を示すシステムという事が読み取れる。

日本語では蝶と蛾、英語ではButterflyとmothと区別するが、フランス語ではどちらもpapillonと呼ぶように。言語の比較は価値観の違いを示す。

地方のテレビ番組でもマスマディアは東京の言葉・言語ばかりを伝えるのは、そういう事だ。

 

ちなみに、テコンダー朴の原作者であり21世紀を代表する義士である白正男は、原宿をオシャレ上級者の集う街と評している。私も原宿が好きでよく訪れているし、服も原宿系のブランドを好んで選んでいる。ちなみにankorockやListenFlavorとかACDCrag辺りをよく買います。パンダ系が好きでパンダのタイツとかゾンビパンダパーカーとかパンダのジャケットとかパンダのハンカチタオルとか、めっちゃ持ってます。SAKUPANは受け付けない。

 

 

・3 青春至上主義

若さゆえの万能感、感受性の豊かさ、七難隠すみずみずしい容姿…… 青春と呼ばれる時分はそれらが備わっている最高に楽しい時間である。

ジャネーの法則に拠ると、人は20歳で一生の体感時間の半分を消費する。10代までの若い時期というのは人生の大半を決定させる程に狂気的に濃い段階だ。

青春を上手くやれれば、それは掛け替えのない成功体験となり人生を肯定するには十二分な要素となるだろう。

 

だがもしそうならなかったら、貴重な青春をドブに捨ててしまったら。

 

幼児期や青春時代に手に入れられず悔しさを覚えたものに、人は生涯執着するらしい。

マクギリス・ファリドは言う「嫉妬、憎悪、汚辱に恥辱……消えない過去に縛られて、輝かしいはずの未来は、全て、愚かしい過去の清算にのみ消費される。」

虚しい青春ゆえのオブセッションを晴らす為に人生のリソースを費やす日々へ突入せざるを得ない人間は、決して少なくない筈だ。

 

 

 

・まとめ

私はウクライナやアジアのイスラム系国を経た後、日本の文化後進地区サテライトで人生の大半を過ごした。だから原宿で一度しか無い輝かしい青春を過ごしている彼女達が、羨ましい。時折遮ってしまいたくなる程に。

彼女達にとって、私は惨めでかわいそうと哀れまれるような存在なのだろう。

 

でも

でも……!!

 

ときめきは消せないよ

すべてが奪われたとしても 何度も何度でも出会うんだから

嘘ついて生きるのは下らない...

 

わたしアンチテーゼ・エスケイプ カワイイだけじゃもう足りない!!

この手で守り抜いてみせるの!

決めた!アンチテーゼ・エスケイプ ずるい涙は武器じゃない!!

ウラハラシック! サイコー!つらぬけ!

 

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 やっぱ原宿、サイコー!!!!!

 

 めておちゃんは、闇カワイイを目指しています。

 ちなみに、余所行き用の座右の銘は「板子一枚下は地獄」です。