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心臓を洗い、喉を切り裂け。みやこと花 、愛の革命の闘争(上)

「……そう。君は、その道を選んでしまったんだったね」

「ここから、すべてが始まったんだね」

「……でも、当然、君にはこの後何が起こるかなんてわからなかった」

「たった1つの可能性。たった1人の君が何をしていくのか、わかるはずもなかったよね」

「……なにも知らない君は、ここから、すべてをたどるべきだと思う」

「次に君がたどる道こそ、君にとってのはじまり」

「君は当たり前のように声をかけて、そして幸せな人生がはじまる……はずだった、あるセカイのお話、だよ」

ケムコ・ウォーターフェニックス『最悪なる災厄人間に捧ぐ』より

 

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あなたは『私に天使が舞い降りた!』の最終話をご覧になっただろうか。もしも視聴していないのであれば、あなたはもう既に老いて死にゆくだけの存在である。冗談を言っているのではない。世界精神に触れるような偉大なる芸術作品に触れる事に対してすら、感受性は鈍く焔のように魂が燃え上がっていかず、無駄な知識だけを蓄えた頭は下を向いていて、腰も重く中々立ち上がろうとしない。人はこうやって老いて死んでいく。だがあなたの心にまだ微かにでも炎が宿っているのなら、今すぐにAmazonPrimeでもニコニコでも何でもいいから勤務先を爆破してでも親を質に入れてでも視聴するべきだ。これはまだ生を望む全人類が可及的速やかになすべき責務である。

 

本稿はTVアニメ『私に天使が舞い降りた!』の記事である。

このアニメの主人公みやこと花ちゃんの愛について書いた記事である。

それにも関わらず泣いている子供の幸せを願って書いた記事である。

生物学者の統計によると、生物種の平均寿命はおよそ400万年である。人類がやってきて未だ20万年程度しか経過していない。80歳の老人から見れば我々は4歳の子供である。4歳の子供は泣きながら言う「もはや歴史は終わった。我々は何をなすべきか分からない、何も出来ない、どこにも行けない。我々は破滅の危機の最中に在る」

そう言いながら泣き叫ぶ、子供は迫る魔物の影に怯えている。絶望している。

 

眼の前の子供は泣いているが、さてあなたは幸せだろうか?

わたてん最終話の余韻に浸っているのなら、「ええ、とても幸せな気分だ!」と言うだろう。だが、気分ではなく、あなたの人生は? 場末も場末の、こんなブログに辿り着くのだから、心の底から幸せと言い切れはしない人ではないだろうか。むしろかわいそうな人ではないだろうか。顔も知らないあなた、声も聞いたことのないあなた。無礼を承知で言うが、恐らくきっとこんな人だろう

  ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。

例えそれでも、ほんの少し何かが違えば、たった1つ選択を間違えなければ、満足いく幸せな人生を謳歌していたかもしれない。どれだけ悔やんでも時を巻いて戻す術はない。だからそこから全てを、ねじれたキューでゲームを再開しよう。泣いている子供にハンカチを差し出してやる為に。理不尽に泣く子供が二度と現れないように。あなたはこの記事を読み進める事で1つの使命を帯びる事になる。天使に託された使命を為す事になるのだ。

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対象領域の拡大

しかし語や句の効果について不安を感じる時がしばしばあるものだ。直感で事足りない時にたよれる規則が必要である。たいていの場合に次の規則で間に合うだろう――

一、印刷物の上で見なれている隠喩や直喩やその他の修辞をけっして使うな。
二、短い語で十分な時はけっして長い語を使うな。
三、一語削ることが可能な場合にはつねに削除せよ。
四、能動態を使える時はけっして受動態を使うな。
五、相当する英語の日用語を思いつける場合には、外来の区や科学用語や専門語をけっして使うな。
六、野卑むき出しの言葉遣いをするくらいなら、これらの規則のどれでも破れ

 

これらの規則は幼稚に見えるし、事実また初歩的であるけれども、今流行の文体で書きなれた人に、態度を根底から改めるよう要求するものである。これらの全部を守っても悪文を書くことはあるかもしれないが、この評論の最初に五つの見本として引用したあのようなしろものは、書かずにすむだろう。

私がここで考察しているのは、言語の文学的用法についてではない。考えを隠したりはばんだりするためではなくて、表現するための道具としての言語について考察しているにすぎない。

(中略)

政治の言葉は――さまざまな違いはあっても、保守党員からアナキストに至るまでのあらゆる政党について言うることであるが――嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質の具わったものに見せようという意図をもっている。こうしたことをすぐに変えることはできないが、少なくとも自分自身の習性を改めることはできるし、また時には、十分に大きな笑いで嘲笑すれば、使い古された無用の語句――「長靴」「アキレスのかかと」「温床」「るつぼ」「酸試験」「まごうかたなき地獄」その他のがらくた言葉――を、それらの属するべきごみ入れへ送り込むことさえできるのである。

(G・オーウェル『政治と英語』より引用)

 

槍玉に上げられた悪文の例を1つ引用する。

一方にあるのは自由な個性である。定義上それは神経症ではない。なぜなら矛盾も夢も持っていないからである。そこにあるもろもろの欲望は透明である。なぜならそれらはまさに制度的是認が意識の全面に留めておくところのものであるからだ。制度的型が変わればそれらの数も強さも変わるだろう。それらには自然なもの、転化できないもの、文化的に危険なものはほとんど含まれていない。しかし他方、社会的紐帯そのものはこういう安定した自己充実の相互繁栄以外の何者でもない。愛の定義を思い起こしていただきたい。それはかわいそうな学生の姿そのものではないか。その鏡の間に個性や友愛の占める場所があるだろうか

(『ポリティクス』(ニューヨーク)所載の心理学に関する評論)

 

随分と手厳しい、耳が痛くなるような主張だ。どこぞの精神分析家に聞かせたい。

だがオーウェルの言葉の切っ先の鋭さが、幻想のヴェールを引き裂き示してくれる――空虚を埋めるのは、バカバカしい事だが空虚な言葉だということを。